広瀬常と森有礼 美女ありき10の続きです。
まずは河内山雅郎氏がお送りくださいました原本の画像から。
「第五大區小三區下谷青石横町加藤泰秋長屋 静岡縣士族広瀬冨五郎長女 広瀬常女 申歳拾六」
fhさまのご指摘通り、「長屋」でした! ありがとうございます。
となりますと、「女学校生徒俵」の方には、「宿所 第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」と、ありまして、開拓使女学校時代の広瀬家の住まいは、元大洲藩上屋敷、加藤泰秋邸の門長屋であった、と断言できます。
森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上を書きましたときから、青石横丁が小三区ではありませんことにとまどい、あるいは元大洲藩邸の門長屋なのでは? と思いつつ、確証のないまま、広瀬常と森有礼 美女ありき1で、妄想の形で書いたことだったんですが、はっきりしたと思います。
下は、「明治八年 東京区分絵図」の第五大區部分です。(江戸から東京へ 明治の東京―古地図で見る黎明期の東京 (古地図ライブラリー)より)
地図の真ん中左手、細く水色で塗っていますのが青石横丁です。西黒門のあたりから、下谷中徒町を元大洲藩邸「加藤家」に向かっています。この緑色で塗られた部分は七小区です。
赤い線が小区の境界でして、六小区と三小区が同じ紅色で塗られていてわかり辛いのですが、「加藤家」のすぐ上の路地に赤い境界線がありますので、「加藤家」は三小区です。
そして、緑ベタの七小区と紅ベタの三小区の堺を縦に走っています通りが、泉橋通です。地図は切れていますが、この通りをずっと下へたどりますと、神田川にかかる和泉橋があるんです。
つまり、当時広瀬一家が住んでいましたのは、青石横丁の突き当たり、泉橋通に面した、加藤泰秋邸の門長屋、ということになります。住所でいえば、三小区下谷徒町です。
明治8年の加藤泰秋邸の敷地は、幕末の東都下谷絵図の大洲藩上屋敷の敷地を、そのまま保っています。
加藤泰秋は、珍しく、大正時代まで、この上屋敷を自邸にしておりまして、広瀬一家が加藤家の長屋に住んでいたといいますことは、後述しますように、加藤家に傭われていた可能性が、非常に高いのです。
で、前回書きましたが、武田斐三郎が住んだと思われる元大洲藩中屋敷なんですが、「加藤家」の右、陸軍造兵司御用地(元佐竹右京太夫上屋敷)の左の区画にありました。住所は下谷竹町です。この明治8年の地図では、消えています。
次に、広瀬寅五郎の職歴です。
広瀬寅五郎 子年四十三 高三十俵三人扶持内○二人扶持元高○扶持御足扶持外役扶持三人扶持 本国生国共下野
嘉永七寅年十一月御先手紅林勘解由組同心 安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役 元治元子年四月講武所勤番被仰付候 ○田安仮御殿於焼火之間○衆中○被仰渡 同年五月講武所勤番組頭勤方見習○候旨井上河内守被仰渡候段沢左近将監申渡 同年八月箱館奉行支配定役被仰付候御書付被仰渡候旨赤松左衛門尉申渡候
これにつきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき1の内容を訂正しなければいけないことが、かなりあります。
まず、御先手紅林勘解由組同心なんですが、紅林勘解由について調べてみましたところ、紅林桂翁(勘解由)が弘化4年(1847)に御先御鉄砲頭(御先手筒頭)になっていまして、安政3年(1856)に病気で引退しますまでこの役についています。
紅林勘解由の名と家督を継ぎましたのは、どういうわけか実子の養子、つまりは養孫だったようでして、この人が砲術教授方を勤めていますので、フランス兵式に関係していますのは、こちらのようです。
次いで、箱館奉行所の職制について、わかっていなかったことが多々ありまして、以下、参考書は新北海道史二巻 通説一(昭和45年、北海道編集発行)です。
安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役の「調役下役」は、安政6年(1859)4月に「定役」と改称されました。「出役過人」の部分は、意味するところが、いまだによくわかっておりませんで、どなたか、ご教授のほどを。
ともかく、安政何年かに箱館奉行所に転任になりました時点で、寅五郎は、すでに同心からぬけだし、定役か、それに近い身分になっていた、ということのようです。
以下に、函館奉行支配の属使を身分順にあげます。
組頭 組頭勤方 調役 調役並 調役下役元締 調役下役(定役) 同心組頭 同心 足軽
もう一つ、箱館奉行所の定役といいましても、箱館在勤とは限らず、室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)の10支所に長として調役が配され、そのうち室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷には、それぞれ3~5個所の調役下役(定役)常駐支所があり、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)の調役の下にも、それぞれ2~4名の調役下役(定役)がいた、ということです。各地、その調役下役(定役)の下に同心、足軽がいます。
これに箱館在勤者が加わりますから、調役下役(定役)は数十人にのぼったわけです。
幕府が、安政2年(1855)、松前藩の支配としていました蝦夷地(北海道)の大部分を再上地させ、箱館奉行の管轄としましたときから、もしかしますと、武芸がすぐれている上に事務処理に長けた者が、僻地勤務覚悟で箱館奉行所赴任を志願しますと、同心身分からぬけ出しての出世が早かった、のかもしれません。
で、広瀬寅五郎=冨五郎としまして、です。
明治5年に元大洲藩主・加藤泰秋に傭われているらしいことについて、勝之丞さまからアドバイスをいただきました。
同心株を買ったということは、樋口一葉の父親と同じく、財産管理の事務処理において、かなりのやり手だったのではないか、ということなんです。
さっそく、下の本を読み返してみました。
甲州の中農の家に生まれた一葉の父・大吉(則義)は、同村の娘・あやめと惚れあいましたが、あやめの親が結婚を許さないままに、妊娠8ヶ月。駆け落ちして江戸へ出て、まず幕臣株を買って蕃書調所に勤務していた郷里の先輩を訪ね、大吉はしばらくそこで働き、あやめは子供を産んだ直後から、旗本の家へ乳母奉公に上がります。
次いで大吉は、大番組与力に仕えて一年ほど大阪城勤めをし、江戸に帰って、勘定組頭・菊池氏の個人秘書を務め、菊池氏が大目付兼外国奉行に昇進すると、公用人に抜擢されたといいますが、この間、あやめは奉公をやめて、菊池邸内の長屋に、夫とともに住むようになりました。
大吉は、これによって同心株を買うだけの蓄財をしたわけなのですが、定められた武家奉公の給金だけで、貯まるものでもないでしょう。
武家奉公には、その家の管財も含まれます。
大吉が同心株を買って、陪臣ではなく、幕臣となりましたのは、慶応3年のことで、翌年には明治維新です。
大吉は、そのまま新政府に仕える道を選び、やがて東京府の役人になりますが、明治9年に免官となった後、金融、土地売買、近所の寺院の貸地の差配などをしたといいます。
おそらくは、なんですが、広瀬寅五郎もそういった武家奉公で蓄財し、同心株を買ったのでしょうし、土地売買や貸地の差配など、財産管理の能力を買われて、明治4年の廃藩置県で、財産整理の必要があった加藤家に傭われたのではないのでしょうか。
娘の常が森有礼と結婚して後の話なのですが、広瀬秀雄が、森家の財産、家政管理をしているらしいことが、有礼の家族宛書簡(「新修森有礼全集」収録)でうかがえます。
以前にも書きましたが、当時の高級官僚はものすごい俸給をもらい、かつての大名屋敷の払い下げを受け、暮らしも財産も小大名級なんです。江戸の武家奉公で財産管理に慣れ、本物の大名・加藤家のそれも任されていたとしましたら、有礼の信頼を得たのも、頷けるように思うのです。
最後に、あるいは妄想のしすぎかもしれないのですが。「大洲市誌」によりますと、明治24年(1891)、常が有礼と離婚して5年後のことになるのですが、加藤泰秋は突然、北海道虻田郡幌萌に広大な農場、真狩村にもっと広大な牧場を買い、かつての大洲藩領から開拓民を募りました。これって、広瀬秀雄がらみではないのだろうか、と、ふと思ったりしました。
続きます。
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まずは河内山雅郎氏がお送りくださいました原本の画像から。
「第五大區小三區下谷青石横町加藤泰秋長屋 静岡縣士族広瀬冨五郎長女 広瀬常女 申歳拾六」
fhさまのご指摘通り、「長屋」でした! ありがとうございます。
となりますと、「女学校生徒俵」の方には、「宿所 第五大區小三ノ區下谷泉橋通青石横丁大洲加藤門」と、ありまして、開拓使女学校時代の広瀬家の住まいは、元大洲藩上屋敷、加藤泰秋邸の門長屋であった、と断言できます。
森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上を書きましたときから、青石横丁が小三区ではありませんことにとまどい、あるいは元大洲藩邸の門長屋なのでは? と思いつつ、確証のないまま、広瀬常と森有礼 美女ありき1で、妄想の形で書いたことだったんですが、はっきりしたと思います。
下は、「明治八年 東京区分絵図」の第五大區部分です。(江戸から東京へ 明治の東京―古地図で見る黎明期の東京 (古地図ライブラリー)より)
地図の真ん中左手、細く水色で塗っていますのが青石横丁です。西黒門のあたりから、下谷中徒町を元大洲藩邸「加藤家」に向かっています。この緑色で塗られた部分は七小区です。
赤い線が小区の境界でして、六小区と三小区が同じ紅色で塗られていてわかり辛いのですが、「加藤家」のすぐ上の路地に赤い境界線がありますので、「加藤家」は三小区です。
そして、緑ベタの七小区と紅ベタの三小区の堺を縦に走っています通りが、泉橋通です。地図は切れていますが、この通りをずっと下へたどりますと、神田川にかかる和泉橋があるんです。
つまり、当時広瀬一家が住んでいましたのは、青石横丁の突き当たり、泉橋通に面した、加藤泰秋邸の門長屋、ということになります。住所でいえば、三小区下谷徒町です。
明治8年の加藤泰秋邸の敷地は、幕末の東都下谷絵図の大洲藩上屋敷の敷地を、そのまま保っています。
加藤泰秋は、珍しく、大正時代まで、この上屋敷を自邸にしておりまして、広瀬一家が加藤家の長屋に住んでいたといいますことは、後述しますように、加藤家に傭われていた可能性が、非常に高いのです。
で、前回書きましたが、武田斐三郎が住んだと思われる元大洲藩中屋敷なんですが、「加藤家」の右、陸軍造兵司御用地(元佐竹右京太夫上屋敷)の左の区画にありました。住所は下谷竹町です。この明治8年の地図では、消えています。
次に、広瀬寅五郎の職歴です。
広瀬寅五郎 子年四十三 高三十俵三人扶持内○二人扶持元高○扶持御足扶持外役扶持三人扶持 本国生国共下野
嘉永七寅年十一月御先手紅林勘解由組同心 安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役 元治元子年四月講武所勤番被仰付候 ○田安仮御殿於焼火之間○衆中○被仰渡 同年五月講武所勤番組頭勤方見習○候旨井上河内守被仰渡候段沢左近将監申渡 同年八月箱館奉行支配定役被仰付候御書付被仰渡候旨赤松左衛門尉申渡候
これにつきましては、広瀬常と森有礼 美女ありき1の内容を訂正しなければいけないことが、かなりあります。
まず、御先手紅林勘解由組同心なんですが、紅林勘解由について調べてみましたところ、紅林桂翁(勘解由)が弘化4年(1847)に御先御鉄砲頭(御先手筒頭)になっていまして、安政3年(1856)に病気で引退しますまでこの役についています。
紅林勘解由の名と家督を継ぎましたのは、どういうわけか実子の養子、つまりは養孫だったようでして、この人が砲術教授方を勤めていますので、フランス兵式に関係していますのは、こちらのようです。
次いで、箱館奉行所の職制について、わかっていなかったことが多々ありまして、以下、参考書は新北海道史二巻 通説一(昭和45年、北海道編集発行)です。
安政○年九月箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付○定役の「調役下役」は、安政6年(1859)4月に「定役」と改称されました。「出役過人」の部分は、意味するところが、いまだによくわかっておりませんで、どなたか、ご教授のほどを。
ともかく、安政何年かに箱館奉行所に転任になりました時点で、寅五郎は、すでに同心からぬけだし、定役か、それに近い身分になっていた、ということのようです。
以下に、函館奉行支配の属使を身分順にあげます。
組頭 組頭勤方 調役 調役並 調役下役元締 調役下役(定役) 同心組頭 同心 足軽
もう一つ、箱館奉行所の定役といいましても、箱館在勤とは限らず、室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)の10支所に長として調役が配され、そのうち室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷には、それぞれ3~5個所の調役下役(定役)常駐支所があり、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)の調役の下にも、それぞれ2~4名の調役下役(定役)がいた、ということです。各地、その調役下役(定役)の下に同心、足軽がいます。
これに箱館在勤者が加わりますから、調役下役(定役)は数十人にのぼったわけです。
幕府が、安政2年(1855)、松前藩の支配としていました蝦夷地(北海道)の大部分を再上地させ、箱館奉行の管轄としましたときから、もしかしますと、武芸がすぐれている上に事務処理に長けた者が、僻地勤務覚悟で箱館奉行所赴任を志願しますと、同心身分からぬけ出しての出世が早かった、のかもしれません。
で、広瀬寅五郎=冨五郎としまして、です。
明治5年に元大洲藩主・加藤泰秋に傭われているらしいことについて、勝之丞さまからアドバイスをいただきました。
同心株を買ったということは、樋口一葉の父親と同じく、財産管理の事務処理において、かなりのやり手だったのではないか、ということなんです。
さっそく、下の本を読み返してみました。
樋口一葉 (1960年) (人物叢書 日本歴史学会編) | |
塩田 良平,日本歴史学会 | |
吉川弘文館 |
甲州の中農の家に生まれた一葉の父・大吉(則義)は、同村の娘・あやめと惚れあいましたが、あやめの親が結婚を許さないままに、妊娠8ヶ月。駆け落ちして江戸へ出て、まず幕臣株を買って蕃書調所に勤務していた郷里の先輩を訪ね、大吉はしばらくそこで働き、あやめは子供を産んだ直後から、旗本の家へ乳母奉公に上がります。
次いで大吉は、大番組与力に仕えて一年ほど大阪城勤めをし、江戸に帰って、勘定組頭・菊池氏の個人秘書を務め、菊池氏が大目付兼外国奉行に昇進すると、公用人に抜擢されたといいますが、この間、あやめは奉公をやめて、菊池邸内の長屋に、夫とともに住むようになりました。
大吉は、これによって同心株を買うだけの蓄財をしたわけなのですが、定められた武家奉公の給金だけで、貯まるものでもないでしょう。
武家奉公には、その家の管財も含まれます。
大吉が同心株を買って、陪臣ではなく、幕臣となりましたのは、慶応3年のことで、翌年には明治維新です。
大吉は、そのまま新政府に仕える道を選び、やがて東京府の役人になりますが、明治9年に免官となった後、金融、土地売買、近所の寺院の貸地の差配などをしたといいます。
おそらくは、なんですが、広瀬寅五郎もそういった武家奉公で蓄財し、同心株を買ったのでしょうし、土地売買や貸地の差配など、財産管理の能力を買われて、明治4年の廃藩置県で、財産整理の必要があった加藤家に傭われたのではないのでしょうか。
娘の常が森有礼と結婚して後の話なのですが、広瀬秀雄が、森家の財産、家政管理をしているらしいことが、有礼の家族宛書簡(「新修森有礼全集」収録)でうかがえます。
以前にも書きましたが、当時の高級官僚はものすごい俸給をもらい、かつての大名屋敷の払い下げを受け、暮らしも財産も小大名級なんです。江戸の武家奉公で財産管理に慣れ、本物の大名・加藤家のそれも任されていたとしましたら、有礼の信頼を得たのも、頷けるように思うのです。
最後に、あるいは妄想のしすぎかもしれないのですが。「大洲市誌」によりますと、明治24年(1891)、常が有礼と離婚して5年後のことになるのですが、加藤泰秋は突然、北海道虻田郡幌萌に広大な農場、真狩村にもっと広大な牧場を買い、かつての大洲藩領から開拓民を募りました。これって、広瀬秀雄がらみではないのだろうか、と、ふと思ったりしました。
続きます。
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