郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

映画「海角7号」君想う、国境の南

2010年10月16日 | 映画感想
 「半次郎」で、そういえば去年も東京で映画を見て失敗したなあ、と思い出しました。
 
 
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 かなり期待していたのですが。ひたすら眠くなった駄作です。
 アマゾンのレビューの中で、男性の方が「スッキリとした満足感からはほど遠かった。 自分が男性だからかもしれないですが」と書いておられますが、いいえ、男性だからじゃありません。女が見ても駄作は駄作です。
 「特にトム・ルフロイ(ジェームズ・マカヴォイ)には、八割がた共感できなかった」って、まったく同感です。ついでに、アン・ハサウェイ演じるジェインにも。
 この監督さん、「情愛と友情」や、BBCドラマ「大いなる遺産 」は、なかなかよかったんですのに。
 ついでに言えば、「つぐない」のジェームズ・マカヴォイはよかったですし、「プラダを着た悪魔 」のアン・ハサウェイもステキでしたのに。
 ほんとうに、映画ってわからないものです。

 口直しに、期待が裏切られませんでしたお話を。
 今年見た映画の中で、といっても、今年はほとんど映画館に足を運んでいませんので、最近見た新作映画の中で、と言い換えた方がいいんですが、台湾映画「海角七号/君想う、国境の南」は、いい映画でした。
 松山へ来るかどうか心配していたのですが、「長州ファイブ」をやってくれた小劇場に、今年の春になってかかったんです。これだけはと、時間を作って見に行きました。

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【台湾映画】『海角七号/君想う、国境の南』日本上映(公開)予告PV



 YouTubeで本編の一部もたっぷり見て、ネット上でさんざん評判も読んで、映画としての出来に危惧がなかったわけじゃあないんです。

 60数年前、日本の敗戦によって台湾を引き上げた日本人の若い教師が、教え子の台湾人女性・友子に恋をし、心ならずも彼女を残して台湾を離れ、その思いのたけをつづったラブレターを、出すことなく生涯を終えました。父親の遺品の中にそれを見つけた娘が、初めて若き日の父の思いを知り、手紙をそえて、「海角七号」という植民地時代の台湾の住所に発送します。
 そして現代。台北でバンドデビューをめざしたアガが、夢破れて故郷の恒春へ帰り、郵便配達のアルバイトをして日本から来た古いラブレターの束を手にしますが、60年の歳月は長く、その住所に彼女はいません。
 故郷に居場所を見いだせず悶々としていたアガは、町起こしのための地元バンド結成騒動にまきこまれ、個性的なバンドメンバーたちとの奮闘の中で、自分をとりもどしていきます。
 現代の日本人女性・友子は、台湾でモデルになる夢が破れ、行きがかり上、素人バンドのマネージャーをすることになったのですが、次第にアガに引かれ、同時に行き先のわからない古いラブレターの存在を知ります。

 昔の恋人たちの思い出を、現代の恋人たちが共有するわけなのですが、現代の話は、恋物語よりも、素人バンドのメンバーたちのそれぞれの表情を、コミカルに描く方に重点がおかれ、しんみりとした過去の話とうまくとけあっていない、というような批評も見受けられましたし、現代の日本人女性がヒステリックに描かれすぎて、感情移入できない、という感想もありました。
 実際、現代日本人役の田中千絵、けっして上手い演技ではないですし、過去の日本人教師と、現代ではシンガーとしての本人、二役を演じる中孝介も、なぜか本人役の方のセリフが、妙に素人くさすぎたりもしました。
 しかしそんなことはどうでもよくなってくるほどに、熱いものが伝わってくる映画でした。
 
 見ていて、思わず「これって、ナッシュビル!」と叫びそうになったくらいで、ひさびさに、ロバート・アルトマンの傑作「ナッシュビル」を思い出しました。
 アメリカのカントリーミュージックのメッカ・ナッシュビルで、大統領選挙のキャンペーン・コンサートが行われることになり、全米から人々が集まってきます。24人の5日間を追った群衆劇です。シニカルな、突き放した描写で、断片的なエピソードを積み上げながら、「アメリカ」という国のあり方を、切り取って見せてくれました。
 確かにアルトマンは、登場人物を冷笑の対象として描いているのですが、見終わると不思議に、「ああ、人間はみんな、必死になって生きているんだよなあ」とでもいった感慨に満たされます。
 ラスト、田舎出の歌手志願のさえない女が、偶然の成り行きから大観衆の前でマイクを持ち、ド迫力な歌声だけで巫女のように場を支配してしまう、その圧倒的な歌の力が、愚かな人間たちが織りなす欲望の混沌でさえも、愛しいものに変えてしまったのだと……、そんな気がするんですよね。

 『海角七号」のテーストは、「ナッシュビル」とはまったくちがいます。
 混沌は混沌なのですが、登場人物それぞれにそそがれる視線は、ふんわりと、暖かなもので、むしろ感傷的でもあり、わかりやすく、楽しいドラマに仕上がっています。
 ただ、『海角七号」が描いているのも、「台湾」という国のあり方なのです。
 主人公のアガもそうなのですが、バンドメンバーには複数の少数民族がいます。
 台湾という九州より小さな国は、多民族移民国家です。

 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編で書きましたが、清朝が台湾を領有したのは、明治7年(1874)の日本の台湾派兵に衝撃を受け、その直後に派兵し、現地人(現在の少数民族)を虐殺してからのことでして、明治27年(1894)の日清戦争により日本の領有となりますまで、わずか20年でした。
 もちろん明の時代から、大陸からの移民はいたのですが、客家をはじめ(李登輝元総統がそうです)、福建、広東からの移住がほとんどですから、北京官話とは縁がありません。
 共通の言語がなかったところで、日本の統治がはじまり、台湾の公用語は日本語になります。
 そして50年。日本の敗戦で、中華民国領となり、公用語は突然、北京官話となるんです。
 そしてこの映画は、国語である北京官話ではなく、台湾語が主である、といいます。

 小数民族をも含む台湾という国のアイデンティティは、中国にあるのでしょうか?
 決して、そうではないでしょう。
 台湾では、西洋近代化の受け入れが、清朝、日本、中華民国と、他国の支配のもとで、他国の解釈のもとに進みましたけれども、すべてを受け入れて消化し、日本の統治を離れた後は直接的なアメリカの影響も受け入れ、例え世界中が認めてくれなくとも、しかし、あるがままに台湾は台湾であるという、自然なアイデンティティが育ちつつあるように見受けられるのです。
 アメリカのカントリーミュージックが、良くも悪くもアメリカのものでありますように、日本統治時代に伝えられた西洋音楽・シューベルトの野ばらは、過去と現在をつなぐ台湾の歌として、最後の大合唱となり、「ああ、人が生きるってことは、愛おしいことなんだよね」と、見る者をじんとさせてくれるのではないでしょうか。
 なんといえばいいんでしょう。そうですね……、ローカルなものの力は、最終的に普遍をも抱き込みえるのではないかと、夢見させてくれたことへの感動、なのかもしれません。

 日本人として、泣かずにいられませんのは、日本の統治を離れ20年以上経って台湾に生まれた魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督が、古いラブレターの一節として、次の台詞を入れてくれたことです。

友子、悲しい味がしても食べておくれ。君にはわかるはず。君を捨てたのではなく、泣く泣く手放したということを。皆が寝ている甲板で、低く何度も繰り返す。「捨てたのではなく、泣く泣く手放したんだ。」と。

 
街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)
司馬 遼太郎
朝日新聞社


 司馬遼太郎氏は台湾紀行で、昭和6年(1931)の台灣代表として夏の甲子園に出場し、準優勝した嘉義農林の名選手・上松耕一のことを書いておられます。「上松耕一」と日本名ですが、日本人ではありません。当時高砂族と呼ばれた台湾の山岳小数民族でした。
 昔、これを読んで調べたのですが、嘉義農林を甲子園初出場、準優勝に導いたのは、戦前・戦後を通じて長く甲子園の強豪だった松山商業出身の近藤兵太郎監督でした。「松山の人が!」と、びっくりしたものでした。
 日本人、大陸系台湾人、高砂族の混成チームでしたが、主力は、身体能力にすぐれた高砂族だったんです。
 この快挙に、当時の新聞で、菊池寛は「僕はすっかり嘉義びいきになった。異なる人種が同じ目的のために努力する姿はなんとなく涙ぐましい感じを起こさせる」と語っているそうです。
 上松耕一は、日本統治時代に結婚し、日本が去った後には、否応もなく中国名に変わりましたが、母校に奉職し、子供に恵まれ、司馬氏が台湾を訪れたときには、世を去っていました。
 司馬氏は、その未亡人・蔡昭昭さんと会食をするのですが。以下、引用です。

 宴が終るころ、昭昭さんが、不意に、「日本はなぜ台湾をお捨てになったのですか」と、ゆっくりといった。美人だけに、怨ずるように、ただならぬ気配がした。私は意味もなくどぎまぎした。

 司馬氏は、これに答えることができませんでした。
 日本人ならば、思っても口にすることができ難いその答えを、台湾人である監督が、語ってくれたのです。
 
 私は、日本統治時代の日本が、国家の実力以上に台湾経営につくしたことはみとめている。
 むろん植民地支配が国家悪の最たるものということが、わかった上でのことである。


 と司馬氏がおっしゃるように、差別のない統治だったわけではありません。いえ……、むしろ朝鮮半島よりも、差別は大きかったのです。
 また近代化の押しつけは、霧社事件を初めとする現地人の抵抗をも生んでいます。
 そして、日本の後に居座った中国国民党の統治が暴政だっただけに、日本を懐かしむ台湾の日本語世代を、しかし戦後の日本は、ふり向こうともしませんでした。

 台湾紀行は、週間朝日に、平成5年(1993)から翌年にかけて連載され、司馬氏は、民主化に手をつけはじめていた李登輝総統と親しくなり、旅の途中でも気さくなその姿が活写されていますが、最後に、衝撃的な対談をしました。日本語世代の台湾人である総統は、このとき初めて、日本語によって、台湾という国のアイデンティティを語りました。
 このことは、中国の怒りを買ったのですけれども、司馬氏はこのとき、総統の決意に渾身の共鳴を示すことで、昭昭さんへの、せめてもの返答となさったように思えるのです。

 ささやかな台湾のアイデンティティは、チベットやウィグルのように、どん欲な中華帝国に踏みにじられてしまうのでしょうか。
 台湾における『海角七号』の大ヒットが、未来へつながることを祈らずにはいられません。

 国会図書館から頼んでいたコピーも届きましたし、次回から、お常さんのシリーズにもどりたいと思います。

 
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コメント (4)
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