龍馬暗殺に黒幕はいたのか?の続きです。
続きを書くつもりはなかったのですが、近くの図書館で「坂本龍馬全集」を借り出すことができまして。
坂本龍馬全集 (1982年) | |
坂本 竜馬,宮地 佐一郎 | |
光風社出版 |
これを借り出すことができるとは、存じませんでした。
ぺらぺらとめくっておりましたら、発見があるものです。
桐野と前田正名につながるかも、な発見もありますので、またそれは、「普仏戦争と前田正名」シリーズで書きたいと思うのですが、ちょっと龍馬により道を。
ところで先だって、時代劇専門チャンネルで放映してくれていました「獅子の時代」が終わりました。
「獅子の時代」は架空の人物が主人公ですし、その一人、菅原文太演じます平沼銑次は、あきらかに花冠の会津武士、パリへ。で書きました海老名李昌をモデルにしながら、……いや、海老名は上級士族で銑次は下級で、やーさんぽい文太の銑次は海老名に比べてまるで品がないのですが、残された海老名の写真を見ますと、文太によく似たお顔なんです、これが……、最後、秩父困民事件で自由民権運動激派として行動していたりするんですが、本物の海老名さんは、最初の檄派事件だった福島事件で、自由党を弾圧する薩摩出身の県令・三島通庸の側についていまして、まあ、なにしろ福島の自由民権運動の巨魁は、三春藩裏切りの元凶だった河野広中でしたから、薩長よりも裏切り者の三春を恨んでいました元会津藩士としては当然の行動なのですが、ともかく、かなりな大嘘ばかりで、平沼銑次は鞍馬天狗かジャン・バルジャンか、という描かれ方なんですが、大筋としましてはまあこんなものかも、といいますような時代相の基本が大きくはずれているわけではないですし、これがけっこう、おもしろいんです!!!
なんといいましても、30年も前のテレビドラマなのに、ちゃんと薩摩のパリ工作をやってくれているのがすごいですよねえ。モンブランの来日が描かれていませんし、事実関係をかなりまちがえてはいますけれども、一応、それが軸ではあるわけでして。
それにいたしましても、最近の大河は、なんでこう、超つまらないのでしょうか。
NHKの「龍馬伝」については、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編、スーパーミックス超人「龍馬伝」に書いておりますが、笑いすぎて涙がでましたほどの馬鹿らしさ。
去年の「江 姫たちの戦国」に至っては、馬鹿馬鹿しさも極地で見ていられませんでしたが、私、院政期にはけっこう思い入れがありますので、今年の大河「平清盛」にはけっこう期待したのですが、なんなのお??? この無茶苦茶な、アニメの登場人物みたいな宇宙人な法皇さん!!!と、見る気が失せましたです。
角田文衛先生が生きておられたら、お怒りになられましたわよ、絶対。有吉佐和子氏の「和宮様御留」を悪質なデマ小説としておられました先生が、ご専門の時代にこんなことをされましたのでは、ですねえ。角田先生の「待賢門院璋子の生涯」なくして待賢門院は描けませんし、そっちは参考にして、白川上皇と祇園女御の方のご研究は無視するって、どうなんですの!!! NHKはきっと、先生が亡くなられましたので、無茶苦茶で、どーでもで、どこの国の、いつの時代の話??? みたいな院政期を、やっているにちがいありません。
人間も生き物なのですから、殺生禁断には、もちろんなのですが、まず第一に「人間を殺さない」という建前がありまして、それで当時の世の中がまるくおさまるわけがないですから、貴族僧侶の偽善なんですが、正式な死刑はなかったですし、よりにもよってとっくの昔に出家している法皇さんが、自分の目の前で自分が手をつけた女を殺させるなんてこと、ありえるはずもないんです。殺生は卑しい所業なんですから、尊い身が汚れるじゃないですかっ!!! 馬鹿馬鹿しい!!!
西行と待賢門院堀河がまた、目をおおうような描かれ方です。
私の院政期観は、角田文衛、五味文彦両先生のご著書によるだけのものなのですが、なんといいますか、ドラマの創作はどうでも好きにすればいいんですけれども、一応、その時代の基本だけははずさないでくれっ!!!です。
で、王朝文化を、画面汚く、とてもいやなもののように描いていますし、どうしてここまで自国の文化を貶めたいんですかね、NHKは。もうひたすら、時代に対しても日本文化に対しても、愛がないんですわよ!!!
と、脱線してしまいましたが、ちょっと、ですね。
龍馬暗殺薩摩藩黒幕説は、現在ではだいぶん減ってきたようなんですが、それでも「龍馬は大政奉還推進派だから平和路線で、中岡慎太郎と対立していたし、薩摩藩も邪魔だった」みたいな見解は、まだあるんじゃないんでしょうか。薩摩藩も一枚岩ではありませんでしたし、薩摩藩にしましても中岡慎太郎にしましても、状況に応じての変化は、当然あるんですけれども、それは置いておきましても。
ともかく、です。龍馬の平和路線を示すとされますその元凶の一つが、暗殺される三日前、慶応三年11月11日付け林謙三当ての書簡の追伸に「彼玄蕃ことハヒタ同心ニて候」とあります文句の解釈です。
えーと、ですね。現在、青空文庫に龍馬の手紙はほとんどあがっておりまして、これも無料で見ることができます。図書カード:No.52031です。
これの本文には、「今朝永井玄蕃方ニ参り色談じ候所、天下の事ハ危共(あやふしとも)、御気の毒とも言葉に尽し不レ被レ申候」とありまして、龍馬は当時、幕府若年寄格の永井玄蕃(尚志)に頻繁に会いにいっていまして、「今朝永井玄番のところへ行っていろいろ話した所が、天下のことは危ういし、気の毒だし、言葉にできないほどだよ」と、「同情?」と思われる言葉の後の追伸に「ヒタ同心」がくるものですから、「わし(龍馬)は永井玄番と同じ思いだよ」と解釈するむきが、けっこう多いようなのです。
永井玄蕃(尚志)って、野口武彦氏をしまして「永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった」といわしめたお方でして、お生まれはいいですし、一橋派で、オランダの長崎海軍伝習所の所長でしたし、開明派なんですが、なんとも変に軽いとでもいうのでしょうか、信用ならないところのあるお方です。
手紙の相手の林謙三は、芸州藩出身で、薩摩海軍の指導をしていた人ですが、龍馬とも知り合いで、当時、大阪にいました。
で、前日の龍馬の手紙とあわせ読みますと、どうも身の振り方を相談したような感じです。
「龍馬全集」を見てみますと、宮地佐一郎氏の解説で「ヒタ同心」は「ぴったり心のあった仲間ほどの意味」となっていますから、これがその最初の解釈なんでしょうか。といいますのも監修の平尾道雄氏は、「海援隊始末記」の方では、なんと「彼玄番ことはヒラ同心にて候」になっていまして、一応、「右の文中にある永井玄番はのちの幕府若年寄であり、進歩的な人物と目され、龍馬と相通ずるところを持っていたようである」と解説はなさっているのですが、「ヒタ同心」と「ヒラ同心」では、えらく意味がちがいますよねえ。
坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫) | |
平尾 道雄 | |
中央公論新社 |
「ヒラ同心」では、「永井玄番はけっこうな役職の割には、平の同心みたいに大したことのない人物だよ」と受け取れます。
「龍馬全集」の書簡の写真を見ます限りは、「ヒタ同心」でよさそうに思うのですが、なぜ「わし(龍馬)は永井玄番とヒタ同心」という解釈になるのかが、私にはさっぱりとわかりません。
大佛次郎氏の「天皇の世紀 大政奉還」に、当時、慶喜のブレーンとして京都にいた西周(にしあまね)の「西家譜略」の一節が引用されています。国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」に西家譜略・履歴がありますので、関心がおありの方はお確かめになってみてください。
天皇の世紀〈7〉大政奉還 | |
大佛 次郎 | |
朝日新聞社 |
「この頃のことなりける。英国公使への書翰を表にて命ぜられ英文に訳せしめられたり。その旨は今度政権を朝廷に奉還するは旧来覇府に於ける異る莫(な)しとの事なり。是は若年寄の永井玄番頭の申付けなり」
つまり、大政奉還について、イギリス公使パークスへ英語で説明の手紙を書きますのに、永井玄番は「幕府の役割はまったく変化しない」と書けと、西周に命令したというのです。
西周については前回に書きましたが、津田真道とともに幕府のオランダ留学生として法学、経済学を学び、当時の日本人としては、もっともきっちり西洋の政体や法律について知っていただろう学者です。
幕府の役割をなんにも変えるつもりのない永井玄番と龍馬が「ヒタ同心」なんでしょうか???
私にはそこまで龍馬が観察眼のない男とも思えませんし、身の上相談をしたらしい林謙三に答えまして、「大兄御事も今しバらく命を御大事ニ成さられたく、実は為すべきの時は今ニてござ候。やがて方向を定め、修羅か極楽かに御供申すべく存じ奉り候」、つまり「しばらくの間、命を大事にしていなさいよ。今、なすべきことをしていて、やがて方向が定まるから、そうなったら天国か地獄か、どちらにせよ一緒にいきましょうぞ」と言う龍馬が、その直後に、なにも変えたくない永井玄番とひたすらに同じ心、なんぞと書くわけない、と思うのです。
したがいまして、私の解釈は、「永井玄番は慶喜公とヒタ同心だよ」でして、「今朝永井玄番のところへ行っていろいろ話した所が、あんなにも世の中を変える気がないじゃあ、天下のことは危ういし、幕府もどうなることやら気の毒だし、言葉にできないほどだよ。ああ、永井は慶喜公とヒタ同心だから、永井がそうだということは、慶喜公もそうだということです。今しばらく、命を大切に待っていてください。開戦は近い。天国か地獄か、いっしょにいきましょう」です。
解釈の問題ですから証拠はないんですが、とりあえずなにかないかな、と「龍馬全集」を見てみましたところ、「犬尿略記草稿、男爵安保清康自叙伝」で、後年のことながら、手紙を受け取った林謙三さんご本人が、解説してくれていました。
調べてみましたら、「男爵安保清康自叙伝」は近デジにありまして、全編、読むことが出来ます。ノーパソの画面が小さく、読み辛いので、まだ全部は読んでないんですけど。
林謙三は、後の名前が安保清康。龍馬の死の後、薩摩の春日丸の責任者となり、阿波沖海戦を戦って、奥羽北陸に転戦し、明治、海軍創設に参加し、男爵にまでなったんですね。
薩摩藩に春日丸(キャンスー)を買うことを勧めたっていうんですけど、うーん。キャンスーはモンブランが仲買した船ですしねえ。
「薩藩海軍史」にはちがうことが書いてあるのですが、萩原延壽氏の「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 」(朝日文庫 (は29-1))の何巻だったかに、イギリス人の書翰が引用されていまして、それによれば、モンブラン伯爵が仲買したんだそうなんです。
まあ、どっちみち、モンブラン伯の長崎憲法講義に書いておりますが、長崎の佐々木高行が、モンブラン伯爵の憲法講義を受けているわけですし、薩摩がパリでなにをしてきて、なにを欲しているのかを、いくらなんでも龍馬がまるで知らない、ということは、ありえないでしょう。
そういうわけでして、安保清康男爵が聞きました坂本龍馬の当時の時事分析を、以下引用です。
将軍建議を容れ大政を奉還するも、天下の現況は危機一髪の間に在り。然るに四藩(薩長土芸)一致の運動も今日に至りては内実二派に分かれんとす。薩長は依然固結し、両国の全土と生命とを尽し目的を達せんとて断乎として動かず。芸藩は最初より薩長と意見を一にせしも、方今に至り土藩に同意するの色あり。しかれどもその目的においては依然変化せず。
薩長の見るところは数百年間睡眠したる天下太平の夢は尋常の手段にては醒め難し。これを驚覚せしめんと欲せば、砲声天を震動し、万雷地より迸(ほとばし)らしむにしかず。これ兵を擁するゆえんなり。しからざれば真に王政復古し、積年の旧慣を一洗し、宇内各国と併立しがたしというにあり。
また土藩の論拠は然らず。今や外敵我の虚を虎視す。内乱は勉めて之を避けざるべからず。また兵を擁するの行為は強迫に類する嫌あり。あくまでも正道平和の手段を取り、もってその目的を達するにしかずというにあり。
我その中間に立ち、木戸、西郷、大久保はむろん、後藤、辻等と謀りしも、彼ら互いに固執し、終に四藩提携して一致運動するの命脈ほとんど絶せり。つらつら将来を推考するに、開戦は到底避くべからず。ことここに到りて四藩は再び合同して素志を貫くや、また正反対の地位に立つや、憂慮に堪えず。
かつ今回の大政奉還も或いは一時の策略たるやも期しがたし。しかれども西郷、木戸、大久保のごときは計略に乗るものにあらず。幕府もよくこれを知る。しかれば大政奉還もその真意たるものと断定するも可なり。
去りながら戦争の大小は確信し難きも必ず開戦となることは確信す。
足下は開戦に至るも、必ず之に干与せず、我海援隊所有の船をもって、北海道に避け内乱を顧みず、一意足下の意志たる海軍術を養成せよ。異日外敵と戦ひ、国家に忠死すべし。今日は兄等の死すべき時に非ず、内乱は直に鎮定すと信ず云々。
うーん。
微妙なんですが、「幕府が大政奉還したのは一時の策略にすぎないのかもしれない」というのですから、なにも変える気がない永井玄番の真意を、龍馬は見抜いていたのではないでしょうか。
ただ、永井がなにをしゃべったのか、「しかし幕府も馬鹿ではなく、西郷、木戸、大久保がそんな策略にひっかかることはないと知っているのだし、大政奉還の実を示す可能性にかけるのもありだ」という希望的観測も、持ってはいたみたいですね。
ですけれども、あくまで武力倒幕に反対の土佐藩と、全土と全生命を断乎として倒幕にかけようとしている薩長の中間に自分はいる、と龍馬は言っていた、というのですから、永井玄番とヒタ同心は、ありえないと思えます。
かならず戦いは始まる、と、龍馬は確信していたというのです。
しかし、薩長が孤立して戦うのではないだろうか。あなた(林)の出身の安芸、自分の出身の土佐、ともに、薩長とともに戦わない、ということになりそうで心配だ。そうなったとき、優秀な海軍の人材であるあなた(林)は、戦をさけて命を大切にし、蝦夷で海軍の人材を育てることに専念してはどうだろうか? 内乱は長くはない、すぐに終わると信じたい。
だいたい、龍馬はそう言ってくれていたのだと、林謙三、後の安保清康は、受け取っていたようです。
書面にはまったく出てこないのですが、時期からいって、ちょうど薩摩は春日丸(キャンスー)を買い込んだばかりのころで、林謙三は薩摩海軍の指導者として、開戦が近そうだと感じていたようです。
しかし、林は薩摩藩籍を持ってはいませんで、出身は安芸ですし、「芸、土はどういうつもりでしょうか? 自分はこのまま薩摩にいて、故郷を敵にしたりすることにはならないでしょうか?」と、龍馬に相談したのだと思われます。
で、龍馬は、「できれば海援隊で活躍してもらいたいけれども、海援隊では君にまかせる船が用意できないので、君の能力を買ってくれるのならば、薩摩だろうが幕府だろうがいいんじゃないだろうか。しかし、海援隊の名前をもっていればいいし、できれば命は大切にして、日本の海軍の人材を育てることを考えてくれないだろうか」という、龍馬の返事だったのではないでしょうか。
「龍馬全集」に収録されています「男爵安保清康自叙伝」なんですが、驚きましたことに、後半は、林さんご本人が慶応3年11月16日未明、龍馬が襲われて絶命し、中岡慎太郎が苦悶しております近江屋を訪れたときの話なんです。
大昔に、ですね。雑誌かなんかで、「龍馬と慎太郎が襲われた後、近江屋の人々は怖れて近づかず、頼まれてシャモ肉を買いにいっていた菊屋峯吉も怖がったのか逃げてしまい、明け方まで放っておかれた」といったような話を、読んだような気がして、ちょっとひっかかっていたんですが、この林謙三の自叙伝によれば、たしかに、そのようにも受け取れなくはないんですね。
どうも、ですね。大阪から京都へ向かう川船には、夜中に出て明け方京都に着く便があったようでして、前回も引きました高松太郎の書簡でも、16日に知らせを受け取った大阪の海援隊士が、夜の船に乗って朝入京、とあります。
龍馬と会う約束をしておりました林謙三は、15日の夜の船で京へ向かい、16日未明に伏見に着いて、近江屋を訪れました。
つまり、近江屋に着いたのは明け方のことで、龍馬と慎太郎が襲われたのは15日の夜のことですから、相当に時間がたっています。
「近江屋はしんとしていて、血濡れた足跡がところどころにあった。なにかあったのかとびっくりして、2階に駆け上がると、龍馬は自室で抜刀したまま血だまりに倒れ、次の部屋では慎太郎が半死半生で苦悶していて、隣の部屋では従僕が声を上げて煩悶していた。愕然として、近江屋の主人に問いただすと、震え上がって答えることもできず、海援隊士・白峰駿馬の宿の場所を告げて、そちらに聞いてくれと言った」
というようなことで、林は白峰に知らせていっしょに引き返し、慎太郎の話を聞いた、というのですが。
通説とまったくちがう話で、後年に書かれたものですし、記憶ちがいか、と思わないではないのですが、以下、高松太郎の書簡から、引用です。
不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。
「京師の二士」が林謙三と白峰駿馬なのだとすれば、話がぴったりとあいますし、林謙三は医者の家に生まれて、長崎で当初は医者になる勉強をしていて、ボードウィンに習っているくらいですから、応急の手当てくらいはできるんです。うーん。
定説では、近江屋の主人は土佐藩邸に知らせ、シャモ肉を買って帰った菊谷峯吉は白川の陸援隊に走って田中光顕(長生きして号が青山でしたので、青山のじじいと呼ばせていただいております)に知らせ、田中は薩摩藩邸によって吉井友実を誘って駆けつけた、ってことなんですが、土佐藩邸の寺村左善は、外出先で知らせを受けて、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に当日の日記を引用しておりますが、こういう時勢になったので、罪は問わないことになったけれども、復籍したわけではないので、表向き、土佐藩邸は関係ないと書いているくらいで、藩邸の土佐藩士に近江屋への出入りを禁じ、知らんぷりをしていた可能性が高そうです。
そして青山のじじいも、実は飲み会だったのか遊郭にいたのか、吉井友実といっしょに遊んでいた可能性は、十分にあります。
林謙三は吉井とは親しいですから、吉井がかけつけていて気がつかないということはありえませんし、それに、リアルタイムで最初に事件が記されているのは、11月16日付けの大久保利通の岩倉具視宛書簡でして、15日に入京しましたばかりの大久保が事件を知らされましたのは、どうも吉井からではなく、岩倉具視の使者からだった、ような感じを受けるんです。
(追記)妄想です。
近江屋の主人の報告を受けた土佐藩邸では、慌てて寺村左膳をさがして知らせますが、「お国とは関係ないぞ!!! 知らんぷりしろ。見張りを立てて、だれも藩士は入れないようにしろ」と命令しましたので、島田庄作が見張りに立っただけで、倒幕派の藩士は、だれも知らせを受け取りませんでした。そこへシャモ肉を買って帰った菊谷峯吉が現れ、峯吉は藩士じゃありませんので島田はいっしょに様子を見に上がり、峯吉は後を、実は「見張るだけでなにもするな」と命令を受けている島田に任せて、陸援隊に知らせに走ります。菊谷峯吉の報告を受けた白川陸援隊の大橋慎蔵は、青山のじじいをはじめ、他の幹部連中が遊びに行って留守ですし、近江屋には倒幕派の土佐藩士が行っていると信じて、すわっ!!! 新撰組が攻めてくるぞー!!! 岩倉公も危ないかもっ! と岩倉のもとにかけつけ、遊んでいる幹部連中をさがさせますが、朝まで居場所がわからず、林謙三は土佐藩士じゃありませんので見張りの島田の知ったことではなく、結局それで、陸援隊の土佐勤王党士は、海援隊関係の他藩人であります林謙三と白峰駿馬に遅れをとり、恥じて後世に嘘を伝えることになった、とか。
「神山左多衛雑記」によれば、15日夜のうちに、福岡孝悌が現場を見分したっぽいですけど、見ただけで、後は知らんぷりだったはずです。なにしろ寺村左膳の方針がそうなんですから。「土岐真金履歴書」では、土岐真金(島村要)が「福岡藤次氏ノ通知ニ依リ岡本健三郎氏ト同行シテ該処ニ至リ、未絶命石川氏ノ介抱シテ陸援隊ノ田中光顕氏等ニ通ジ田中氏来ル」と書いているんですけど、慎太郎は17日夜に絶命しているんですから、福岡の通知が16日の朝以降なら、林謙三より遅かった可能性は十分すぎるほどにありますし、島村要も海援隊士で、青山のじじいはそれより遅かったことは確かです。福岡は近江屋の隣に住んでいましたから、見張っていて、林謙三と白峰駿馬が来たことを知り、これは土佐人も加えた方がいい、と判断して、大人しそうな島村に、倒幕派ながら上士の岡本を加えて知らせたんでしょう。
なにしろ、12月4日付けの手紙で、太宰府の清岡半四郎が慎太郎の家族に事件を報じているんですが、慎太郎が生きていて、いろいろと語り残したことは書きながら、いったい誰が駆けつけ、慎太郎の話を聞いたのか、いっさい書いてないんです。話を聞いたのは、土佐勤王党の人間ではなかった、と考えた方が自然です。
実際のところ、龍馬と慎太郎の暗殺に、謎は多いのです。
しかし私は、一会桑側のしたことだという基本は、まちがっていないと思っています。
にもかかわらず、なぜ公式の捕り物ではなく暗殺だったかといいますと、龍馬と慎太郎は、こ時期、土佐藩の保護を得ている形で、公然とそれを無視することで、一会桑は土佐を敵にまわしたくはなかったからです。
そして、なぜ暗殺したか、という答えも、そういうことではないんでしょうか。龍馬と慎太郎は、土佐藩を薩長と結びつけ、倒幕に押しやる浪士の巨魁であったから、です。
京都の土佐藩白川藩邸に浪人を集め、御所警備の十津川郷士まで加えて、薩摩から洋式調練の教師を招いている慎太郎の陸援隊は、もちろんのこと、どこからどー見ましても、土佐と薩摩を結びあわせて倒幕を目指す拠点ですし、海援隊にしましても、イカロス号事件を起こして(幕府から見れば海援隊が疑わしかった、ということです)面倒を引き起こすかと思えば、紀州徳川の船にぶつかっておいて脅しにかかり、双方とも浪士相手かと思えば、ずるずると土佐と薩摩が出てきまして、仲良く浪士の後ろ盾になっているわけです。
一会桑にしましたならば、「あの浪士の巨魁を片付ければ、土佐が薩摩と結びつくことはなくなり、土佐をとりこめる」ということだったと思えますし、その土佐の内情を、佐幕派だった土佐藩要人が一会桑側に語っていた、ということは、十分にありえると思います。
龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日 | |
中島 信文 | |
彩流社 |
ノブさまのご著書に刺激を受けまして、少しだけですが私も、龍馬と慎太郎の暗殺について、思いめぐらせてみました。
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