郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol2

2012年02月14日 | 桐野利秋

 桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1の続きです。

 海援隊につきましては近年、商社活動的な面が、誇張されて語られる傾向があります。
 現実に行ったことを見ます限り、商業活動が成り立っていた、とは言い難く、亀山社中のときは薩摩の、海援隊となりましてからは土佐の、藩営商社の手伝いに手を染めていた、程度のこととしか、私には思えないんですね。
 青空文庫に海援隊約規(図書カードNo.51377)がありますが、これを読みましても、とても利潤を追求します商社のものとは思えませんで、むしろ、塾から発展した結社と言った方が、的確な気がします。

 実際、亀山社中は、勝海舟の私塾の一部が発展したもの、といってもそう大きくはちがっていないでしょうし、江戸時代の有名塾は、諸藩から人材が集まって切磋琢磨する場ですから、それが発展した結社に、諸藩の人間が集まっていても不思議はないんですね。
 龍馬の発想がユニークでしたのは、塾的な、同志としての人間関係を、できうるかぎり藩から独立した場で成り立たせ、その結社で、政治的な働きかけを実行しようとしたことでした。
 しかし、その政治的方向が、いわば幕藩体制の転換にあったのですから、これは危険きわまりないことでした。

 安政南海地震の直後、河田小龍は縁あって鏡川沿いの築屋敷の空き家に引っ越し、饅頭屋の近藤長次諸を引き受けます。そこへ、龍馬がやってきて、これからの日本をどうすればいいのか問答となるわけなのですが、このときの対話が、後の海援隊の種となりましたことには、まちがいはないでしょう。
 「藤陰略話」の肝心な部分は、前回、私がいいかげんな現代語訳をしておりますが、これってコーストガード、つまりは土佐に根付いた海岸線防備のための発想ではなかったのか、と思えます。つまり、殖産興業の延長線上に国防があって、幕藩体制の変革にまでおよぶ話では、ないんですね。
 年齢のせいなのか、世捨て人的な気質のためなのか、小龍は、政治からは遠いところにいます。

 そして、近藤長次諸が、その小龍の影響の元で学問を修め、小龍にとって恩人ともいえます吉田東洋との縁で、勝海舟の塾へ行き着きましたのに対し、龍馬は、まったく別の道をたどって行き着くことになったんです。

 
流離譚〈上〉 (講談社文芸文庫)
安岡 章太郎
講談社


 作家の安岡章太郎氏は、土佐郷士のご子孫でした。
 祖先のご家族に、吉田東洋を暗殺しました三人の一人、安岡嘉助がいまして、安岡章太郎氏は、祖先の記録をもとに、土佐の幕末を「流離譚」に描かれました。古い記事ですが、坂本龍馬と中岡慎太郎で、安岡氏の描く龍馬を紹介しております。お断りしておきますが、私自身が全面的に氏の描かれる龍馬像を肯定している、ということでは、かならずしもありません。
 ともかく、氏の描かれる土佐土着の郷士と、サラリーマン上士の対立は迫真でして、参考になります。

 ごくごく簡単にまとめますならば、以前、大河ドラマと土佐勤王党に書きましたように、戦国時代からの対立が、幕末まで尾を引くんです。
 そして、土佐の郷士や庄屋層、いわゆる長宗我部侍が特殊でしたのは、集団強訴をするようになったことです。郷士から上士への道が大きく開けた、というのではありませんで、郷士は郷士のまま、幕末には集団の力を持つようになっておりました。

 この郷士層が、政治的に目覚めましたのは、やはり黒船です。
 文化露寇、フェートン号事件あたりから、日本全国の沿岸は、たびかさなる黒船騒動に見舞われまして、文政7年 (1824)、水戸の大津浜事件では、上陸したイギリス船員から会沢正志斎が話を聞き取り、危機感を持って「新論」を書きます。
 土佐は海岸線が長いものですから、黒船出没への危機感も大きく、早くも文化7年(1810)には、郷士や地下浪人に海岸警備が命じられ、これは断続的にずっと、続けられることとなります。
 海岸警備といいましても、ろくに砲があるわけでもなく、たいしたことはできませんが、これもコーストガードでして、兵役ですから、集団行動が身につきますし、いったい、黒船が押しよせてくる世界はどうなっているのか、どうすれば国を守ることができるのか、考えるきっかけともなり、政治的にも目覚めていくことになったわけなのです。

 ペリー来航から安政の大獄までの概略は、寺田屋事件と桐野利秋 前編をご覧ください。前編しか書いていませんけれども(笑)。
 近藤長次諸が岩崎弥太郎に学んだりしておりますとき、龍馬は再び、江戸へ剣道修行に出かけ、安政の大獄がはじまると同時くらいに、土佐へ帰ります。長次諸が江戸へ向かいましたのは、大獄の最中の安政6年(1859年)正月ではなかったかと、「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」で吉村淑甫は推測されていまして、龍馬とは、ほぼ入れ違いであったようです。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 安政5年(1858年)、孝明天皇が水戸藩主に密勅を出し(戊午の密勅)、それが安政の大獄の引き金となったこともありまして、直接、密勅にかかわっておりました水戸藩がもっとも騒然とし、この時期には、水戸の志士活動が活発でした。
 水戸の次に、やはり日下部伊三次、西郷隆盛などの藩士が密勅に関係していました薩摩も、一部藩士の激昂は募ったのですが、一橋派の開明藩主・島津斉彬が急死し、幕府の意向を怖れました薩摩藩の方針は急旋回。西郷は島流しで、西郷の同志たち(精忠組)もなりをひそめるしかありませんでした。

 茨城県立歴史館のサイトに「水戸藩尊攘派の西国遊説」が載っておりますが、大獄ははじまったばかりで、この時期にはまだ、吉田松陰も処刑されていませんから、長州の松下村塾門下の奮起もまだまだですし、土佐藩主・山内容堂は、隠居の勧告は受けていますが、一般の土佐藩士には、まだまだ事態がよく、のみこめてはなかっただろう時期です。

 江戸遊学からから帰ってきておりました安政5年の12月、龍馬は立川の関所で水戸藩士の応接をするわけなのですが、水戸藩士が龍馬を名指ししましたのは、どうも江戸の千葉道場のつながりであったようなのですね。
 学問の塾と同じで剣道の塾も、当時は、他藩士との交友を深めて見聞をひろめ、つきあい方を学び、縁故を育てる、というような意味合いが大きく、幕末の各藩の志士が多く江戸の剣道場に遊学していますのも、まあ、いまでいいますならば、首都圏の大学の教育学部の体育科に進学することにでも例えるならば、多少、近かろうかと思われます。

 で、当時の龍馬は、片田舎の土佐の郷士にすぎませんでしたし、水戸藩士の力になれようはずもなく、適切な応対もできかねたようですけれども、呼び出されるといいますことは、それだけで、政治活動にも無関心ではないと見られていたのではないか、と推測することは可能でしょうし、江戸での生活が社交的なものだったことは確かでしょう。

坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 この平尾道雄氏の「坂本龍馬 - 海援隊始末記」なども参考に、しばらく、龍馬の足跡を追いたいと思います。

 結局のところ、土佐藩の郷士、地下浪人、庄屋層が、持ち前の団結力を発揮しまして、激動の幕末の政局に乗り出しましたのは、直接には、万延元年(1860年)3月3日に起こりました桜田門外の変の影響でした。
 水戸と薩摩の脱藩浪士が、公道で幕府の大老の首を、打ち取ったのです。

 幕府の権威は、表面はまだちゃんとしていましたが、内部から音もなく崩れていき、幕府の権威がそうなったということは、です。それにともないまして幕藩体制がゆらぎ、藩庁の権威も薄れていかざるをえない、ということでした。
 とはいいますものの、桜田門外の変に呼応しようとしました、薩摩精忠組の京都突出は押さえられ、安政の大獄によります謹慎処分などがすぐに解かれたわけでもありませんで、一見、なにごともなかったかのように政局は推移したのですが、諸藩の志士たち(主に西日本)の活動は解き放たれたように活発化し、土佐では、文久元年(1861年)、江戸に遊学中でした武市半平太(瑞山)を中心として、郷士、地下浪人、庄屋層の政治結社、土佐勤王党が結成されました。

 wiki-土佐勤王党に盟約文が載っておりますが、起草は大石弥太郎。大石弥太郎は、英国へ渡った土佐郷士の流離で書きました大石団蔵、後の高見弥一の従兄弟です。
 この盟約文には、確かに、元藩主・山内容堂の話が出てまいります。
 かしこくもわが老公つとに此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、かえってその為めに罪を得玉ひぬ。かくありがたき御心におはしますを、などこの罪には落入り玉ひぬる。君辱めを受くる時は臣死すと。

 まあ、あれです。
 安政の大獄において、土佐で弾圧を受けましたのは、隠居、謹慎となりました容堂だけなんですよね。
 複数の藩士が命を落としました水戸はもちろん、吉田松陰が処刑されました長州とも、日下部伊三治が獄死しました薩摩ともちがいまして、土佐の下々の藩士は、実はほとんど関係ない状態。

 当時まだ、容堂の謹慎は解けていませんし、「我が老公の御志を継ぎ」という言葉を持ってきますと、反幕府の旗も、土佐藩内ではあまり刺激的にならないですみますが、しかし、です。この盟約書でもっとも注目すべきですのは、「 錦旗若し一たび揚らば、団結して水火をも踏む」の一言、天保庄屋同盟と同じく、自分たちは天皇の直臣だという理屈につながるこのくだりです。

 土佐勤王党には2百名近い加盟者がおりますが、名簿の最初の数名は、当時江戸にいました土佐郷士です。在土佐のトップに近い位置に坂本龍馬の名は出てきまして、結成されてまもなく、龍馬は加盟したと思われます。
 ここで注目したいのは、名簿の四番目に、間崎 哲馬(滄浪)の名があることです。

 間崎哲馬の略歴は、京都大学附属図書館の 維新資料画像データベース 間崎哲馬(滄浪)をご覧ください。
 龍馬より二つ年上で、中岡慎太郎の先生でした。
 ものすごく早熟な英才でしたが、土佐の三奇童の一人、といわれたそうで、借金で訴訟沙汰になったという話も残っていますし、えらく自炊派珍味グルメな書簡も残しておりますし、型にはまらない人柄だったようです。

 それはともかく、この間崎哲馬、嘉永2年(1849年)、16歳のときに江戸に遊学し、安積艮斎の塾で学んで塾頭となり、土佐に帰って、中岡慎太郎などに学問の手ほどきをしながら、自分は、吉田東洋の少林塾に学んでいたんです。つまり、饅頭屋長次諸に教えていました岩崎弥太郎と同塾だったわけですし、安積艮斎の塾頭だったことがあるわけですから、長次諸の大先輩でもあった、わけなんです。
 つまり、です。饅頭屋長次諸は、小龍と吉田東洋、岩崎弥太郎のつながりから、龍馬をぬきにしましても、間崎哲馬と知り合いであった可能性が高いことに、とりあえず留意しておきたいと思います。

 浪士の活動が活発になり、騒然としてまいりましたこの文久元年10月、龍馬は剣道修行を名目に旅に出て、翌文久2年1月14日には、武市の密書をたずさえて長州に姿を現し、久坂玄瑞や佐世八十郎(前原一誠)など、松下村塾の門下生たちと会っています。
 このとき、龍馬が預かりました久坂玄瑞から武市半平太宛の手紙に、有名な一節があります。
 
 ついに諸侯恃むに足らず、公卿恃むに足らず、草莽志士糾合、義挙の外にはとても策これ無き事と、私共同志中申合居候事に御座候。失敬ながら尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず、両藩とも存し候とも恐多も皇統綿々万乗の君の御叡慮相貫申さずては、神州に衣食する甲斐はこれなきかと、友人共申居候事に御座候。
 「大名も公卿もなんの頼りにもならないから、各地の志あるものがいっしょになって事を挙げるほかに方策はないと、ぼくたちは話しているんだよ。うちの藩もおたくの藩も、滅びたってかまうものか。天皇のご意向を無視して、通商条約を結んでしまった幕府を、このまま許しておくわけにはいかないだろう?」

 いいかげんな現代語訳ですが、ともかく、安政の大獄で、幕府に松陰を殺されました門下生たちは、火の玉のようになっておりまして、龍馬はその意気込みに圧倒されて、しかし世の中が激変しそうな予感に、うきうきしたのではなかったでしょうか。
 ちょうどこのとき、江戸では、水戸浪士と大橋訥庵塾生によります坂下門外の変が起こっておりました。
 そして、このころから、西日本をかけめぐりましたのが、薩摩の島津久光の率兵上京の噂です。
 ずいぶん以前の記事ですが、これについては一応、慶喜公と天璋院vol1に書いております。あら、龍馬の脱藩にまで、触れておりますねえ(笑)

 島津斉彬が死の直前に、率兵上京を計画していたといわれておりましたし、安政の大獄この方、薩摩が動くのではないか、という期待はずっとありまして、ようやっとのことで大久保利通を中心とします精忠組が久光を動かすことができたのですが、久光自身のつもりでは、まったくもって反幕府のつもりはありませんで、おそらく、なんですが、島津家は前将軍の御台所の実家なわけですし、「改革に力を貸してやるから幕府もがんばって生まれ変わり、勤王に励んでくれよ」くらいのつもりでいたのではないでしょうか。

 まあ、島から呼び返されました西郷隆盛が言った通り、とんでもない地五郎(じごろ)、田舎者です。
 あーた、外様大名の前藩主でさえもないただの父親が、これみよがしに一千の兵を率いて圧力をかけたのでは、地に落ちかかった幕府の権威が、さらによけい、ゆらぎまくるだけの話でしょうが。
 しかし、NHK大河ドラマ「篤姫」、堺雅人の徳川家定と、山口祐一郎の島津久光だけは、大嘘でもよすぎるほどによかったです(笑)

 いわば、ですね。外様大名が大軍(当時としては、です)を率いて京へ入る、なんぞ、それだけで幕府が張り子の虎になったことをはっきりと示す行為でして、秩序破壊なんですから、諸国の志士たちが、「こうなりゃ、幕府なにするものぞ。さあ、おれたちの時代だ!」と張り切ってしまったのも、致し方のないことです。
 実際、薩摩藩内でも、有馬新七を中心とします精忠組激派が抜け駆けし、久坂玄瑞を中心とします長州の多数の有志、その他主に九州各地の志士たちと連携し、京都所司代を襲って、久光が率います藩兵をまきこみ、大争乱を巻き起こす計画を立てていました。

 後の桐野利秋、中村半次郎は、満の24歳。ここで従軍がかなうことになりまして、生まれて初めて鹿児島を離れることになりましたが、父は島流しで、兄は死んでいて、一家を背負う立場です。
 桐野が一番なじんでいました上之園方限には、鎮撫の大山格之助に斬られて死にました弟子丸龍助がいましたし、その他、鎮撫された側の激派には、生涯の友となる永山弥一郎もいたりします。また、薩英戦争ころまでの話ですが、やはり激派側にいた三島通庸と行動をともにしていたりしますので、あるいは、心情激派であったりしたのだろうか、と思ったりもします。

 久光率兵上京前夜、嵐の前の静けさの中で、久坂などと連絡をとりあっておりました武市半平太は焦ります。
 勤王党、つまりは郷士結社のみの突出ではなく、薩摩のように藩を挙げての勤王活動を望んでいたのですが、手強い障害がありました。
 吉田東洋です。
 東洋の家は、土佐上士では他に例がないのですが、長宗我部の旧臣であったといわれています。馬回り役の家ですから、中の上といったところでしょうか。

 東洋は、剛腹がすぎまして、とかく問題を起こしやすい性格ではあったようですが、非常な俊才で、豪腕でした。
 容堂の前々藩主・山内豊熈に引き立てられまして、藩政改革にとりかかっておりましたところが、豊熈は34歳で急死します。慌てて実弟の豊惇が藩主となりますが、ほんの二週間後、わずか25歳で死去。このままでは、お家お取りつぶしの危機です。
 幸いにも、豊熈の正室は、島津斉彬の実妹・候姫(智鏡院)。島津家を中心とします親戚に奔走してもらい、分家から豊信(容堂)を迎えて、候姫の養子とし、一代限りの藩主として、ようやく危機を乗り切りました。

 豊熈の死によって、一度は無役となりました東洋ですが、やがて、型破りな新藩主・豊信(容堂)に見いだされ、大目付から参政へと累進し、藩政に大なたをふるいます。前回書きましたように、小龍は東洋に目をかけられて才能をのばすことができたのですし、東洋は、人材発掘にも長けた、なかなかの人物であったようなのですが、とかく問題を起こす性格でして、一時逼塞し、塾を開いて、岩崎弥太郎や間崎哲馬、後藤象二郎などに教えておりました。
 これが、かえって東洋には幸いしました。
 この逼塞で東洋は、一橋派としての容堂の活動とは無縁に過ごし、安政五年に参政に返り咲いた後に、安政の大獄で容堂は隠居を余儀なくされますが、次の藩主を立てることに尽力し、そのまま藩政を牛耳ることができました。

 この東洋を、武市半平太は、説得しようとしたといわれます。
 しかし、当然のことなのですが、東洋は郷士・庄屋層の結社であります土佐勤王党を認めようとはせず、そしておそらくは、薩摩の率兵上京も、果たして実現するものなのかどうか、疑いの目で見ていたのでしょう。
 結局のところ半平太は、東洋を暗殺した上で、門閥の守旧派と結託し、若い藩主を押し立てて、動こうとしました。
 その独断専横によって、東洋は守旧派から嫌いぬかれ、また下にも敵が多かったですし、東洋を引き立てた容堂は、隠居して江戸住まいですし、藩主・豊範は若く、東洋さえ除いてしまえば、という心づもりであったようです。

 さて、数名の土佐勤王党員は、半平太の一藩勤王のための模索にしびれをきらし、脱藩します。
 他藩士から直接話を聞き、単身でも義挙に加わることを望んだ吉村寅太郎と沢村惣之丞、宮地宜蔵は3月4日に脱藩。果たして彼らが、吉田東洋暗殺計画を知っていたでしょうか? 
 東洋の暗殺は4月8日で、その前に二度、待ち伏せに失敗しているといわれますが、一ヵ月も前だとしますと、知らなかった可能性が高そうです。
 しかし、一度脱藩しました沢村惣之丞が、義挙の同志を募るために土佐へ帰り、3月22日に半平太のもとへ姿を現したのですが、このときには、計画が明確になり、すでに暗殺志願者を募っていたはずです。

 この沢村惣之丞なのですが、実は、中岡慎太郎と同じく、間崎哲馬の弟子なのです。
 この時期、間崎哲馬がどこにいたのか、なにか資料をご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
 先に書きましたが、奇才グルメな間崎先生、吉田東洋の弟子でもあるんですね。
 だからといって、間崎は勤王党なのですから、東洋暗殺に反対したとは限りませんが、ただ、沢村惣之丞も東洋の孫弟子にあたるわけでして、そうではない勤王党員にくらべましたら、なんらかの感慨、というものを持ったのではないでしょうか。

坂本龍馬 (講談社学術文庫)
飛鳥井 雅道
講談社


 龍馬を勝海舟に紹介した人物がだれであったか、平尾道雄氏の千葉重太郎説をくつがえし、最初に間崎哲馬ではないかと推測されたのは、飛鳥井雅道氏ではなかったでしょうか。
 現在では、それが定説となっているようでして、次回、詳しく述べたいと思いますが、とりあえずは、間崎が吉田東洋の弟子であり、沢村惣之丞が間崎の弟子であることに注目したいと思います。
 3月24日、龍馬は沢村と連れだって、脱藩を決行します。

 そうなんです。私は、龍馬の脱藩に、東洋暗殺が関係するのではないか、と思っています。
 反対だった、というわけではなかったでしょう。
 土佐を大きく変えるために、必要なことだと割り切っていたのではないかと、私は推測するのですが、しかしその一方、海防のための殖産、といった方策が、勤王党で取り組めるものなのかどうか、おそらく、そのころ江戸にいたらしい間崎に、龍馬はその期待をよせてはいたのでしょうけれども、そういう方面にかけては、噂に聞く東洋の辣腕が、惜しまれるものだったのではないのでしょうか。

 それで、もう、ここからは、まったくの私の妄想でしかないのですが、沢村と話あった龍馬は、二人で、河田小龍のもとを訪れたのではないでしょうか。
 龍馬は、小龍が東洋に引き立てられた人だとは知っていたでしょうし、饅頭屋の長次諸が、岩崎弥太郎を通して東洋の孫弟子になり、間崎が塾頭を務めたことのある安積艮斎の塾に入ったことは、知っていたでしょう。
 安積艮斎は、これも次回に詳しく述べたいと思いますが、海外事情通でもあります。
 薩摩に滞在したことのある小龍に、薩摩の率兵上京をどう思うか、東洋は本気にしないらしいが、実際に長州へ行ってきた沢村が、下関の薩摩の御用商人のところで、実際に行われることを確かめてきているが……、と、解説を求め、そして小龍は、おそらくは、土佐がかなわない薩摩の軍備について、語ったにちがいありません。
 義挙なんぞに期待するのではなく、土佐は軍備で、地道に薩摩に追いつくことを考えなければならない、と。

 小龍は、国防を充実させるのは地道な努力だと考えていて、国防のためにこそ一挙に世の中をひっくり反す必要があるとは、けっして考えないタイプだったでしょう。
 龍馬は、武市半平太と河田小龍のちょうど中間にいて、半平太の施策も認めつつ、しかし土佐には、火器の充実、海軍の整備といった現実的な軍備の増強策が欠けていて、それを怠ったままでは、一藩挙げても、日本のためにできることは限られていると、そういう思いももっていたのではないでしょうか。
 あるいは小龍は、伝え聞く薩摩の海軍への取り組みについても、語ったかもしれません。

 脱藩した龍馬の足取りは、かならずしもはっきりとはしないのですが、下関で沢村に分かれ、薩摩をめざしましたところが、入国できなかった、というような話も伝えられています。
 当然のことなのですが、龍馬は義挙には間に合わず、したがいまして薩摩の上意討ちであります方の寺田屋事件に巻き込まれることもありませんで、6月には大阪に姿を現し、8月には江戸にいました。

 次回に続きます。

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コメント (8)
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