桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol4の続きです。
前回、ですね。私、小松帯刀の書簡で、龍馬たち土佐の海軍塾生(神戸海軍繰練所と勝の私塾の区別がつき辛いものですから、まとめて海軍塾と呼ばせていただきます)について触れられている部分を意訳しましたが、これ、ほんの少しですが従来の解釈とちがうと思います。
松浦玲氏が、「坂本龍馬」におきまして、この書簡の解釈に悩んでおられまして、確かに意味のとり辛い文面です。
従来、非常におおざっぱに、「龍馬は船を調達に江戸へいっている。龍馬が船を借りられなかったら、勝の海軍塾生だった連中は役に立ちそうだから薩摩で雇ってやろう」くらいにしか、受け取られていなかったようなのですが、松浦玲氏に触発されまして、私、ちょっとまじめに悩んでみたんです。
坂本龍馬 (岩波新書) | |
松浦 玲 | |
岩波書店 |
従来、龍馬が船を借りられたとして、その船をどこの籍で運用するのか、といいますことが、まったく問題にされていなかった、と思うんです。
薩摩は、長州に下関で沈められました長崎丸など、これまでにも幕府の船を借りていますし、薩摩が借りたい、ということですと、禁門の変でともに戦った直後ですし、貸す可能性はあったでしょう。
龍馬は、最初から薩摩藩の船籍を使うつもりで、江戸へ、船を借りる交渉に行ったのだと推測できます。
幕府籍で浪人が船を運用することは不可能ですし、勤王党員の浪士中心では土佐藩籍も無理です。
となれば、薩摩しか考えられません。
したがいまして、小松が「海軍塾にいた浪人たちを航海の手先に召し使えばいいんじゃないかな」といっておりますのは、この時点におきましては、龍馬が借りてくる予定の船ごと、であろうと思われます。
それに関連しまして、小松が「もし龍馬が船を借りてこられなかったら、薩摩藩の船で使ってあげてもいいんじゃないかと考えている」という部分なのですが、これが従来、神戸にいた土佐の海軍塾生を含めて、考えられていたと思うんです。私はそうではなく、直前の「器械取扱候者并火焚水夫」、つまり幕府の翔鶴丸に乗り組んでいて士官と喧嘩した技術者や釜焚き水夫たち、おそらくは塩飽水軍の佐柳高次とその子分たち、のみだったのではないか、と思うんです。
神戸海軍塾の塾生は、いわば見習い士官です。
海軍塾の教育は、士官教育でして、薩摩の士官が乗り込んでいます船に、浪人を士官として乗せますことは、命令系統の乱れにつながりますし、船を一隻彼らのみに任せますならともかく、混在にはかなり問題があり、士官の命令に従うべき技術者(下士官と思います)や釜焚き水夫とは、話がちがうと、私は思うから、です。
そして、薩摩の海軍士官のレベルは、土佐の海軍塾生よりは、上です。
薩摩藩は、長崎のオランダ海軍伝習に、氏名がわかっているだけで、16人を出しています。
その中で有名なのは、五代友厚と後の海軍卿・川村純義ですが、ともかく、勝海舟といっしょに学びました人数が、少なくともこれだけいたわけでして、一方の土佐はゼロです。(参考文献は勝海舟著「海軍歴史」。近デジにあります)
はっきり言いまして、近藤長次諸をのぞけば、龍馬をも含めまして、実質、使いものになる士官はいなかったと思われます。
このことは、ユニオン号事件でも大きな焦点になってまいります。
龍馬が、船を借りることをあきらめまして上方へ帰り、薩摩の保護下に入りましたことが確実に確認できますのは、慶応元年4月5日のことです。太宰府の五卿のもとにいた土方久元が吉井友実の家で、大阪の薩摩藩邸から出向いてきました坂本龍馬に会っています。
この後、4月25日に胡蝶丸で薩摩にむかった模様なのですが、土佐の海軍塾生や翔鶴丸の技術者や水夫たちが、いつ大阪藩邸を離れたかは、はっきりとはわかりませんで、それぞれ、時期がちがっていたと考えた方がよさそうに思います。
(追記)
土方久元の「回天実記」4月21日条によりますと、この日、中村半次郎は山田孫一郎とともに京都藩邸を出て、帰国しています。翌日、西郷、小松、大山彦八が藩邸を出て帰国、となっていますから、これは、大阪で龍馬たちと合流し、胡蝶丸に乗り込んだ、と考えてよさそうです。
半次郎の妻・久さんが大正年間に「坂本龍馬を歓待したことがある」と言っているのですが、翌年の寺田屋の後の4月には、河田小龍が京都藩邸に半次郎を訪ねているわけですから、この慶応元年のことと思われます。
青空文庫の図書カード:No.52148 坂本竜馬手帳摘要で、「四月廿五日、坂(大坂)ヲ発ス。 五月朔、麑府(鹿児島)ニ至ル。五月十六日、鹿府ヲ発ス」ですから、5月1日~16日のどこかで、半次郎は自宅に龍馬を招いた、ということになります。
中岡慎太郎と土方久元は、五卿問題で西郷隆盛に信頼をよせまして、薩長の連携のために動こうとしておりました。
慎太郎は、このときすでに太宰府へ帰っておりましたが、龍馬と土方の間で話し合われましたのは、いかに薩長を結びつけるか、であったと推測できます。
この後、龍馬の動きと慎太郎たちの動きは交錯するのですが、薩摩名義で長州の蒸気船を買う話が、長州から出たのか龍馬から出たのか、ともかく、幕府に敵対しています長州が武器や蒸気船を買い込むことはできませんから、蒸気船が欲しいけれども買えない、というその状況を見て、薩摩藩籍で買って運用は土佐浪士で、という思いつきは、当然、龍馬から出ていたのでしょう。
幕末維新の政治と天皇 | |
高橋 秀直 | |
吉川弘文館 |
高橋秀直氏は「幕末維新の政治と天皇」の「第五章 薩長同盟の成立」におきまして、慶応元年(1865年)9月8日付け、長州の毛利敬親・定広父子から薩摩の島津久光・茂久(忠義)父子へ、「子細は上杉宋次郎(近藤長次郎)に話しておきましたので、お聞き取りください」と結ばれた書簡(「大久保利通文書一」収録)を送ったときに、すでに薩長同盟は結ばれたのだ、としておられます。
果たしてここで同盟が結ばれたことになるのかどうか、私はかなり疑問なのですが、なぜ疑問なのかは後述するとしまして、高橋氏が、従来、武器、蒸気船の購入の名義借りの御礼のための手紙にすぎない、と軽く見られていましたこの文書に、大きくスポットを当てられましたことは、卓見かと思います。
藩と藩の同盟が、最終的には藩主の同意がなければ正式なものとは見なされない以上、この手紙は、長州から薩摩への最大の働きかけであり、少なくともここで、長州が薩摩に同盟を申し出たことは、公式の事柄になったわけです。
その手紙に、近藤長次郎の名前があるといいますことは、長次諸は従来いわれておりましたように、単に蒸気船の仲買者であったのではなく、薩長同盟へ向けて、藩主と藩主をつなぐ、非常に重要な使者だったわけです。
これはもう、推測にしかならないのですが、前回に書きました上杉宋次郎上書によりまして、長次諸は久光に会ってもらっていたのだと思います。
もちろん、龍馬は会っていないわけでして、同じ土佐の浪人でも、薩摩藩主父子への書簡を長州藩主父子が託しますのに、客観的に見まして、このとき、長次諸の方がふさわしかったわけでしょう。
龍馬の影を生きた男近藤長次郎 | |
吉村 淑甫 | |
宮帯出版社 |
実は、ですね。吉村淑甫氏の「龍馬の影を生きた男近藤長次郎」は、長次郎自刃の原因となりましたユニオン号事件につき、なぜかまったく詳しくないんです。
龍馬関係の著作が大方そうですので、これはどうも、土佐系の史料に詳しいものがないのだろうと、手持ちの本を調べてみました結果、中原邦平著「井上伯伝 中」が、一番詳しいとわかりました。
私、ずいぶん以前にマツノさんが出しました復刻版を持っております。持っていながら、これまで、ろくに読んでいなかったのですが、ようやっと役に立つようです。
中原邦平は長州の史家でして、この「井上伯伝」は明治40年の刊行ですから、井上馨(聞多)本人も伊藤博文も、まだ生きていたときに書かれているんです。主に木戸家から実物の書簡を提供されましたようで、原文引用をはさみつつ、かなり事実に即して書かれていると思います。
といいますか、なぜ井上馨の伝記がこれほどユニオン号事件に詳しいのか、最初はよくわからなかったのですが、高橋秀直氏の論文を読んで、気づかされました。
井上馨も、薩長同盟の要に近藤長次郎がいたと、おそらくは認識していたんですね。
そして、それにもかかわらず自分たちのせいで長次郎は板挟みになって死んだのだと、どうも、心底から悼んでいたのではないか、と思えます。
尾去沢鉱山事件のイメージが強すぎまして、聞多といえば厚顔、と思っていましたが、ちょっと見直しました。
まず、「井上伯伝」を読んでわかりますことは、薩長提携のために薩摩名義で長州の蒸気船と武器を買う、という計画にかかわっていましたのは、龍馬だけではありませんで、中岡慎太郎も大きく噛んでいた、ということです。
少なくとも、長州側の受け取り方はそうでして、実際、慶応元年後半の龍馬と慎太郎は、連携して動いていますし、蒸気船の名義借りにつきましても、慎太郎の薩摩への働きかけもあったと思われます。
次に、これが後に大きな問題になるのですが、薩摩名義の蒸気船の購入につきましては、最初から長州海軍の大反対があった、ということです。
長州が薩摩の名義を借りて、薩長の提携を深めていく、といいます話は、実は、薩長ともに、といっていいと思うのですが、かならずしも広く、藩内の合意が得られていたわけではありませんでした。
中心となりましたのは、薩摩側では小松帯刀、西郷隆盛、吉井友実といったところで、一方の長州は、木戸孝允(桂小五郎)、井上馨(聞多)、伊藤博文に、後で高杉晋作が加わってきた、といったところでしょうか。
龍馬、慎太郎の奔走により薩摩の合意が得られた、ということで、井上と伊藤は長崎での武器と蒸気船購入のため、7月16日、下関を離れました。
ところが、その後にいたって木戸は、武器はともかく、蒸気船購入については長州の海軍局からクレームがついていて、裁可できるかどうか微妙だ、というような知らせを、藩庁から受け取ります。
そして、このもめ事は、延々続いたんです。
長州海軍につきましては、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております。
これにつけくわえますならば、長州海軍の重鎮でした松島剛蔵は、野山獄につながれていて、高杉晋作の功山寺挙兵が萩に伝わりましたとき、いわゆる俗論派によって殺されました。
それから半年、松島剛蔵が生きていましたら、蒸気船購入はかならず、松島が中心になって行われていたにちがいないのですが、残されました海軍局メンバーは政治力のない者ばかり。
いくら蒸気船を買ってくれと言っても、金がかかるからと断られ続けていましたのに、自分たちのまったく知らないところで、自分たちをまったくぬきにして、薩長提携のために、蒸気船購入が進められているというのです。
海軍局から、文句が出ない方がおかしいでしょう。
ちなみに、勝海舟の「海軍歴史」によりますと、長州は長崎のオランダ海軍伝習に15人も出していまして、これは、長崎防備をかかえました佐賀と福岡、そして海軍熱心だった薩摩に次ぎます、多人数です。
攘夷戦で船は沈めてしまいましたけれども、海軍士官教育の質は悪くはなく、相当な知識を持ったメンバーがそろっていたといえます。
木戸にしろ井上にしろ伊藤にしろ、海軍を軽視しすぎです。
自分たちが運用するわけではありませんのに、です。海軍局ぬきで蒸気船購入の話を進めるなんぞ、いくら薩長連携のためでも、あってはならないことでした。
長崎に着きました井上と伊藤は、長崎にいました薩摩保護下の神戸海軍塾メンバー(早いのかもしれませんが、以後亀山社中と呼びたいと思います)、社中のメンバー、千屋寅之助、高松太郎に会い、次いで、近藤長次諸と新宮馬之介などに紹介されます。
長次郎はすぐに小松帯刀に連絡をとりまして、小松は、井上と伊藤を薩摩藩邸にかくまうとともに、武器(小銃)も蒸気船も薩摩名義で長州が買いますことを承知します。
小松はこのとき、薩摩へ帰る予定がありまして、井上は長次郎とともに、小松に同行して薩摩へ行くことになりました。伊藤が長崎に残り、武器購入を進めます。
蒸気船に関しましては、長州海軍局の不満が激しく、木戸も購入見合わせの手紙を二人に送ったのですが、伊藤は今さら中止にはできない、と返事を出します。
結果、藩庁は、「蒸気船は全部で三隻買い、残りの二隻は海軍局に任せるから最初の一隻は井上、伊藤に任せる」ということで、海軍局をなだめます。
とはいえ、本当にあと二隻船を買えるのかどうかも疑わしく、海軍局の不満はおさまりませんでした。
井上は薩摩で桂久武や大久保利通などに会い、親睦を深めましたが、その間に長崎にいた伊藤が、グラバーの斡旋でユニオン号を、ほぼ購入候補に決めたようです。もちろん、その選定には、長崎の薩摩藩出先と亀山社中も、かかわっていたものと思われます。
ユニオン号は下関で長州海軍局の点検を受け、その上で購入が決められることになりました。
このころの伊藤の木戸宛書簡を見ますと、薩摩船に積み込みました長崎からの武器とともに、小松帯刀か大久保利通か、薩摩の要人が下関に行く予定があったようなのですけれども、結局、それは実現しませんで、井上は鹿児島から長崎、そして長州まで、亀山社中の同行を求めまして、近藤長次諸がその任を果たすことになります。
8月26日、薩摩名義で買いこみました武器とともに、伊藤と井上、そして長次諸は、長州に着きます。
長次郎は長州藩主の拝謁を得てねぎらわれ、先に書きました9月8日付けの島津藩主父子宛て手紙を託されます。
確かに、高橋秀直氏のおっしゃっていることにも一理がありまして、長州藩側としましては、これでもう薩長同盟はまちがいがない、と信じての書簡だったのではないか、と思われます。
ただ、私はやはり、それに対する薩摩藩主父子の返書があるまで、薩長同盟は成立したとは言い難く、返書がありましたのはほぼ一年近く後、第二次征長開戦直前の慶応2年(1866年)6月ですから、成立といいますならば、それをもって、ではないんでしょうか。
ちなみに、このとき前田正名が、長州に返書を届けます使者の一人になって龍馬に見送られるのですが、それはまた稿をあらためまして。
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol3にも書いておりますが、その前田正名の兄は、薩摩藩が運用しておりました長崎丸を、長州に砲撃されたことで戦死しておりますし、続いて加徳丸事件が起こりましたことで、薩摩の交易事業従事の現場も、そして島津久光も、長州には多大な反感を抱いていまして、そのことが、開戦直前まで返書を遅らせ、長次郎を悲劇に追い込みますひとつの要因になった、と私は思います。
そうこうしますうちに、ユニオン号がとりあえずの検分のため長州に姿を現し、長州海軍局も購入を了承して、このとき井上、伊藤とかわした近藤長次諸の約定では、船の名義は薩摩藩、長州が全費用を支払い、乗り組み運用は亀山社中で行い、平時は交易に使う、ということでした。幕府と和解できていません長州の船が交易をすることは不可能ですし、亀山社中の運用によって薩摩藩の交易に従事することで、名義借りの借りを返すのだ、との判断があったのでしょう。
この9月に、中岡慎太郎と青山のじじい、つまり田中光顕が、長州にいます。
まったくもって記録にはあらわれないのですが、ここで二人は、近藤長次諸と会ったはずなんです。
従来、まったく結びつけて考えられていなかったことなのですが、私は、近藤長次諸が外国へ行く予定だった、という話は、中岡慎太郎と田中光顕がいっしょの計画だったのではないか、と思います。
船便としましては、団団珍聞社主のスリリングな貨物船イギリス密航に書いております、安芸の野村文夫、肥前の石丸虎五郎、馬渡八郎との同行を、グラバーは考えていたのではないか、と思われます。三人の実際の長崎出港は10月ですが、計画は、もっとずっと早くからあったでしょう。
中岡慎太郎が9月30日付けで故郷の親族に出しました手紙に、「先頃之思惑にては外国へ参り申度」云々、つまり、「外国へ行きたくて計画したけれど、用事ができて中止になった」とあります。
「中岡慎太郎全集」の解説では、田中光顕が12月22日付けで故郷の父親に書きました書簡にも「かねて外国に渡りたいという志があって、いまもますます思いがつのっているけれど、力が無くてなかなかかなわない。このことについて、中岡慎太郎と密かに計画していて、他の者は知らない」とあるそうなんです。
そして、11月10日付けの伊藤博文書簡に「同人(長次郎)英国行之志ニ御座候処、我が藩のため両三月も遅延」とありまして、おおざっぱに考えますと、9月はじめころに計画があったと考えまして、おかしくないんじゃないでしょうか。
いろいろと考え合わせますと、この洋行は、イギリス帰りの伊藤と井上が、薩長提携の仲に入ってくれました御礼として、長州の武器と船の代金から費用を出すことでグラバーと話し合い、中岡慎太郎と近藤長次諸に遊学提供を申し出たものではなかったでしょうか。
長州側の身になりますならば、薩摩への働きかけにおいても、慎太郎がが多大な貢献をしてくれたのですし、慎太郎と青山のじじいは、龍馬たちとちがいまして、いっしょになって戦乱をくぐりぬけ、苦労してくれたわけです。
近藤長次諸は、実際に動いてくれたこともありますが、長州藩主に目通りした、ということは大きかったでしょうし、伊藤と井上の認識では、薩摩藩主への書簡が書かれたといいますことは、それでもう薩長同盟はなったも同然だったでしょう。
そして、慎太郎と長次郎の間には、切腹した間崎哲馬、という共通の知人がいますし、英語の勉強もしていたらしい長次郎の存在は、イギリスに渡るに際し、慎太郎と青山のじじいには、心強かったことでしょう。
高杉晋作 漢詩改作の謎 | |
一坂 太郎 | |
世論時報社 |
高杉晋作が、近藤長次諸に送った漢詩があります。
この親しみは、安積艮斎塾同門のよしみではなかったでしょうか。
11月ころのものといわれます。
上の本から引用で、読み下しは一坂太郎氏によりますが、一部、私が漢字をひらがなにしております。
上杉宗次郎を送る
突然相見て突然離る。未だ交情を尽さざるにたちまち別愁。
此より去って君もし愚弟に逢わば、為に言え忘るなかれ本邦の基をと。
突然君にあって、突然分かれる。親しむ間もなく、別れの悲しみにみまわれる。これからイギリスへ行って、もし弟に会ったら、日本の国の根本を忘れないでくれと、彼のために言ってやってくれよ。
愚弟といいますのは、南貞助のことでして、本当は従兄弟なのですが、高杉家の養子になっていたこともあり、実の兄弟がいなかった晋作にとりましては、かわいい弟だったんですね。
えーと、広瀬常と森有礼 美女ありき3に書いておりますね。貞ちゃんは、このときイギリスへ密航留学しておりましたが、森有礼や鮫ちゃんたちに誘われてカルト教祖トーマス・レイク・ハリスにはまりこみますし、岩倉使節団のときには、今度は自分が詐欺にはまりこみまして、鮫ちゃんもいっしょにはめて、欧州の日本人が集団で大がかりな金銭詐欺被害に会うという、一大事件を引き起こします。
もう、なんといいますか、高杉晋作に素っ頓狂なところばかりが似まして、勘のよさは似ませんでして、実におもしろいお方で、私は大好きなんですけれども、またの機会に。
それはともかく。
ユニオン号は整備のためにいったん長州を離れ、近藤長次郎は預かった長州藩主の書簡を持って鹿児島入りし、忠義公に拝謁し、長州の意向を伝えます。
このとき、返書がなかったのは、おそらく、なんですが、久光の承認が得られなかったから、ではないでしょうか。
しかし、藩主・忠義公の意向で、海軍奉行の本田弥右衛門が長崎に出張することになりまして、グラバーとの本格的な金銭交渉、薩摩藩籍での登録など、すべて長次郎が中心になって、事は進みました。
ところが11月上旬、ユニオン号あらため桜島丸に、長次郎をはじめとします亀山社中が乗り込んで、下関につきましたところが、問題が起こるんですね。
長州海軍局にとりましては、自分たちがせっかく手に入れました蒸気船に、亀山社中が乗り組んで運用権を握る、といいますことは、許せないことだったんです。
長州海軍には、長州海軍のプライドがあります。
しかし、伊藤、井上との約束により、近藤長次諸は薩摩藩を説得したのですし、間に入りました長次郎にとりましては、突然ふってわきました長州側のクレームは、許容できないものでした。
この問題、従来、おそらくは土佐勤王史かなにかを根拠に、龍馬が中に入って長州海軍局の言い分を入れ、解決したかのように語られてきましたけれども、「井上伯伝」によりますと、まったくもって解決しておりません。
翌慶応2年(1866年)1月23日付で、木戸が書いた文章に龍馬が裏書きしました薩長同盟の盟約書、なんですけれども、箇条書きが終わった後、木戸は綿々と、「乙丑丸(桜島丸、ユニオン号の長州名)のことでは困苦千万で、どうかうまく運ぶように尽力をたのむ」と書いているんです。解決したのならば、これはありえません。
いつ解決したのかといいますと、「井上伯伝」によれば、第二次征長開戦直前の6月、長州藩主へ、薩摩藩主からの返書がきましたときです。
そしてこの返書は、高杉晋作の提案で、もう一度、長州藩主父子が懇願の書簡を書きましたことで、ようやく実現しました。
話をもとにもどしまして、解決していませんから、伊藤博文は、長州海軍局員も連れて、近藤長次諸とともに長崎へ向かいました。
これから後の話は、当時、長崎におりました薩摩藩士、野村宗七(盛秀)の日記が語ってくれるようです。
原本は東大史料編纂所にありまして、私、彼の洋航日記をコピーしたくて、許可までは得たことがあるんですが、その後の手続きを怠りまして、まだ見たことがありません。
土佐史談240号に、皆川真理子氏が、桐野作人氏から提供を受けられました日記の関係部分を抜粋しておられると知り、高知県立図書館からコピーを取り寄せました。
土佐史談会さま……、隣の県の県立図書館にくらい、寄付してくださいませな。
「史料から白峯駿馬と近藤長次諸を探る」という論文です。参考にさせていただきます。
慶応2年(1866年)1月13日、長次郎は、伊地知壮之丞や喜入摂津など、薩摩藩の重役と会談しています。
翌14日には、野村は、長次郎、伊藤博文、菅野覚兵衛(千屋寅之助)とグラバーの別荘で会っています。
そして23日。
野村のもとへ沢村惣之丞、高松太郎、千屋寅之助が現れ、長次郎が「同盟中不承知之儀有之」自刃したと告げます。
ちょうど、木戸が薩長同盟の条文をつづり、ユニオン号のこともどうぞよろしく頼むと、書いたその日です。
長次郎の死の最大の要因は、やはり、薩長同盟におきまして、藩主父子から藩主父子への橋渡しという要に立ちながら、役目を果たせなかった、という自責なのでしょう。
しかし、その死を野村に告げにきました三人は、亀山社中でも、土佐勤王党に属したメンバーで、長次郎とは肌合いがちがった、と思うんですね。
自分たちの蒸気船乗り組みは保証されず、同じように活動しながら、長次郎のみがイギリスに遊学するとは許されない、という思いも、あるいはあったのではないんでしょうか。
覚えておられるでしょうか? 沢村惣之丞は、龍馬とともに脱藩した人ですが、このほんの2年後、戊辰戦争の折りの長崎で、あやまって薩摩人を射殺してしまい、薩摩と土佐の関係がこじれることを恐れ、自刃します。
まわりの薩摩人もとめたといいますのに、死に急ぎましたのは、長次郎を死に追い込んだことへの悔恨の念があったから、ではなかったんでしょうか。
野村の日記によりますと、そのころ長崎の英語塾で前田正名と同じ布団に寝ていました陸奥宗光が使者になり、京都の小松帯刀に長次郎の死を知らせることになります。
当時、京都にいました桂久武の日記では、2月10日に、小松から西郷へ、西郷から桂久武へという経路で、陸奥がもたらしました長次郎の死の知らせは届きました。
皆川真理子氏は、龍馬の妻、お龍さんの後日談から、陸奥より先に、亀山社中の白峯駿馬が龍馬に長次郎の訃報を伝え、長次郎の妻に遺品を届けたのではないかと、推測なさっています。
Wikisourceに、坂本龍馬関係文書/三吉慎蔵日記があります。
通常、薩長同盟が成り立った、といわれます京都での西郷・木戸会談に立ち会いましたのち、龍馬は寺田屋で伏見奉行所の捕り物にあい、負傷して、京の薩摩藩邸にかくまわれます。
いっしょにおりました三吉慎蔵によれば、京都への移動は2月1日のことでして、多くの薩摩藩士がそのもとを訪れ、大久保市蔵、岩下左次右衛門、伊地知正治、村田新八、中村半次郎と、桐野の名は5番目にあがっております。
皆川真理子氏の推定があたっておりましたら、すでにこのとき、長次郎の死の知らせは龍馬に届いていたことになりますが、少なくとも2月10日には、半次郎もそれを知った、と思われます。
河田小龍が、京都で近藤長次諸の死を聞き、薩摩藩邸を訪れましたのは四月のことで、新宮馬之介は九州、龍馬もお龍とともに鹿児島へ行っておりました。
半次郎は、別府彦兵衛などとともに、惜しんであまりある長次郎の生と死を、小龍に語ったのでしょう。
最後になりましたが、近藤長次諸顕彰会というサイトさんを見つけまして、記事というコーナーに、平成22年7月7日の高知新聞の記事が載っています。
長崎の晧台寺に、長次郎の50年忌に青山のじじいが奉じた漢詩が残っていたんだそうです。
若かりし日、ともにイギリスへ行くはずだった英才をしのんでのことでは、なかったんでしょうか。
もう一つだけ、龍馬の「梅太郎」といいます変名、使いはじめた時期がいまひとつはっきりしないのですが、慶応2年からであるようです。私には、龍馬が近藤長次諸を悼んで、その別名、梅花道人にちなみ、その生をも引き受けて生きようとしたがための変名、と思えます。
ずいぶん長くなってしまいましたが、長次郎は、もっとちゃんと調べて、ちゃんとした伝記を書きたいな、と思わせてくれる人でした。
とりあえず区切りをつけまして、前田正名にかえります。
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