桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol2の続きです。
桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書きましたが、饅頭屋の近藤長次郎は、最晩年の安積艮斎に師事したものと推測されています。
龍馬の影を生きた男近藤長次郎 | |
吉村 淑甫 | |
宮帯出版社 |
安積艮斎につきましては、生誕の地であります安積国造神社のサイトをご覧ください。生涯、門人、漢詩文の代表作まで載せてくれています。
肖像画もこのサイトに載っていますが、なかなかに味のある、いい顔のように思えます。
しかし吉村淑甫氏によれば、「わしが今日の栄達を得たのは、昔、妻女に嫌われたことが原因である」と、艮斎本人が言っておりまして、16歳にして隣村の叔父の家に婿養子に行きましたところが、艮斎があんまりにも醜いので、従姉妹でもあり妻でもある家付き娘が口も聞いてくれず、艮斎はいたたまれなくなりまして、学問で身を立てる決心をし、家出して江戸へ出たのだそうです。
なんでこの面食いの私が、若い娘が口をきくのもいやがるほど醜い男の話を書いているのかと思うのですが、まあ、そこまでいきますとねえ。醜いのも個性です。書く文章は、とても美しかったそうですし(笑)。
安積艮斎が24歳にして、江戸神田駿河台に私塾を開いた、といいますのは、旗本小栗家の敷地内でのことでして、当然のことなのですが、小栗家の嫡子・小栗又一(忠順・上野介)がここで学んでおります。
小栗上野介はいうまでもなく幕府の殖産興業の中心となり、幕府海軍最大の事業でした横須賀製鉄所を軌道に乗せたお方です。
バロン・キャットと小栗上野介が一番まとまっているかと思うのですが、ともかく、横須賀製鉄所設立の価値は明治海軍も認め、朝敵とされました上野介ですけれども、海軍だけは価値を認めて顕彰していた、といいます。
日本海軍の基礎を築く、という面におきまして、実は勝海舟はほとんどなにもしておりませんで、海舟が政敵として嫌っておりました小栗上野介が中心になって築いたものが、新政府に継承されたわけでして、一方、上野介が三井にやらせました生糸取り引きを中心とします商社活動には、維新後、長州閥が寄生し、井上聞多(馨)が「三井の番頭さん」と呼ばれるようにもなったりします。
それはともかく、安積艮斎の門人には、木村芥舟、栗本鋤雲と、小栗上野介が進めました富国強兵策の協力者がいます一方で、吉田松陰、高杉晋作の過激倒幕派子弟がいます。
しかし、松陰の思想の中にも富国強兵的な面がありまして、弟子の中で一番、高杉がそういった面を受け継ぎ、いっときは海軍を志しましたことは、高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いております。古い記事ですが、このとき書きましたことは、ユニオン号事件で近藤長次諸が自刃するにいたった経緯に、かなり深く関係しますので、後でまた取り上げます。
早稲田大学の古典籍総合データベースで、安積艮斎著作は、かなりの数がデジタル公開されていますが、この洋外紀略を嘉永元年(1848)、つまりはペリー来航の数年前なんですが、黒船騒動が頻発します時期に書いて、世界地誌を説き、海防、海外交易を論じていますのは、注目すべきですし、塾生が受けるインパクトは大きかったことでしょう。
ここに、三井が近代的な商社に脱皮する機会を与えました小栗上野介、海運業から出発しまして商社となりました三菱の創業者・岩崎弥太郎の二人が学んだといいますことは、勝塾ではなく、こちらにこそ、商社に育ちます種はあったことになります(笑)
おそらく、なんですが、その岩崎弥太郎の紹介を受けまして、短い間ながら、近藤長次郎は安積艮斎に学んだわけです。
艮斎塾の学頭でした間崎哲馬(滄浪)がいつ再上京したのか、私にはちょっとわからないのですが、文久元年(1861年)に江戸で勤王党が結成されましたとき、間崎は土佐に帰っていた、という話があるのですが、それ以前には、再び江戸に遊学していた、というようにも言われているようです。
そして、前回に書きましたが、江戸で土佐勤王党の盟約文を起草しました、高見弥一の従兄弟の大石弥太郎。弥太郎さん、武市半平太とは、江戸の桃井春蔵の剣道塾・士学館でいっしょに学んだ仲ですが、この文久元年3月には、藩から洋学修行の命を受けて、勝海舟の塾に学んでいました。
桐野利秋(中村半次郎)と海援隊 上の最後に、長次郎くんは、土佐藩邸の刀鍛冶・左行秀に学費を出してもらい、高島秋帆に弟子入りし、勝海舟にも弟子入りしたということを述べたんですが、これは、河田小龍の「藤陰略話」に書いてあることでして、これによりますと、長次諸は、龍馬とは関係なく、龍馬より先に、勝海舟の塾に入っていたことになるんです。
勝塾へは、高島秋帆の紹介、ということも考えられるか、とも思ったんですが、左行秀かもしれず、私は、艮斎塾の先輩、間崎哲馬の線が濃厚ではないか、と思うんですね。なにしろ、艮斎塾の学頭だった間崎です。相当、顔がきいたと見てよく、ともかく、長次諸は龍馬より先に、少なくとも大石弥太郎と同じくらいには、勝塾に入ったと見てよさそうに思います。
坂本龍馬 (岩波新書) | |
松浦 玲 | |
岩波書店 |
坂本龍馬の虚像と実像や松浦玲著『新選組』のここが足りないに書いておりますが、松浦玲氏のご意見には、ときどきついていけなくなりまして、呆然とすることもあるのですが、この「坂本龍馬」は、そこそこ納得のいくまとめ方がされていまして、そしてなにより今回気づいたのですが、松浦玲氏は文章がすばらしくお上手です。
わけても「はじめに」で、島津久光が率兵上京をし、龍馬が脱藩して江戸にたどりつき、勝塾に入りました文久2年の政治状況と、勝海舟の当時の立場を、多少美化されたきらいもありますが、コンパクトにわかりやすくまとめておられます。
ともかく、です。
藤井哲博氏の「咸臨丸航海長小野友五郎の生涯―幕末明治のテクノクラート」 (中公新書 (782))には、勝海舟について、以下のようにあります。
なるほどその(勝海舟の)経歴は日本海軍の父と呼ぶにふさわしい。
しかし、これらの経歴を通して、果たして彼は日本海軍の基礎作りに、実質的にそれほど貢献したのであろうか。答えは否というべきだろう。当時、幕閣も諸有司もそのことはよく承知していた。だが彼には、人一倍すぐれた才能が備わっていて、ある意味では幕府に是非必要な存在だった。それは、巧みな弁舌をもって周旋・調停をする能力である。これは親譲りの才能らしく、彼の父小吉は、本所界隈の無頼の徒のもめごとを巧みに収拾し、それが生活の資を得る手段にもなっていたと、『夢酔独言』で自らのべている。
海舟は、航米後いったんていよく海軍を追われたが、大久保越中守忠寛(一翁)、松平慶永(春嶽、政治総裁職に就任)、将軍家茂など、海軍のことに暗い時の権力者に直接接触する機会を作って、これに働きかけ、海軍に返り咲くことができた。
藤井哲博氏は、海軍兵学校で学び、帝国海軍に在籍したことのある方でして、戦後は京都大学理学部などで学ばれました理数系の方です。海軍史を研究されて、「長崎海軍伝習所―十九世紀東西文化の接点」 (中公新書)も書いておられますが、技術者の視点から見ましたとき、勝海舟は巧みな弁舌をもって周旋・調停をする政治家であって、海軍の基礎作りに貢献したわけでは、決してないわけなのですね。
オランダの長崎海軍伝習で、勝海舟が数学に苦しんだらしいことは記録に残っていることですが、航海術、測量術、砲術など、海軍を学習します基礎には数学が欠かせないんです。
高杉晋作「宇宙の間に生く!」と叫んで海軍に挫折に書いておりますが、海軍を志しました初航海の後、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」(性格がおおざっぱで、狂い気味なんだからさ、航海術なんぞというちまちま細かなものは、向いてなかったね)と、高杉は挫折するのですが、船酔いもしたかもしれませんが、それより、見習い士官として船上で学びました航海術必須の数学に、うんざりしたんでしょうね。
松浦玲氏は、この藤井哲博氏の説を、かなり受け入れるようになっておいでのようです。
長崎のオランダ海軍伝習で5年間の長きにわたって数学と取り組み、悪戦苦闘いたしました勝海舟は、41石と石高は少ないながら直参旗本となり、海軍伝習を受けた中では家柄がよく、売り込みの才にも長けておりました。
そんなわけで、咸臨丸の太平洋航海が決まりましたとき、勝は自分で自分を売り込んで艦長になったのですが、ほとんどなんの役にも立たずに終始しました。それは、実質的に艦長のような役目を果たしましたアメリカ人・ブルック大尉の日記や、咸臨丸に乗組んでおりました斉藤留蔵の手記などで、確かめられることでして、東善寺さんのサイトの「咸臨丸病の日本人」にも、簡潔にまとめられております。
勝海舟というお方の値打ちは、周旋、調停といいます政治家としての能力にありまして、その国内政治活動のために海軍を使ったのであって、国防を真剣に考えて海軍の基礎作りに寄与した、というわけでは、まったくもってないんですね。
松浦玲氏は「坂本龍馬」におきまして、龍馬が出会った当時の勝海舟について、「政治に海の時代を開こうと奮闘中だった」と、すばらしく美しい表現を使っておられますが、これは「海軍を人質に政界に乗り出そうと奮闘中だった」と言い換えましても、まちがいではないと思います。
咸臨丸が日本へ帰りつきましたとき、勝海舟は咸臨丸の部下たち、つまりは長崎で海軍伝習を受けました海軍仲間から嫌われ、海軍からはずされます。蕃書調所や講武所に二年ほどいました。
そして文久2年、島津久光の率兵上京があり、久光は勅使とともに、幕政改革のために江戸へ向かいます。
圧力に屈した幕府は、朝廷の要請にしたがった改革を行い、一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職となり、かつての一橋派幕臣が全面復権するんですね。
それが、勝には幸いしました。勝は島津斉彬と面識がありましたし、春嶽の片腕として活躍し、安政の大獄で刑死しました橋本左内とも知り合いで、一橋派の人脈に連なっていたのです。
一橋派の復権と重なりますように、勝海舟は「将軍や幕府高官の移動は蒸気船で行い、江戸と京都の関係が、素早く、潤滑に取りはからえるようにしよう」という建白を行い、軍艦奉行並に返り咲きます。
まあ、確かに、将軍さまが蒸気船に乗られることには、それなりの意味があったかもしれないのですが、問題は、蒸気船の数にも、それを運用する人員にも、限りがあったことでして、勝が、ですね。自分の蒸気船に将軍さまやら高官やら、お公家さんやらを乗せまして、「どうです、海風がよござんしょ?」なんぞと機嫌をとりつつ、自分の望みを果たそうとしている間に、ですね。幕府海軍が真摯に取り組んでおりました小笠原開拓事業は中止になりまして、おかげさまで小笠原諸島が日本領と確定しますのは、ようやく明治9年のことになります。
脱藩した龍馬が江戸にたどりつきましたのは、ちょうど、勝が海軍に返り咲いた直後でした。
9月10日付けで、間崎哲馬が江戸から国元に出した書簡に、龍馬の名が出てくるのですが、この時点ではまだ、勝塾には関係がなさそうです。
平尾道雄氏が、龍馬を勝海舟に紹介したのは千葉重太郎としておりましたのは、勝が後年に書きました「追賛一話」に、年月日は記さないで「坂本氏は剣客千葉周(重)太郎とともに氷川の拙宅を訪ねてきたので、海軍の必要を大いに説いたら、坂本氏は、公の説によっては刺そうと思って来たが、自分がまちがっていたようだ、いまから公の門下生になる、と決心した」というようなことを書いていまして、これをもとになさったんですね。
この年の暮れ、越前藩の記録・「続再夢紀事」に、12月5日付けで、「土佐藩の間崎哲馬、坂下(本)龍馬、近藤昶次郎(長次郎)が来て、春嶽公が会われた。彼らは大坂近海の海防策を申し立てた」とあります。
吉田東洋暗殺によって、武市半平太は土佐藩政を牛耳れるようになりまして、土佐勤王党は躍進し、このときの間崎哲馬は、江戸の土佐藩邸で重きをなしています。龍馬は脱藩の身ですし、近藤長次郎はおそらく、士分になったばかりのころですから、政事総裁職の春嶽が彼らにあったのは、どう見ても間崎哲馬がいたから、です。
土佐藩は、幕府から大阪湾岸の防衛を任されておりまして、住吉に広大な土地をもらい、吉田東洋の指揮で住吉陣屋を築いておりました。まあ、このおかげで、維新直後に堺事件を起こしたりするのですけれども、それは置いておきまして。
この直後、12月11日付けの勝海舟の日記に「当夜、門生門田為之助・近藤昶次郎来る。興国の愚意を談ず」とあり、はじめて長次郎の名が現れますが、すでに長次郎は門生であり、松浦玲氏によれば、勝海舟の日記は相当にいいかげんなものだそうでして、とっくの昔に入門していた可能性が高いんです。
龍馬の名が初めて勝の日記に現れますのは、この20日ほど後の大晦日です。
勝は、幕府の蒸気船・順動丸で小笠原図書頭長行を大阪へ運び、兵庫で、航海で傷つきました順動丸の修理をしていました。
その順動丸に、千葉重太郎と坂本龍馬が訪ねてきて、勝に京都の上京を訪ねた、というんですね。
千葉重太郎は、坂本龍馬が長く修行していました千葉道場の師匠であり、友人でもありましたが、鳥取藩士になっておりまして、鳥取藩主は、一橋慶喜の実兄・池田慶徳です。このとき、藩主の上京にともない、重太郎は、周旋方となって上方へ派遣され、どうやら、龍馬と同行したようなのです。
「追賛一話」は、どうもこのときのことを書いたらしいのですが、勝塾には長次郎がいるわけですし、龍馬がいつ入塾したかは謎なのですが、確実なのは、やはりこのときでしょう。
翌日、文久3年の元旦の勝日記には、「龍馬、昶次郎、十(重)太郎外一人を大坂へ到らしめ京師に帰す」とあるそうでして、長次諸が登場し、順動丸に乗り組んでいたことがはっきりします。
続きまして、その8日後、1月9日の勝日記には「昨日土洲之者数輩我門に入る、龍馬子と形勢之事を密議し、其志を助く」と、あるそうです。
龍馬は、自分が入塾すると同時に、土佐藩士を多く勝塾に誘ったようです。当時はまだ、勤王党の弾圧ははじまっておりませんで、おそらく、なんですが、これは春嶽公に訴えました、土佐が受け持つ大阪近海の防備をどうするか、という方策に結びつくものだと思えます。
大阪は当時の日本の物流の中心ですし、土佐が海軍を持てば、当時はどうもそれが流行の考え方だったようなのですが、暇なときには通商に使える、ということで、とりあえずは海軍の人材を育てよう、といいます、小龍との約束の話につながるんですね。
小龍の話は、土佐のコーストガードでしたけれども、龍馬が取り組もうとしておりますのは、土佐藩が受け持ちます大阪近海のコーストガードも含めて、の話に発展しております。
実際、例えば長崎防衛を任されておりました肥前や福岡、そして薩長という雄藩にくらべまして、土佐の海軍への取り組みは著しく遅れておりまして、勝が塾頭でした長崎のオランダ海軍伝習に、一人も藩士を送っておりませんでした。
これ以降、龍馬はさかんに土佐藩士を勝塾に誘い、その多くは勤王党員です。
特筆すべきは、龍馬といっしょに脱藩しました沢村惣之丞が入塾したことでしょうか。
この人は後に、近藤長次諸の死に、深くかかわることになります。
ほとんどが勤王党員だった、とはいえ、です。小龍が育てておりました農民の子、新宮馬之助も入塾しました。江戸へ遊学中に入塾、ということですから、あるいは龍馬ではなく、長次郎が誘ったのかもしれませんが、長次郎が死んだ後々までも、その遺族と交流を持ったのは、新宮馬之介のみであったようです。
いずれにいたしましても、龍馬はこの時期、脱藩の罪を許され、また龍馬が誘いました塾生ともども、土佐藩から航海術修行を正式に命じられた形になっています。
しかし、どうなんでしょうか。
高杉晋作が、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と述べて海軍終業に挫折いたしましたのに、龍馬は高杉よりおおざっぱな性格ではないとでもいうのでしょうか? 数学が得意だとでもいうのでしょうか?
私には、とてもそうは思えません。
この3月、龍馬は故郷の乙女姉さんに「日本で一番すごい人物、勝麟太郎という人の弟子になったよ。以前から、毎日思っていたような方面で、がんばってます」と書き、5月には「天下に二人といない軍学者・勝麟太大先生の門人となって、とてもかわいがられ、客分みたいなものになっちゃっているよ」と書いています。
どちらの書き方も、航海術やら測量術やら砲術やらを学んでいるとは、とても思えない書き方で、龍馬が勝に学んでいたのは、勝が得意としました巧みな弁舌をもって周旋・調停をする政治であり、実際に、龍馬は非常に社交的で、明るく、そういう方面に長けていまして、勝に気に入られ、例えて言いますならば政治家秘書の修行をはじめた、というようなことであったのではないでしょうか。
文久3年は、激動の年でした。
長州が攘夷戦をはじめ、薩英戦争があり、8月18日の政変で過激公卿と長州が都を追われ、天誅組の変は失敗に終わります。
土佐勤王党にも破局が訪れました。
最初は、間崎哲馬をはじめ、武市半平太が頼りとしました中核人物、三人の切腹です。
次いで、山内容堂は、完全に藩政を掌握し、吉田東洋暗殺を問題としまして、半平太も投獄されます。
この年の暮れには、勝の塾生であります勤王党員にも帰国命令が出されますが、ほとんど全員がそれを無視しましたので、脱藩の身になります。
神戸海軍操練所跡地の記念碑です。去年、神戸に行き、撮ってまいりました。
この年から、勝海舟は神戸海軍操練所の開設準備をしておりました。
それまでの間、最初は大阪に、次いで神戸に勝の私塾がありました。
翌元治元年(1864年)、築地の軍艦繰練所が火災にあったこともありまして、5月に神戸海軍操練所が開かれます。
しかし、これがどうも、あまり落ち着いて勉強ができる場では、なかったようなのですね。
勝海舟 (中公新書 158 維新前夜の群像 3) | |
松浦 玲 | |
中央公論新社 |
松浦玲氏の「勝海舟」に、薩摩の伊東祐亨、後の元帥海軍大将、日清戦争におきましては連合艦隊司令長官だった人ですが、この人が神戸海軍操練所について、語った言葉が引用されています。孫引きです。
「授業の時間はおおむね午前中に終るので、放課後は各藩士は、おのおの同藩のみ相集合し、あつまれば要なき時事の慷慨話にふけり、ために伝習をさまたげらるることも多し、ややもすれば、それがため講学を休まねばならぬ場合も少なくなかった」
これ、検索をかけてみますと、どうも、明治43年の「日本及び日本人 南洲号」に載っています「余の観たる南洲先生 伯爵 伊東祐亨」の一部であるらしいんです。
個人の方が Yahoo!掲示板にもう少し長く、「余の観たる南洲先生」をあげておられるのですけれども、どこまで正確かはわからず、上の引用とは語句の異同がかなりあります。本当は、国会図書館ででも確かめる必要がありますが、いまちょっと暇がありませんで、同じものだと考え参考にさせていただきますと、この後、若かりし日の伊東は「西郷先生、こげなところでおいは勉強できもはん。江戸の海軍塾に転学させて欲しか」と訴えましたところが、西郷は、「転学するのはかまわんが、今、大阪から急使が来て、長州藩の軍が迫っているようじゃ。朝廷をお守りせなならん危急のときじゃということを知っときなさい」と、若年の書生に対しても懇切丁寧にいさめてくれた、というんです。
えー、禁門の変の直前、ですから、7月のことなんでしょう。
神戸海軍操練所は5月に開校したばかりで、6月のはじめには池田屋事件が起こり、土佐勤王党員の生徒・望月亀弥太が死んでいますし、同じく土佐の志士で生徒だったといわれる北添佶摩も闘死しています。
神戸海軍操練所には、薩摩藩士が21人入っていましたが、これがまた、薩英戦争を戦った壮士が多かったそうですし、はっきりいいまして、数学の勉強どころではなかったでしょう。
伊東が転学したがっていた江戸の塾、といいますのは、築地軍艦繰練所のことなんでしょうか。幕臣以外は受け入れていなかった、という話だったと思ったのですが、受け入れるようになっていたのか、あるいは、だれか教授の個人塾かなんか、でしょうか。
実は、もう少し後の8月になりますと、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、武田斐三郎が江戸に帰りまして、この人の洋学塾が評判で、薩摩藩第二次留学生の吉原重俊が学んだようなのですが、函館では航海術も教えていたようなのですから、江戸でも教えた可能性はありそうなのですけれども。
ともかく、勝海舟の神戸海軍操練所は、西日本雄藩の大名たちに働きかけるための、非常に政治的意味合いの濃いものでして、きっちりとした教授法とか、勉強ができる環境とか、整えられていたわけでは、ないんです。
私、この年の11月末に、半次郎(桐野利秋)が、「兵庫の塾に入りたい」、つまりは海軍の勉強がしたいと言っていたと知りましたときから、ながらく「えええええっ! 数学大丈夫???」と首をかしげておりました。
なにしろ高杉晋作が、「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわずと」と言って挫折しましたのに、半次郎が高杉よりおおざっぱな性格ではない、ということはなさげですし 数学が得意そうでもありませんし。 いやそれとも、あるいは得意だったんでしょうか。
しかし、です。
伊東祐亨の回想を知りましてからは、納得がいきました。
要するに、ろくろく航海術や測量術や砲術の勉強はしませんで、時事放談をする塾だったというのですから。
えー、またまた長くなりすぎてしまいましたので、下を前編、後編の二つにわけます。
次回下の後編で、いよいよユニオン号事件の話になりまして、終わることができると思います。
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