最初は、「普仏戦争と前田正名」シリーズで書こうかと思ったのですが、ちょっとそれも変かなと、もう一度シリーズをお休みして、このお題にしました。
まずは、この絵葉書を御覧ください。
なんと桐野は、島津斉彬、西郷隆盛、大久保利通、村田新八と並んで薩摩の五偉人の一人です。そ、そ、そ、そうなんですかねっ!!!
それはともかく、今回、図書館から借りてきました「坂本龍馬全集」 (1978年)をぺらぺらと眺めておりまして、あんまりにも意外なところで「中村半次郎」の名前を見まして、えええええっ!!! と驚き、あれこれ考えあわせますと、桐野は中岡慎太郎だけではなく、坂本龍馬とも、かなり親しかったように見えるんですね。
慎太郎はもちろんのこと、龍馬の資料につきましても、西尾秋風氏は十分に読み込んでおられたはずでして、どこをどう狂われて、まともな資料の交流関係を無視し、高松太郎書簡の「石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ」をまた、無視してしまわれたんでしょうか。私のような凡人の理解が及ぶ範囲を大きくはずれた、斜め上の奇才でおられたんでしょうけれども。
と、また脱線しかかっておりますが。
「坂本龍馬全集」に収録されております「藤陰略話」。
これ、明治27年ころ、京都に住んでいました河田小龍のもとに、故郷の高知から、近藤長次郎(上杉宗次郎)の履歴を問い合わせてきたのに答えて、小龍がしたためたものです。
Wikisourceに全文ありましたので、リンクしてみます。「坂本龍馬関係文書/藤陰略話」です。これに、半次郎が登場いたします。
其頃坂本ハ伏見遭難ヨリ潜行シ、新宮ハ九州ヘ行、近藤ハ自殺セシトノコトヲ聞、烏丸薩州邸ヲ訪、中村半次郎、別府彦兵衛ナドニ近藤自滅ノ顛末ヲ聞及ベリ。(慶応二年四月、中村別府ヨリ近藤ノ実ヲ聞ク)
まず、河田小龍から説明していくべきなんでしょうけれども、世間一般では、龍馬を海外事情に目覚めさせたお師匠さん、として有名なんじゃないでしょうか。
とりあえず、手に入りやすかったこの本を読んでみました。
龍馬を創った男 河田小龍 | |
桑原 恭子 | |
新人物往来社 |
この「龍馬を創った男 河田小龍」が小説仕立てでして、「藤陰略話」と大きく内容がちがっているわけではないのですが、後述しますように、作者の想像か、と思われる事柄が断定的に書かれていたりもしまして、もう一冊、高知市民図書館が1986年に発行しました「漂巽紀畧 付研究河田小龍とその時代」も手に入れました。
小龍は、高知の御船手組の軽輩の家に生まれ、祖父の養子となり、絵を習います。
船奉行だった吉田東洋が、その才能を目にとめ、京へ連れていってくれましたので、狩野派に入門して学ぶことができました。
その後、長崎へ行って蘭学などを学び、土佐へ帰国。
ジョン万次郎は、小龍より三つ年下で、現在の土佐清水市の漁民の家に生まれ、14歳のとき、漁に出て嵐に遭い、伊豆諸島の無人島・鳥島に流されて、アメリカの捕鯨船に救助されます。
非常に利発だったため、船長に気に入られ、養子となってアメリカ本土で学びます。
一人前の捕鯨船員となりましたが、望郷の念にかられ、資金を貯め、ハワイへ渡っていっしょに漂流した仲間と再会し、嘉永4年(1851年)、上海から琉球へ渡ります。
ペリー来航の二年前のことでして、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1に書いておりますが、日本近海には頻繁に黒船が出没し、薩摩支配下の琉球には、すでに天保15年(1844)、フランスの軍艦が現れ、開国要求をしていたりします。
薩摩では、開明的な島津斉彬が藩主になったばかりでしたし、海外情報を求めていましたので、幕府の許可を得た上で保護し、教師として待遇しました。
万次郎は土佐へ帰され、縁あって、小龍は万次郎から海外事情の聞き取りをします。
この聞き取りを、挿絵をまじえて小龍がまとめました「漂巽紀畧」は、藩主に献上されましたが、複数の写本があるようでして、その一つが、早稲田大学図書館の古典籍総合データベースで検索すればでてきまして、デジタルで見ることができます。うまくリンクが張れますかね。漂巽紀畧. 巻之1-4 / 川田維鶴 撰なんですが、PDFで見るときれいです。
一方、土佐藩庁の万次郎取り調べを元にした「漂客談奇」と呼ばれる本もあり、これも多くの写本が出回っているのだそうです。
また万次郎は「漂巽紀畧」の草稿を小龍の家から盗み出しまして、土佐の識者だった早崎益寿に渡し、早崎がそれをまる写しにして「漂洋瑣談」を出版し、万次郎の漂流譚は有名になり、しかし、小龍はこの事件で万次郎と絶交したという話もあります。
ともかく、「漂洋瑣談」には、小龍が万次郎から聞き取った話をもとにしている旨、明記してあるそうでして、流布本が出まわりましたことで、小龍はいやな思いをしましたが、万次郎とともに、海外事情通として有名になりもしたようです。
小龍は、安政元年(1854)には、家老だった吉田東洋の推挙で、土佐の筒奉行と洋式流砲術師範が薩摩へ勉強に行くのに、図取り役として随行しました。
「龍馬を創った男 河田小龍」の桑原恭子氏は、以下のように書いておられたので、どびっくりしました。
小龍は、薩摩藩士中村半次郎(後の桐野利秋)や別府彦兵衛らの案内で、これら薩摩の富強ぶりを見て歩き、最後に斉彬の案内で鹿児島城内の写真研究所を見学する。
い、い、いや……、流罪人の子で、百姓に土地を借りて芋を作って食いつないでいました16、7の半次郎が、藩の客人を案内するなんて、ありえないですから!!!
桐野は、龍馬より二つ若くて、近藤長次朗と同じ年なんです。長次朗より八ヵ月ほど若いわけですし、文久2年(1862)、島津久光の率兵上京に従うまで、藩士らしい扱いは受けておりません。
これ、桑原恭子氏が想像で書かれたことかと思いましたら、あきれましたことに、先に書かれました「漂巽紀畧 付研究河田小龍とその時代」の方が、さらに上をいくまちがいをしてくれていまして。
(小龍は)この様な滞在の日を送る内当初より付人を勤めてくれた中村半次郎(筆者注・後の桐野利秋)別府晋介(筆者注・いづれも西南役に戦死)その他多くの友を得て、永らく親交があった。
い、い、いや……、別府彦兵衛を勝手に晋介にしないでくださいな!!! 安政元年には、晋介はわずか七つかそこらのガキだから!!!
おそらく、最初に引用しました「藤陰略話」の後年の話から、昔、誰かが勝手に、安政元年に小龍が薩摩を訪れたときにまで半次郎との交流をさかのぼらせて想像し、想像だけで書きましたことを、高知の人々は踏襲してまちがえておられるようなんですけれども、年齢くらい計算していただきたいものです。
この安政元年の暮れ、日本列島は大地震に見舞われます。
11月4日に安政東海地震、そして翌5日に安政南海地震が起こったんです。
この二日後には豊予海峡地震が起こりまして、私の高祖母の出身地、松山平野でありながら大洲藩領の郡中(いろは丸を買った国島六左衛門が奉行をしていた土地です)でも、大きな被害が記録に残っておりますが、去年、土佐赤岡の絵金祭に行きましたときには、絵金蔵に地震と津波の様子の素描が展示してありました。複製があれば欲しかったんですけど、ありませんで。
当時の土佐の被害も、すさまじいものだったみたいです。
大地震は、小龍が薩摩から帰ってまもなく起こり、浦戸にあった小龍の家は被害にあい転居を余儀なくされますが、この転居先の縁で、新たな弟子を育てることになりました。高知城下の饅頭屋の近藤長次郎です。長次郎は利発な少年で、才覚を惜しんだ義理の叔父が、学問を教えてやって欲しいと、頼んだものです。
浦戸におりましたころから小龍は、新宮村の農民の出の新宮馬之助を内弟子にしていましたが、馬之助は絵を習いに来ていました。
小龍は学者ではないのですが、蘭学を学んでいましたし、「漂巽紀畧」を記したくらいで学識もありますし、ずっと近所の少年に学問を教えていたようなのですが、その才能で小龍をうならせておりましたのが、同じ浦戸町内の医者の息子、長岡謙吉です。
浦戸といいましても、この当時の浦戸とは、現在のはりまや町のことでして、小龍の家は、はりまや橋観光バスターミナルの裏手、高知市消防団南街分団の向かい側あたりにあったそうです。
海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉 | |
山田 一郎 | |
新潮社 |
この「海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉」、ずいぶん大昔から持っていた本なのですが、内容を忘れこけてしまっておりました。
かなりしっかり、長岡に関する資料は調べられ、きっちりと書き込まれてはいるのですが、龍馬・長岡ラインで海援隊の平和路線が強調されすぎ、と私は思いまして、桐野利秋と龍馬暗殺 前編で、つっこみを入れたりもしました。大政奉還の直後に、長岡と中井(桜洲)が横浜へ行っている部分、龍馬の指示で「議会ってどんなもん? 教えてくんないかなあ~♪ サトちゃん~♪」と、二人は出かけたのだと、なさっておられるんです。
しかし、すでにこのつっこみを入れたとき、私は本の前半部分をすっかり忘れこけていまして、長岡謙吉って、長崎で再来日したシーボルトに師事し、息子のアレクサンダーくんが少年だったころから、知り合いだったんですねえ。アレクサンダーくんは、横浜のイギリス公使館勤務なんですが、ただこの慶応3年秋には、ヨーロッパに帰っていたかと思います。
話をもとにもどしまして、長岡謙吉は後に海援隊に入りまして、大政奉還の建白書の草案を起草したのではないかと言われております。これに手を入れましたのが欧州帰りの中井弘(桜洲)で、中井桜洲と桐野利秋に書いておりますように、中井は桐野と仲がよさげで、時期はちょっとちがうんですけれども、桐野と海援隊のつながりにリンクしている話のようにも思われます。
長岡謙吉は、龍馬よりは二つ、近藤長次よりは四つ年上です。
小龍に学問を教わっておりましたのは十二、三歳のころで、その後大阪、江戸で、医者になる勉強をしました。
大地震のころ、謙吉は高知に帰ってきていて、謙吉の親戚だった坂本龍馬も、そうでした。
嘉永6年(1853)、龍馬は、剣術修行に江戸に行っていまして、ペリー来航を目の当たりにし、土佐藩江戸在府の臨時雇いとして海岸警備にかり出され、「異国の首を打取り帰国仕る可く候」と、故郷の兄への手紙に書きました。
故郷へ帰った龍馬は、黒船来航の衝撃から、今度は大地震。黒船の脅威に対抗して、日本はいったいこれからどうすればいいのか、思案をめぐらせていたのでしょう。土佐には、「漂巽紀畧」を記した小龍がいる!ということだったのでしょうか。あるいは、山田一郎氏が書いておられますように、謙吉と親戚で、年が近いですし幼なじみで、以前から謙吉の師だった小龍を知っていたのでしょうか。
ともかく、大地震の後、小龍が転居して間もないころ、龍馬は小龍を訪れ、「黒船がきちゅう。どがいしたらええがか、意見を聞かせてくれまいか」と、勢い込んで意見を乞います。小龍は、「「私は世捨て人で、書画をたしなみ、風流で世に対しているだけだから、俗世間のことには関心がない。意見などないよ」 と、笑いました。
結局、小龍は語りはじめるのですが、このときの二人の対話が、後の海援隊につながっていったようなのです。
小龍の意見は、だいたい、次のようでした。
「攘夷か開国か、それは対立するものじゃないんだよ。攘夷はとてもできない相談だけれども、もし開港した場合にも、かならず攘夷の準備をしておかなければだめでしょう。今の日本の軍備は役に立たないものばかりで、わけても海軍がそうです。土佐藩の場合、弓隊や銃隊を船に乗せて浦戸湾へ押し出しても、船がひっくり返るほどに揺れ、目標が定められず、十人中七、八人までは船酔いでなんにもできやしませんよ。どこの藩でもそんなもので、西洋の黒船を迎え、なんで鎖国ができるでしょう。開国だ攘夷だとうちわもめをしているうちに、黒船は続々とやってきて、国は疲弊して人心は乱れ、ルソン島(当時スペインの植民地だったフィリピン)みたいに植民地にされてしまうかもしれません。ともかく日本人は航海に慣れなければいけません。泥棒を捕らえて縄をなうのたぐいかもしれませんが、海運を盛んにすることが手始めですので、黒船を外国から買い求めて、これで商売をはじめるべきでしょう。」
「藤陰略話」は、明治になって書かれたものですから、本当に当時、この通りのことを小龍が言ったのか、と疑問を呈するむきもあるようなのですが、ただ、趣旨としましては、当時の識者がかなり共通して抱いていた意見だった、と思います。すでに18世紀末、林小平の「海国兵談」が書かれておりますし、幕府は、ほどなく、なじみのオランダに頼みこんで長崎で海軍伝習をはじめ、蒸気船も買おうとしておりましたし、危機感から、最初の伝習は諸藩から広く生徒を募って行われることになりました。
また佐賀、薩摩、宇和島などの開明諸侯は、さっそく、なんとか蒸気船が造れないものかと試行しはじめましたし、海外交易事業についての模索も行われようとしていました。
しかし、蒸気船は買うとしても、いっしょに海運事業をする仲間をどうすれば集められる? と問う龍馬に、小龍は「恵まれた上級サラリーマン武士には、志がありません。庶民の秀才で、志があってもそれを実現する資力がない人々を募るべきでしょう」と答え、これは、いかにも小龍らしい答えだったのではないでしょうか。
小龍が農民、饅頭屋の子供を好んで弟子にしておりましたのは、想像をたくましくしますと、万次郎から聞き知ったアメリカの制度に好もしい点を見いだし、国防は国民のすべてが意識してなすものであり、そのためには、身分の差は基本的にとりはらわれるべきだということへの理解が、生まれていたからかもしれません。
このときの二人の対話が機縁となり、後のことになりますが、龍馬は海援隊を起こし、小龍の弟子だった長岡謙吉も新宮馬之介も、そして近藤長次郎も、海援隊(亀山社中)の一員となります。
龍馬の影を生きた男近藤長次郎 | |
吉村 淑甫 | |
宮帯出版社 |
で、饅頭屋の近藤長次郎です。
「龍馬の影を生きた男」って、本の題名もさみしいのですが、結末を知って写真を見るせいか、長次郎くんはどこか、さみしい目をしていますね。
私は、長次郎は龍馬の影を生きたのではなく、小龍の分身として龍馬のそばで生き、そのことが長次郎を死に追い込んだのではないか、と推測していますが、詳しくは後述することとしまして、まずは「龍馬の影を生きた男 近藤長次郎」を主な参考書といたしまして、長次郎の経歴を追います。
長次郎16、7。小龍の弟子になり、日本外史から読みはじめ、史記、新唐書と読み進みました。
その後、小龍の紹介で、甲藤市三郎と岩崎弥太郎にさらに学問を学ぶようになります。
吉村淑甫氏によれば、甲藤市三郎は郷士出身、小龍と同年配の軽輩ですが、吉田東洋に私淑した開明派だったのだそうです。
岩崎弥太郎はいうまでもなく、後年、長次諸が死んで後のことですが、海援隊の経理を担当し、明治、三菱を創始して大物政商となった人物です。
弥太郎は地下浪人(郷士株を売ってしまった者)の子供として生まれましたが、非常な俊才で、江戸に遊学し安積艮斎の塾で学んでいました。
この当時、父親のもめごとで土佐へ呼び戻され、訴訟に負けたことなどから、蟄居をよぎなくされました。この蟄居が長次郎には幸いし、江戸で学んだ俊才に、学問を見てもらえることになったのだろうと、吉村淑甫氏は推測しておられます。
ちょうどこのとき、参政として藩政改革を進めておりました吉田東洋も、江戸の酒席で旗本に無礼を働いたことで罷免され、隠居して塾を開いていたのですが、弥太郎は長次郎に学問を教えるかたわら、東洋の塾に通っていて、東洋の親戚の後藤象二郎とも知り合います。
つまり、長次郎は小龍のおかげで、末端ながら、吉田東洋の人脈につながることになったんです。
龍馬と長岡謙吉は、郷士であり、土佐では身分が高くはありませんでしたが、私費で江戸、大阪に遊学できたわけですし、経済的には恵まれていました。
しかし、長次郎は貧しい饅頭屋の息子。夜には槍剣も習って、文武両道に励んでおりましたが、父の手伝いで、おそらく饅頭の振り売りに、だと思うのですが、毎日伊野村まで出かけていた、というのです。
同じ年の桐野と、いったいどちらが貧しかったのでしょうか? 貧しさでいいますならば、桐野の方が上か、と思うのですが、桐野は流罪人の子で、下級とはいえ、れっきとした鹿児島の城下士の生まれですから、志を果たす機会を将来に見ることも、無理な望みではありません。
しかし長次郎は饅頭屋の息子ですから、これほどの努力も、土佐にいたままでは報われることがありません。
小龍は、長次郎の才能を惜しみ、知り合いの藩の重役に頼み込んで、江戸藩邸に出向く際の下僕の一人に長次郎を加えてもらえるよう、計らいました。
長次郎は、この最初の江戸行きで、弥太郎の紹介だったんでしょうか、最晩年の安積艮斎の塾に入門したのではないか、と推測されています。
長次郎は、どういう事情があったのか、両親が年がいってから生まれた長男でして、長次郎が江戸へ行って一年もたたないうちに、両親はそろって世を去ります。知らせを受けて帰郷した長次郎は、饅頭屋は将来妹に養子をとって譲ることに決め、少々の資金を得て、再び江戸へ向かいました。
ところが、東海道の富士川で、渡し船が転覆するという災難に見舞われ、長次郎は荷物をすべて流してしまい、苦労して江戸にたどりつきます。
そこで頼りましたのが、土佐藩邸の刀鍛冶・左行秀です。行秀は、長次郎が幼い頃から近所に住んでいて、知り合いだったんだそうです。
これも吉村淑甫氏によれば、なんですが、行秀は刀鍛冶といいましても、吉田東洋の人脈につながる人物で、鉄砲鍛冶として江戸で研究を重ねる使命を担っていた、ということでして、長次郎はその紹介で、当時、幕府の砲術指導をしていました高島秋帆に弟子入りします。学費は行秀が出してくれたといいますから、研究の手助けをしていたということなんでしょうか。
さらに長次郎は、勝海舟の塾へも入り、そこで学業が進んで認められたことから、土佐藩から名字帯刀を許され、陸士格となったんだそうです。
この海舟塾入門につきましては、龍馬の入門と前後していまして、左行秀の世話だったとします話と、龍馬の紹介だったとする話と、二つあるのだといいます。
長次郎が海舟塾に入門し、龍馬と再会し、武士となりましたところで、長くなりましたので、次回に続きます。
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