ずいぶん前、年配の音楽ファンとブラームスを聞きに行った帰りがけ、
「この歳にならないとブラームスの心情はわからないなぁ」
と言っていたことがあった。
例えば、バイオリニストが協奏曲を演奏するにしても、ブラームスのものは若いうちはやらない。
要するに渋い選曲であり、「この味が出せるか」という聞き方をされがちなのだ。
ジャズがプレーヤーのものなら、クラシックは作曲家のものという人がある。
スコア以外の作曲家の時代背景や心理面の情報は演奏解釈には不可欠だ。
生涯独身、シューマン夫人との恋、ベートーベンの後継者という重圧、「私の曲はハンカチなしには聴けない」と自身でも言っているブラームスの演奏解釈は特別だと多くの演奏家がいう。
いわば私小説的な雰囲気と潜在的な才能が音符になって表れているということであろうか。
今日の演目は、このブラームスの「交響曲第2番」である。
指揮者 尾高忠明が袖から登場する。
街のプロテスタント教会の牧師さんのようにやさしい雰囲気なのはいつもの感じだ。この人がこれからブラームスを指揮する。
小学校には全国的に有名な授業者がいるが、ちょうどその名人芸を見せていただくような気持である。
またまた横道にそれて恐縮だが、指揮者によって演奏が異なることは、信じがたいほどだ。
音を出すのは大人数のオーケストラだが、レコードショップに行くとオーケストラ別ではなく、指揮者別にCDは配列されているのである。
自分では音を出さないのに。
凡庸な指揮者のベルリンフィルより、カラヤン指揮のアマチアオケの方がよいという人すらある。
実際、市民オケが奮発して有名指揮者を招聘するときがあるが、見違える。全然違う!。
しかもリハーサルの回数は限られすべてのパートに手取り足取り指導するという訳にはいかない条件でだ。
指揮者の力というは結果として演奏以外に実感としてわかる機会は聴衆(聞き手)には少ない。
どんな技をつかって音楽を経営するのか。
交響曲第2番が始まる。
演奏は学生オーケストラ。二十歳前後の若者だ。
尾高はこの若者と一緒にブラームス山を登りはじめる。
1楽章の有名な旋律になり、女性のコンサートマスター(第一バイオリンのリーダーがオケのリーダーを兼ねる)がちっらとビオラの方に視線を送ったりしている。張った空気に弦楽器の音が浸透していく。
クラリネットの2番は緊張をほぐすようにリードを確認するしぐさをする。パーカスは小節を数えながら出番を待っている。
ん、牧師さんの表情がさっきまでと違っている。
(つづく)