諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

199 近未来からの風#33 (まとめ) 「ショートカット」の旅

2023年02月19日 | 近未来からの風
定番 高尾山 縦走 沢山のルートにうち6号路は自然の山道が残されています。

さて、「近未来からの風」再開します。
気鋭の歴史学者 ハラリさん、教育学者の佐藤 学さん、広田照幸さん、そしてOECD 2030プロジェクトをレポートした白井 俊さんの著作からお話しを伺うようにページをめくってきました。
そこでそろそろ伺った内容から感想文のようなものでまとめとしたいと思います。

ショートカットの旅

「新幹線は早くて便利だけど各駅停車の風情がないねぇ」という話題は以前よく耳にしたが、最近はあまり聞かれなくなった気がする。
例えば東京‐京都間は2時間。「旅」とも言いにくい短時間である。
「風情」の件はどこにいったのか?

ちょうど150年前まではもちろん鉄道がなく、人々は14~15日かけて歩いた。
濃厚な旅があったはずだ。
宿場には個性があり、方言をともなった違和感のある人々と交流しなければならない。
そもそも大きい川は容易に渡れない。山賊や盗賊もいただろう。もちろん相当な体力がいる。
だから、旅には総合力が必要で、「可愛い子には旅をさせろ」となった。
江戸‐京都間とは、そういうところだったにちがいない。
わずか150年間のテクノロジー進歩は2週間の移動を2時間にまでのショートカットに成功し、一方で(極端にいえば)旅の要素もほとんどなくなった。

もっとも鉄道が開設されても、小説や脚本の舞台になる程度の旅のニュアンスは残っていた。
三四郎が熊本から汽車で上京するのに数日かかり、不思議な女とは名古屋で一旦降りる。「滅びるね」と謎めいたこという髭の男がいうのは、浜松を過ぎたあたりだ。車中外国人も見かけるし、「田舎者」とも話をする。

また、九州から北海道へ鉄道で移住していく道中を描いた山田洋二さんの『家族』は1970年の作で、これも旅そのものだ。

これらも今なら阿蘇くまもと空港からフライトすればいいことになる。

今からは想像できない旅の中の予測不可能なことや不便さは、その時どきの人の覚悟を想像させ、実際の旅の経験は人を成長させ、成熟を促していたことは間違いない。
昔の旅はそういう「含み」のあるものだった。
それが2時間で行くショートカットによって今日ではそれがほとんどないほど快適な「旅」ができることになっている。
もちろん、東京からから京都に日帰で、南禅寺の梅を見に行かれることに何ら否定的なことない。

同じように、いたるところにショートカットが知らないうちにできている。
知らないことは「ググる」ことで多くは解決するし、買い物は翌日雨が降っても宅配業者が届けてくれて、クレジット会社が銀行から自動的にお金を引き出すことで現金に触れることなく支払されている。
図書館や商店が遠い場合、入手しにくい物が欲しい時、健康上出歩けない場合など通販は便利としかいいようがない。
しかし一方で、カットしてしまったことも沢山ある。ここで例をあげないまでも。

技術の進歩は、不要と思われるものをカットして、圧倒的便利さや快適さによって歓迎されながら生活や仕事に進入定着してきている。
そして、私たちは、それによって失われたもの中には意図的には再生しにくいことも含まれていることを直感しながらも、概念化できないまま不問にしてしまっているのだろう。
いずれにしても、生活教育論が元気だったころ、彼らの言っていた「生活即教育」という発想は、今日では成り立ちにくいほど生活に「含み」がなくなってしまった言えるのではないだろうか。

そして、ショートカットは思考力にも影響があるように思われる。
A→Gを説明するのに、(B→C→D→E→F)の過程があったことを忘れてしまがちになる。また、A→HやA→Zの発想に跳べないことはないだどうか。思考の過程に「含み」の可能性が秘めていることを感じる感性が衰えているのではないか。

そのことに近いことを『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済)で新井紀子さんは指摘する。

AI楽観論者が言うように、多くの仕事がAIに代替えされても、AIが代替えできない新たな仕事が生まれる可能性はあります。しかし、たとえ新たな仕事が生まれたとしても、その仕事がAIで仕事を失った勤労者の新たな仕事になるとは限りません。現代の労働力の質が、AIのそれと似ていると言う事は、AIでは対処できない。新しい仕事は、多くの人間にとっても苦手な仕事である可能性が非常に高いと言うことを意味するからです。

といって、もともと理科系の新井さんがこの本で読解力を取り上げてのは、思考力への懸念があるからだ。
短絡的で抽象化した生活の中であったも、ふり幅の大きい思考が求められるそれが近未来への大きな課題といえるのではないだろか。

そしてその方法として、アクティブラーニングを唱えることは、まさしく学びを裏打ちする「含み」を意識したものであろう。
テキストに則せば、オーバーロードに注意しながら、それぞれがもつラーニングコンパスの精度をあげる現実的な手段であると。
                                         つづく



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