諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

222 言葉の限界

2024年01月14日 | エッセイ
箱根八里(三島大社→小田原城) 峠から少し下ると芦ノ湖が広がります。冬場なので人影まばら この先が箱根の関所です。

保育について、テキストを追っていって気が付いてくるのは、保育ということの捉えきらないさである。
保育はそこに子どもあって、ある動きと、ある暖かさと、ある感触を伴って、保育者自身のある質感をともなった受け止めようもあるのだが、それは言葉では表しにくい。

保育という営みみたいなことを「保育」として決めて言葉にすると、なんとなくそれを手にいれたような気がしてしまう。
ところが仮にそれに「優れた」など言葉をくわえ、「優れた保育」とは、と問われたとき、誰もがすぐには答えられず、使い慣れた「保育」がいかに曖昧なものだったか実感してしまうだろう。

そもそも言葉には限界がある。
コーヒーという言葉は誰でも承知している。
しかし、おいしいコーヒーの味というと、もう言葉では説明できない。
ただ、おいしいというのみで、コーヒーを飲んだこと少ない人にはイメージも伝えられない。
味覚は言葉に変換できない。

モーツァルトは誰でも知っているが、モーツァルトのピアノ曲がいかに名曲なのかは、言葉では表現できない。
やってみるとひどく不器用な感じになる。

こんな例にもあてはまる。
向山洋一さんだったか、
「優れた教師が、各学校に一人必ずいる」
という。
この場合の「優れた教師」は、教員だったら、授業力があるのか、生徒指導に長けているのか、保護者との協調力があるのか、ある程度想像がつく。
しかし、実際はその学校の空気を吸いながら、ある程度の時間を一緒にすごして〝それ”が分かるのであって、とても言葉では伝えられるものではない。

ほんとうは言葉では表せないことも、なんでも便宜的にまとめてひとつの言葉にしているものである。
言葉でないと表せられないし、そうしないと社会的なやりとりが成り立ちにくい、そもそも思考も言葉によるから原理的に仕方がない。
が、そもそも言葉では覆えないことも多いことを再認識することは改めて重要ではないか。

保育所も学校も言葉や記号が求められる。
慣例的な言葉をさがしてデリケートな感覚さえもゆだねてしまう。
すぐにわかり得ないことも保留せず統計処理によって明晰にしようとするIT技術の活用も習慣になってきている。
このなかで、保育や教育も、容易に「さまざまなこと」が言葉に置き換わり身体から離れていく。

まずは「あるけど見えないもの」があること、「感覚の領域」があること、そしてそれをどう育んでいくのか、それがヒューマンサービス全般の課題なのだろう。
言葉が届かないことへのセンスと共有。

そういえば、幸福学という分野があるようだが、他の学問領域のように言葉や記号を積み上げ進歩させていくのが難しいようだ。保育にも似た感触がある。

以上のことは、宮城まり子さんの次に言葉によって触発されものです。
その言葉の中にあるものは、こちらの想像力にまかされいる。

私は彼等と共に泣き
また共に笑った
彼等は、ただ私と共にあり
私はただ彼等と共にあった

       宮城まり子    


※ この言葉、箱根峠に置かれていた石碑に刻まれたものです。
偶然見つけたのですが、ひっそりと置かれていてこの機会にとりあげました。




    





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