麻雀を教わる。
ちなみに麻雀は、今まで興味がなかったし、興味を持とうとしたことがない。
つまり、意図的に避けていたような節がある。
嫌っていたというほどではないけれど、どちらかと言えば、そうかもしれない。
麻雀の牌にすら触ったこともなければ、麻雀をやっているところを実際に見たこともなかった。
もちろん、そのルールも何一つ知らない。
なぜか私の頭の中にあった雀荘のイメージは、タバコの煙でスモッグがかかり、ヤニで壁が黄色くなった15畳ほどのスペースで、何台かのテーブルで中年の男性がタバコを吸いながらひたすらに牌を切っている、という状況だった。
「ロン!」とか「ツモ!」とか、大騒ぎしているのは昔読んだ漫画「名探偵コナン」の小五郎くらいのもので、実際には舌打ちとか息を吐くだけで音のない不敵な笑みとか、割と静かなイメージもあった。
何かドラマなどの影響だろうか、私のこのイメージの出所は不明である。
私が到底近寄る場所でもないだろうし、タバコも吸わないし、ゲームは滅法弱いしすぐに飽きてしまうからやりたくもない。
と、私は麻雀の知識はほぼゼロの状態で、そう思っていた。
しかし、何らかの物事を、何も知らずに、理解を試みようともせずに毛嫌いすることは良くない。
先入観や頭ごなしの決めつけで何か物事を判断することは、それに対する蔑視や侮辱といってもいいかもしれない。
好き嫌いを言うならば、それが好きな理由や嫌いな理由が必要である。
しかしそれも、常に変化していく中で、いつでも好きになるかもしれないし、いつでも嫌いになるかもしれない。
というわけで、教えてくれると言うのなら、教わってみようと思った。
何でも、「麻雀は美しくよくできたゲームであるし、各人のゲームの手法はそれぞれの“人生の選択の仕方”や“己の弱点”まで見える」と言う。
とはいえ、本当に何一つルールを知らないし、ポーカーの要素に近いということは聞いていたから、たぶん私には向いていないだろうなと思った。
トランプで言えば「スピード」などの瞬発力勝負のものや、「ブラックジャック」などの運の要素が非常に強いものか、もしくは「神経衰弱」のように単純な記憶力だけを要するものなど、勝敗を決める要素が非常に少ないゲームくらいはまあできるし、楽しめる。
しかしそれらも決して強いとは言えないと思うけれど。
しかし、ポーカーのように運もあるけれど、自分の選択の方針や相手の出方も込みで勝負するものは全然ダメである。
これは前提だから元も子のない理由だけれど、「ロイヤルストレートフラッシュ」など、何が一番強いのかというルールも明確に知らないので、何をどうしたら勝てるのかもよく分からない。
それに、どんなゲームであれ、あらゆる種類のゲームに私はとても弱いと思う。
だから、なるべくゲームをしないで済むように、土俵に上がることを避けてきた。
その一つのいい例が、大学受験をしなかったことである。
基本素質が、非常な緊張しいで、非常な小心者なのだと思う。
雀荘にあった超初心者のハウツー本をぱらぱらをめくって見てみる。
中国語がたくさん出てきて、あれこれとてもたくさんのルールがある。
本はさておき、実際にやりながら教えてもらう。
復習の意味でランダムに記しておくことにする。
基本的に4人で行い、8局(前半4局が東場、後半4局が南場。ただし誰かの得点がマイナスになった時点でそのゲームは終了)を1ゲームとして、1ゲームの総得点で勝敗を決める。
牌は全部で34種類(各4枚ずつ)あって、一部は不確定要素とするために使わない。
4人の席は東南西北(トンナンシャーペー)と方角の名前が決まっていて、左回りに「親」を持ち回りする。
「親」のときに上がれば、得点は1.5倍になる。(親に上がられると不利になる)
2つのサイコロの目の合計から、牌を切る順番を決めて、その席の牌の右から4つずつ(最後2回は1個ずつ)順番に牌を取り、合計14個の牌を持つ。
原則的に、同じ種類の牌の同じもの(コーツ)や、連番(シュンツ)を、3・3・3・3・2(4つのメンツと1つのアタマ)で組み合わせられたらあがり。
2・2・2・2・2・2・2でもあがりとなり、この状態のあがりを「チートイツ」と言う。
あがりまであと一つの牌となった時のことを「聴牌(テンパイ)」「テンパる」と言う。
ちなみに余裕がなくなるといった意味の「テンパる」は、「あがりまで準備万端で目一杯の状態になる」というところから「目一杯の状態」→「余裕がなくなる、慌てて動揺する」と転じているらしい。
あがるには「役」が必要で、「役」がないけれど聴牌(テンパイ)になった場合は、「リーチ」(捨て牌を横にして1000点を出す)をかける。
「リーチ」は「役」となり、「リーチ」をした後にツモった牌は、あがり以外は捨てなければならない。
「役」の数によって得点が変わる。
「役」には、字牌の「白・發・中」または「場の風」「自分の風」が3つ揃っている場合(ヤクハイ)、自分のツモった牌で上がった場合(ツモ)、1・9・字牌が入っていない場合(タンヤオ)など色々あり、難しい形(牌がきれいな状態)であがった方が得点が高い。
自分が捨てた牌を含めてあがる(振聴(フリテン))ことはできない。
他人が捨てた牌であがることを「ロン」と言う。
自分が同じ牌を2つ持っていて、他の人の捨て牌でそれと同じものが出たときはその場でもらってコーツにできる。この場合コーツの3つの牌を見せて右側に出しておく。(「ポン」)
自分が連番の牌を2つの牌を持っているときは、ひとつ前の人の捨て牌でその連番が出ればもらってシュンツにできる。(「チー」)
「ポン」「チー」を「鳴く」と言う。
捨てても他の人の「ロン」であがられてしまう可能性のない牌を「安牌」と言う。
と、これらは非常に初歩の初歩のことであるが、麻雀はルールも多いし、勝敗を決める要素が非常に多い。
自分の手牌、他人の手牌、捨て牌、そのときの自分の順位、何局目であるのか、などなどを考えて自分にとっての「最適」は何かを常に考え、確率を計算しながら瞬時に打たなければならない。
とてもたくさんのことに気を回し瞬間的な判断を迫られることも、確率論などを計算する数学的瞬発力を求められることも、私は本当に苦手である。
初めてだからルールがよくわからないと言うことを置いておいたとしても、思考力が鈍すぎるのだ。
そしてひとり聴牌でもないのに「テンパって」、仕方がないからひとつの牌だけのことを考えようと危険すぎる賭けに出るも、そんなことは報われるはずもなく、揃える牌の方針を見失い、悪循環が悪循環を呼び、挙げ句自暴自棄になって「もういい、負けてもいいや」と思考をストップしてしまう。
不確定要素がたくさんある中で、自分の方針を見失わず、選択をし続けること。
麻雀をまったく人生に喩えるのは飛躍があるけれど、確かにそういった人の傾向が浮き彫りになるゲームなのかもしれない。
今の私は、できれば「ゲームをしない」という論外の位置にいたがる。
「テンパり」たくないから、負けるのが怖いから、なぜかそれに恥ずかしさを伴うと思っているから。
とその前に、自分の方針が不明瞭だから、何が怖いのか分からないから、つまり思考不足であるから。
私は「自分と向き合う」ということをやっていきたい、それ以外にやることはないと思っているくらいなのに、まだまだ全然自分から逃げているわけである。
麻雀を終えて、しっかりとした朝になっていて、私は何ともぐったりと、愕然と、消沈して帰ってきた。
たかが麻雀なのだけれども、そしてまだ1回目なのだけれども、ダメージだった。
麻雀をすっかり自分の傾向に置き換えてしまった私は、自分が考えることをある地点で意図的にストップさせていることや、面倒や労力が付きまとうから逃げていること、にも関わらず自分がそれを良しとしていないことを知っていることなどを思い知らされて打ちのめされていた。
簡単に、大雑把に言うと、「それでは私のロックンロールに近づけない」と突きつけられたということだ。
「ノーゲームノーライフ」の続きを読む。
ところがこれもまたゲームの話で、思考がいつもに増して派生してしまって、普段でも本を読むのは遅いのに、その3分の1倍速になってしまって遅々として進まない。
「最弱」である自覚も足りなかったし、自分に対する理解も、外界に対する理解も、甘すぎるのである。
そしてそれでもなお、楽したい、と思っている側面もあるのだからどうしようもない。
奥田民生 「これは歌だ」

ちなみに麻雀は、今まで興味がなかったし、興味を持とうとしたことがない。
つまり、意図的に避けていたような節がある。
嫌っていたというほどではないけれど、どちらかと言えば、そうかもしれない。
麻雀の牌にすら触ったこともなければ、麻雀をやっているところを実際に見たこともなかった。
もちろん、そのルールも何一つ知らない。
なぜか私の頭の中にあった雀荘のイメージは、タバコの煙でスモッグがかかり、ヤニで壁が黄色くなった15畳ほどのスペースで、何台かのテーブルで中年の男性がタバコを吸いながらひたすらに牌を切っている、という状況だった。
「ロン!」とか「ツモ!」とか、大騒ぎしているのは昔読んだ漫画「名探偵コナン」の小五郎くらいのもので、実際には舌打ちとか息を吐くだけで音のない不敵な笑みとか、割と静かなイメージもあった。
何かドラマなどの影響だろうか、私のこのイメージの出所は不明である。
私が到底近寄る場所でもないだろうし、タバコも吸わないし、ゲームは滅法弱いしすぐに飽きてしまうからやりたくもない。
と、私は麻雀の知識はほぼゼロの状態で、そう思っていた。
しかし、何らかの物事を、何も知らずに、理解を試みようともせずに毛嫌いすることは良くない。
先入観や頭ごなしの決めつけで何か物事を判断することは、それに対する蔑視や侮辱といってもいいかもしれない。
好き嫌いを言うならば、それが好きな理由や嫌いな理由が必要である。
しかしそれも、常に変化していく中で、いつでも好きになるかもしれないし、いつでも嫌いになるかもしれない。
というわけで、教えてくれると言うのなら、教わってみようと思った。
何でも、「麻雀は美しくよくできたゲームであるし、各人のゲームの手法はそれぞれの“人生の選択の仕方”や“己の弱点”まで見える」と言う。
とはいえ、本当に何一つルールを知らないし、ポーカーの要素に近いということは聞いていたから、たぶん私には向いていないだろうなと思った。
トランプで言えば「スピード」などの瞬発力勝負のものや、「ブラックジャック」などの運の要素が非常に強いものか、もしくは「神経衰弱」のように単純な記憶力だけを要するものなど、勝敗を決める要素が非常に少ないゲームくらいはまあできるし、楽しめる。
しかしそれらも決して強いとは言えないと思うけれど。
しかし、ポーカーのように運もあるけれど、自分の選択の方針や相手の出方も込みで勝負するものは全然ダメである。
これは前提だから元も子のない理由だけれど、「ロイヤルストレートフラッシュ」など、何が一番強いのかというルールも明確に知らないので、何をどうしたら勝てるのかもよく分からない。
それに、どんなゲームであれ、あらゆる種類のゲームに私はとても弱いと思う。
だから、なるべくゲームをしないで済むように、土俵に上がることを避けてきた。
その一つのいい例が、大学受験をしなかったことである。
基本素質が、非常な緊張しいで、非常な小心者なのだと思う。
雀荘にあった超初心者のハウツー本をぱらぱらをめくって見てみる。
中国語がたくさん出てきて、あれこれとてもたくさんのルールがある。
本はさておき、実際にやりながら教えてもらう。
復習の意味でランダムに記しておくことにする。
基本的に4人で行い、8局(前半4局が東場、後半4局が南場。ただし誰かの得点がマイナスになった時点でそのゲームは終了)を1ゲームとして、1ゲームの総得点で勝敗を決める。
牌は全部で34種類(各4枚ずつ)あって、一部は不確定要素とするために使わない。
4人の席は東南西北(トンナンシャーペー)と方角の名前が決まっていて、左回りに「親」を持ち回りする。
「親」のときに上がれば、得点は1.5倍になる。(親に上がられると不利になる)
2つのサイコロの目の合計から、牌を切る順番を決めて、その席の牌の右から4つずつ(最後2回は1個ずつ)順番に牌を取り、合計14個の牌を持つ。
原則的に、同じ種類の牌の同じもの(コーツ)や、連番(シュンツ)を、3・3・3・3・2(4つのメンツと1つのアタマ)で組み合わせられたらあがり。
2・2・2・2・2・2・2でもあがりとなり、この状態のあがりを「チートイツ」と言う。
あがりまであと一つの牌となった時のことを「聴牌(テンパイ)」「テンパる」と言う。
ちなみに余裕がなくなるといった意味の「テンパる」は、「あがりまで準備万端で目一杯の状態になる」というところから「目一杯の状態」→「余裕がなくなる、慌てて動揺する」と転じているらしい。
あがるには「役」が必要で、「役」がないけれど聴牌(テンパイ)になった場合は、「リーチ」(捨て牌を横にして1000点を出す)をかける。
「リーチ」は「役」となり、「リーチ」をした後にツモった牌は、あがり以外は捨てなければならない。
「役」の数によって得点が変わる。
「役」には、字牌の「白・發・中」または「場の風」「自分の風」が3つ揃っている場合(ヤクハイ)、自分のツモった牌で上がった場合(ツモ)、1・9・字牌が入っていない場合(タンヤオ)など色々あり、難しい形(牌がきれいな状態)であがった方が得点が高い。
自分が捨てた牌を含めてあがる(振聴(フリテン))ことはできない。
他人が捨てた牌であがることを「ロン」と言う。
自分が同じ牌を2つ持っていて、他の人の捨て牌でそれと同じものが出たときはその場でもらってコーツにできる。この場合コーツの3つの牌を見せて右側に出しておく。(「ポン」)
自分が連番の牌を2つの牌を持っているときは、ひとつ前の人の捨て牌でその連番が出ればもらってシュンツにできる。(「チー」)
「ポン」「チー」を「鳴く」と言う。
捨てても他の人の「ロン」であがられてしまう可能性のない牌を「安牌」と言う。
と、これらは非常に初歩の初歩のことであるが、麻雀はルールも多いし、勝敗を決める要素が非常に多い。
自分の手牌、他人の手牌、捨て牌、そのときの自分の順位、何局目であるのか、などなどを考えて自分にとっての「最適」は何かを常に考え、確率を計算しながら瞬時に打たなければならない。
とてもたくさんのことに気を回し瞬間的な判断を迫られることも、確率論などを計算する数学的瞬発力を求められることも、私は本当に苦手である。
初めてだからルールがよくわからないと言うことを置いておいたとしても、思考力が鈍すぎるのだ。
そしてひとり聴牌でもないのに「テンパって」、仕方がないからひとつの牌だけのことを考えようと危険すぎる賭けに出るも、そんなことは報われるはずもなく、揃える牌の方針を見失い、悪循環が悪循環を呼び、挙げ句自暴自棄になって「もういい、負けてもいいや」と思考をストップしてしまう。
不確定要素がたくさんある中で、自分の方針を見失わず、選択をし続けること。
麻雀をまったく人生に喩えるのは飛躍があるけれど、確かにそういった人の傾向が浮き彫りになるゲームなのかもしれない。
今の私は、できれば「ゲームをしない」という論外の位置にいたがる。
「テンパり」たくないから、負けるのが怖いから、なぜかそれに恥ずかしさを伴うと思っているから。
とその前に、自分の方針が不明瞭だから、何が怖いのか分からないから、つまり思考不足であるから。
私は「自分と向き合う」ということをやっていきたい、それ以外にやることはないと思っているくらいなのに、まだまだ全然自分から逃げているわけである。
麻雀を終えて、しっかりとした朝になっていて、私は何ともぐったりと、愕然と、消沈して帰ってきた。
たかが麻雀なのだけれども、そしてまだ1回目なのだけれども、ダメージだった。
麻雀をすっかり自分の傾向に置き換えてしまった私は、自分が考えることをある地点で意図的にストップさせていることや、面倒や労力が付きまとうから逃げていること、にも関わらず自分がそれを良しとしていないことを知っていることなどを思い知らされて打ちのめされていた。
簡単に、大雑把に言うと、「それでは私のロックンロールに近づけない」と突きつけられたということだ。
「ノーゲームノーライフ」の続きを読む。
ところがこれもまたゲームの話で、思考がいつもに増して派生してしまって、普段でも本を読むのは遅いのに、その3分の1倍速になってしまって遅々として進まない。
「最弱」である自覚も足りなかったし、自分に対する理解も、外界に対する理解も、甘すぎるのである。
そしてそれでもなお、楽したい、と思っている側面もあるのだからどうしようもない。
奥田民生 「これは歌だ」

