つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ぷんすいとゲリラゴーレ

2015-08-23 12:53:28 | 日記
中学生のときにオーストラリアで買ったカンガルーの皮のペンケースを失くしてしまった。

財布を落としたり、携帯電話を洗濯機で洗ったり、花瓶を割ったり、ペットボトルのお茶がバッグの中で全部こぼれたりと、何かとヒューマンエラーの多い私であるが、最近はそんなことが前にも増しているような気がする。

いつも、なぜそれが起きたのか、そのときの状況をだいたい事細かに思い出せるのだけれど、今回はさっぱり身に覚えがない。
そして、花瓶のように、失くして良かったなどと思えない。
愛用していた花瓶よりもずっと、毎日愛用していたのだ。

あの年でよくあんなものを、というような類の毛皮のペンケース。
動物が座っていてお尻が皺にならないように、皺にもならず、また毛を削がれた皮のように古ぼけた味わいが出ることもなく、いつでも同じ形と同じ風合いをしていたペンケース。
ときどき、無意識に毛並みを撫でたりして、もう20年弱もの間使ってきた。
ペンケースを新しく他のものにしたいという発想すら、抱いたことがなかった。

それを使った記憶の最後であるカフェに電話をしてみるも、生憎定休日。
明日また電話することにするが、なんだかもう遠く手元を離れてしまった心持ちに耐えられなくて、出てこないことを早いところ納得させたくなる。

服や靴などよりも、私は大切にしている雑貨が多い。
服や靴は自分の体に纏うもので、纏う本体が細胞の変化で常に変わりゆくから、それに着せるものも自然と代謝されていく。
自分の外にある物は、物として変わらない限り、またそれに対する自分の精神が変わらない限り、そこにあってほしいと願う。
これは我が儘だなと思う。

自分の外にある物が、壊れたとき、失くなったとき、よくある言い方で、“失くして初めてその重要性に気が付く”、あるいは“重要でないことに気が付く”。
自分の外にある物、だけでなく、環境などにも言える。

しかしながら、とても重要性の高いものでさえも、お腹が空いたり、どうにも眠かったりという本体の生理現象にはかなわない。
重要なペンケースを失くしたところで、私は食べ物がのどを通らなくなることも眠れなくなることもない。


岡本太郎の『今日の芸術』という本が名著であった。
私は本を読むことが得意ではないけれど、食い入るように読めた。
とても現実的で、地に足が付いた芸術論。

私は、芸術、なんて言葉を自分が発することに恐れ戦いているのだけれど、まさにその考えこそゲスであるというようなことが書かれている。
幼い頃にも全く自由に絵を描いた経験など、ただの一度も、本当にないわけで、そして今でさえ全く自由に私は書を書けるわけでもないわけで。

自分のダメさ加減を思い知りながら、まあでもそれがしたかったので書いた。


フォトチャンネルがいっぱいになっていたので、最近のものをまとめてアップしました。
記事にはアップしていますが、よろしければご覧ください。



ユーカリの思うがままの呼吸かな