マーシーがよく出没するというバー。
当然ながらマーシーは人間だから出かけもするしお酒も飲むし歌も歌う。
普通に、ごく普通に、鼓動して毎日を営んでいる。
ライブ会場で、手に届きそうなところにマーシーがいたこともある。
間違いなく私の目の前でギターを弾いて、目の前で歌っていた。
しかしながら、それとは違って、商業でないところにいるマーシー。
どちらもただ“いる”ということには何ら変わりはない。
マーシー自体は幻想でもないし、そのことだけはただ事実なのだ。
「ま」ばっかりに見えるマーシーのサインが書かれたレコードがたくさんあった。
レコードでブルーハーツを聴くのは初めてだったけれど、よく言われるCDとレコードの音の違いが私には分からなかった。
どこでどう聴いたって、私の頭は持っていかれてしまうけれど。
展覧会の作品の出品に行く。
結局、また「リンダリンダ」も書いた。
「リンダリンダ」はもうだって、私の最初のロックンロールであって、どうにもこうにも革命的な出来事をもたらしたものだ。
だからと言って、ヒロトやマーシーを崇め続けるわけにもいかず、ロックンロールとはそういうことではなく、くるりの岸田さんの言うように、ロックンロールにはいつだって「さよなら」の概念がそこにある。
これは日常の細かな現象についてではなく、イメージ、概念、の話として。
限りなく変化していく自分と、限りなく変化していく世界。
言うなれば、「リンダリンダ」が私に起こしたことは、「“自我”と“世界”の分離」ということだと思う。
それまでどこか社会や世界というものに乗っ取られていた“自我”が、“世界”を抜きにしてもただ自分として存在していいのだ、というかそもそも存在しているのだ、ということを体感を持って認識した、そんな現象だったのだと思う。
だから何だと言うこともないのだけれど、恐ろしく大きな、ひとつの納得を得て、それでそんなふうにやっていきたいと体が思うようになった。
どこまでも世界を借り物としている以上、そんなふうに、というところが何だか肝が冷えるくらいによく分からないのだけれども。
私に大事なことはきっと“たったひとかけらの勇気”なんだと思うけれども。
「ひこうき雲」「男の子と女の子」と合わせて3点を出品。
いくつかの書いたものから出品作品を先生と一緒に選ぶのだけれど、私がここで書道を始めるきっかけになった先生がいて、私のを選んでくれているわけではなかったのだけれど、先生は不意に寄ってきて「あら、誰の?あぁ竹内さんのか。いいの書くようになったわねぇ」と言った。
先生はすぐ、また他の人の作品選出に戻っていった。
たったそれだけだったけれど、嬉しかった。
その先生は、誰かを特別に懇意にしたりする姿を見ないし、褒めたり批評したりはするけれど結局のところ書以外のことに我関せずなところがある。
そんなところが私は好きだ。
先生の作品は、運筆は力強く、それでいて紙面に現れた線は煙のように繊細だったりする。
同じ筆を使っているとは思えないし、何がどうなっているのか、私には未だよく分からない。
ある程度続けていると、自分の字やイメージから解き放たれることが難しくなる。
決まりきった方法で体よく収めがちになる。
しかしその先生の作品はいつだって進化している、あるいは進化の姿勢が感じられる。
前回の「風神雷神」の四字作品は特に今も脳に焼き付いている。
私は所属団体においてコミュニケーションを取らない方だけれど、とてもこっそり、私は先生のファンなのである。
カバーを付けているにも関わらず、iPhoneを落として画面にヒビが入ってしまった。
どうしてそんなふうに落下するのか、という感じで、カバーのない側面から垂直落下して、カツン、という音がした。
幸い、画面保護のシールのおかげでタッチ部分にはかろうじて及ばない最小限のヒビで済んだけれども。
これなら直さなくても良いだろう。
がしかし、相変わらずエラーが多い私である。
筋肉痛の理由はきっと笑い茸
当然ながらマーシーは人間だから出かけもするしお酒も飲むし歌も歌う。
普通に、ごく普通に、鼓動して毎日を営んでいる。
ライブ会場で、手に届きそうなところにマーシーがいたこともある。
間違いなく私の目の前でギターを弾いて、目の前で歌っていた。
しかしながら、それとは違って、商業でないところにいるマーシー。
どちらもただ“いる”ということには何ら変わりはない。
マーシー自体は幻想でもないし、そのことだけはただ事実なのだ。
「ま」ばっかりに見えるマーシーのサインが書かれたレコードがたくさんあった。
レコードでブルーハーツを聴くのは初めてだったけれど、よく言われるCDとレコードの音の違いが私には分からなかった。
どこでどう聴いたって、私の頭は持っていかれてしまうけれど。
展覧会の作品の出品に行く。
結局、また「リンダリンダ」も書いた。
「リンダリンダ」はもうだって、私の最初のロックンロールであって、どうにもこうにも革命的な出来事をもたらしたものだ。
だからと言って、ヒロトやマーシーを崇め続けるわけにもいかず、ロックンロールとはそういうことではなく、くるりの岸田さんの言うように、ロックンロールにはいつだって「さよなら」の概念がそこにある。
これは日常の細かな現象についてではなく、イメージ、概念、の話として。
限りなく変化していく自分と、限りなく変化していく世界。
言うなれば、「リンダリンダ」が私に起こしたことは、「“自我”と“世界”の分離」ということだと思う。
それまでどこか社会や世界というものに乗っ取られていた“自我”が、“世界”を抜きにしてもただ自分として存在していいのだ、というかそもそも存在しているのだ、ということを体感を持って認識した、そんな現象だったのだと思う。
だから何だと言うこともないのだけれど、恐ろしく大きな、ひとつの納得を得て、それでそんなふうにやっていきたいと体が思うようになった。
どこまでも世界を借り物としている以上、そんなふうに、というところが何だか肝が冷えるくらいによく分からないのだけれども。
私に大事なことはきっと“たったひとかけらの勇気”なんだと思うけれども。
「ひこうき雲」「男の子と女の子」と合わせて3点を出品。
いくつかの書いたものから出品作品を先生と一緒に選ぶのだけれど、私がここで書道を始めるきっかけになった先生がいて、私のを選んでくれているわけではなかったのだけれど、先生は不意に寄ってきて「あら、誰の?あぁ竹内さんのか。いいの書くようになったわねぇ」と言った。
先生はすぐ、また他の人の作品選出に戻っていった。
たったそれだけだったけれど、嬉しかった。
その先生は、誰かを特別に懇意にしたりする姿を見ないし、褒めたり批評したりはするけれど結局のところ書以外のことに我関せずなところがある。
そんなところが私は好きだ。
先生の作品は、運筆は力強く、それでいて紙面に現れた線は煙のように繊細だったりする。
同じ筆を使っているとは思えないし、何がどうなっているのか、私には未だよく分からない。
ある程度続けていると、自分の字やイメージから解き放たれることが難しくなる。
決まりきった方法で体よく収めがちになる。
しかしその先生の作品はいつだって進化している、あるいは進化の姿勢が感じられる。
前回の「風神雷神」の四字作品は特に今も脳に焼き付いている。
私は所属団体においてコミュニケーションを取らない方だけれど、とてもこっそり、私は先生のファンなのである。
カバーを付けているにも関わらず、iPhoneを落として画面にヒビが入ってしまった。
どうしてそんなふうに落下するのか、という感じで、カバーのない側面から垂直落下して、カツン、という音がした。
幸い、画面保護のシールのおかげでタッチ部分にはかろうじて及ばない最小限のヒビで済んだけれども。
これなら直さなくても良いだろう。
がしかし、相変わらずエラーが多い私である。
筋肉痛の理由はきっと笑い茸