私はどこに行っても決して態度が小さな方ではないので、「堂々としているよね」と若干の皮肉混じりに言われることがある。
確かに、誰かと話すときに必要以上に緊張していることは、最近は特に、あまりない。
ただ、私が喋りまくるのは、時に防御のためであることも多い。
あと、1対1ではなく、複数人対私、という状況は、昔から酷くひどく苦手である。
そんな懸念していた仕事を、なんとか結果良く終えられて胸をなでおろしている。
もっと前に、上手くいかなかった日、それを引きずったまま帰ることがどうしてもできなくて、とても珍しく一人でお店でお酒を飲んだ。
一人では多いなと思うイカの肝焼きとアボカドのパスタをもくもくと食べた。
別に全然泣きたい気持ちではなかったので、ただもくもくと食べた。
もくもくと食べるには、イカの肝焼きはちょうどよかった。
そう言えば、私は「やけ酒」というものをしたことがない。
自制心が働いているというよりは、どちらかといえば「やけ食い」の方に走ってしまう。
「やけ酒」するほど酒を自分に煽ることが好きではないのもある。
そんなことを経て、今回なんとか上手くいったのは、それに対する「慣れ」と、私では何ともしようがないめぐり合わせが要因であると思う。
きちんと自覚的であれば、場数というのは、必ず役に立つものである。
逆に言うと、場数を踏まずして人前でする何かが上手くなれることなどないのかもしれない。
目の前の人が自分に対して嘲笑でない笑いを向けてくれるのは、何であれ嬉しいと感じるものなんだな、と思った。
そのためだったら、誇張して芸のようなこともしたくなる。
まあ、嘲笑か否かは最終的にも分からないものだけれど。
他人が喜んでくれればそれでいいなんて毛頭思わない。
「人が喜ぶ顔が見たい」ということを第一に仕事をすることも他人に尽くすなんてことも絶対にしない。
例えばそういう側面があったとしても、「人が喜ぶ顔を見て、私が満足したい」という言い方しかしない。
ただの屁理屈と言われるかもしれないが、これは私がとても重んじている考え方だ。
原理的に言って、全て主語は「私」であるはずで、総合的な地点で「私」が喜べばそれでいい。
「私」は何で、どういうことで喜ぶのかを、「私」は全部は知らないし、「私」は刻々と変わるので、いつもフラットに「私」が「私」を観察するまでである。
このことを考えるときいつも、「認識するものを認識することはできない」と言った、「梵我一如」の哲学で知られるヤージュニャヴァルキヤという人のことを思い出す。
哲学は全然詳しいわけではないけれど、私のロックンロールの体験を説明する一つの考え方であるようには思っていて、しかしながら、この説明をするには私の解釈があまりにも拙すぎて、説明が伝わったことは今まで一度もない。
また、高校の友人と駅のあたりでばったり会った。
私が1年半ほど前に住んでいた街に、1年ほど前に上京し越してきた友人。
数か月前にも同じ駅でばったり会った。
お互いよく利用する駅だけれど、こんなこともあるものなのか。
少々立ち話をして、「また会える気がするね」と言いながら、「いや今度は約束して会おう」と言って別れる。
ぜひゆっくり話したいのだけれど、生活時間帯が人とずれている上、一般的な休日である土日に忙しくしている私は、自分のスケジュールを眺めて、なんと人と予定が合わせづらいのだろうと気付く。
いもうとが誘ってくれたいちご狩りにも、是非とも行きたいのだけれど、どうにも行けそうもない。
「超おいしいよ」といういもうとの言葉は信頼しているし、何より姪のおいしい顔は天才的なのである。
バレンタインハートいろいろアソートメント

確かに、誰かと話すときに必要以上に緊張していることは、最近は特に、あまりない。
ただ、私が喋りまくるのは、時に防御のためであることも多い。
あと、1対1ではなく、複数人対私、という状況は、昔から酷くひどく苦手である。
そんな懸念していた仕事を、なんとか結果良く終えられて胸をなでおろしている。
もっと前に、上手くいかなかった日、それを引きずったまま帰ることがどうしてもできなくて、とても珍しく一人でお店でお酒を飲んだ。
一人では多いなと思うイカの肝焼きとアボカドのパスタをもくもくと食べた。
別に全然泣きたい気持ちではなかったので、ただもくもくと食べた。
もくもくと食べるには、イカの肝焼きはちょうどよかった。
そう言えば、私は「やけ酒」というものをしたことがない。
自制心が働いているというよりは、どちらかといえば「やけ食い」の方に走ってしまう。
「やけ酒」するほど酒を自分に煽ることが好きではないのもある。
そんなことを経て、今回なんとか上手くいったのは、それに対する「慣れ」と、私では何ともしようがないめぐり合わせが要因であると思う。
きちんと自覚的であれば、場数というのは、必ず役に立つものである。
逆に言うと、場数を踏まずして人前でする何かが上手くなれることなどないのかもしれない。
目の前の人が自分に対して嘲笑でない笑いを向けてくれるのは、何であれ嬉しいと感じるものなんだな、と思った。
そのためだったら、誇張して芸のようなこともしたくなる。
まあ、嘲笑か否かは最終的にも分からないものだけれど。
他人が喜んでくれればそれでいいなんて毛頭思わない。
「人が喜ぶ顔が見たい」ということを第一に仕事をすることも他人に尽くすなんてことも絶対にしない。
例えばそういう側面があったとしても、「人が喜ぶ顔を見て、私が満足したい」という言い方しかしない。
ただの屁理屈と言われるかもしれないが、これは私がとても重んじている考え方だ。
原理的に言って、全て主語は「私」であるはずで、総合的な地点で「私」が喜べばそれでいい。
「私」は何で、どういうことで喜ぶのかを、「私」は全部は知らないし、「私」は刻々と変わるので、いつもフラットに「私」が「私」を観察するまでである。
このことを考えるときいつも、「認識するものを認識することはできない」と言った、「梵我一如」の哲学で知られるヤージュニャヴァルキヤという人のことを思い出す。
哲学は全然詳しいわけではないけれど、私のロックンロールの体験を説明する一つの考え方であるようには思っていて、しかしながら、この説明をするには私の解釈があまりにも拙すぎて、説明が伝わったことは今まで一度もない。
また、高校の友人と駅のあたりでばったり会った。
私が1年半ほど前に住んでいた街に、1年ほど前に上京し越してきた友人。
数か月前にも同じ駅でばったり会った。
お互いよく利用する駅だけれど、こんなこともあるものなのか。
少々立ち話をして、「また会える気がするね」と言いながら、「いや今度は約束して会おう」と言って別れる。
ぜひゆっくり話したいのだけれど、生活時間帯が人とずれている上、一般的な休日である土日に忙しくしている私は、自分のスケジュールを眺めて、なんと人と予定が合わせづらいのだろうと気付く。
いもうとが誘ってくれたいちご狩りにも、是非とも行きたいのだけれど、どうにも行けそうもない。
「超おいしいよ」といういもうとの言葉は信頼しているし、何より姪のおいしい顔は天才的なのである。
バレンタインハートいろいろアソートメント

