つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

ニヒルなアイスコーヒー

2015-10-03 02:06:25 | 日記
軍艦島から帰って食べて寝たら10月になった。
と思ったら、レッスン漬けで喋りっぱなしで10月も3日になった。

私は時折旅行に行くけれど、旅行が趣味というわけでは全然ない。
ひとりでどこか見知らぬ場所に出向くこともなければ、自分から人を旅行に誘うこともほぼない。

軍艦島、というのも何となく、世界遺産、流行り、ということしか知らなかった。
火山の噴火で失われたイタリアの街ポンペイのように、今はなき街が好きだという友人に誘われ、どこか行きたいし何か突飛なものは見たいという欲求から、ありがたく行くことにした。
ちなみに、友人は過去にポンペイにも出向いている。

ひとりで行ったとしたら旅先でまず、歩き回る、ということが半減どころかそれ以下になってしまうだろうと思う。
第一、地図に弱い私は新しい場所に弱いから、歩くととんでもないことになるし、迷うということは帰れなくなるかもという不安に付きまとわれているので、私にとって見知らぬ街の散策は楽しいことではない。
それに旅先で同じ場所に宿泊していれば、思慮を巡らせ歩くには長すぎる時間を、何度も歩くことになるのも疲れると思ってしまう。
見知らぬ土地を歩くには、たわいもない話をする相手が欲しいのである。

というより、相手でもいないと外に出るということが、見知らぬ土地のわくわく感があれど、他の日常の行動に負けてしまうという理由の方が大きい気がする。
それくらい、私はひとりでいるとものすごい出不精だ。
うだうだと何もせずに時を過ごしてしまうか、今だったらスマートフォンで漫画を読んでしまうか。
今回もああ疲れたとベッドに寝っころがっては、半端な時間にも漫画を開き続けていたけれど。
「人間失格」と「ブラックジャックによろしく」

すでに旅の記憶がリアルタイムから遠のいてしまっているが、できる分を今記録しておこう。

長崎はこじんまりした小さな街だった。
市内の足であるチンチン電車は一駅が150mほどで、終点の駅まで1時間ほどで歩けるのではないかと思うほどだった。

グラバー園や出島、軍艦島などの観光名所にも行ったけれど、一番驚いたのは、坂の中腹に家々が密集して立ち並んでいることだった。
お金持ちは高台に住みたがる、ということがあったとしても、それは車や何か移動手段があれば、というものだ。
しかし坂だらけの長崎の山は、人2人くらいが通れる小道ばかりで、階段が多く、車どころか自転車だって無理だ。

駅までの距離は、場所にもよるが、歩いて20~30分ほどだろうけれど、仕事や学校で疲れて帰って急な坂を上るとなるともう帰れないと、私なら思ってしまうだろうと思う。
中学で家を出る、そんな理由に十分なりそうだ。

amazonは届くのか、郵便屋さんは諦めてしまうことがないのか、坂を転げ落ちて死人が出てはいまいか、引っ越しはどうやっているのだろう、救急車は消防車は・・・考えるほどにどう住まっているのかが不思議でならない。
しかし廃墟という感じもしないので、人々の生活はここに根付いている。
きっとそこには何か想像もつかない生活の知恵があるのだろう。
坂の上の自販機がコンビニほどの良心的な値段であることがそれを示している。

坂の街並みと墓群と、坂の中腹にある亀山社中記念館を見て、坂本竜馬像まで行く予定だったけれど、そこから20分程度の坂道と聞いてあっさり断念した。
もう、登れない。

軍艦島には、波の状態が悪く上陸できなかった。
しかしガイド付きの船は島の周りをぐるぐると回ってくれ、その様子を遠目にうかがい知ることはできた。

軍艦島、正式名称「端島」
島の形が軍艦のようであることからいつしか人々はそう呼ぶようになったらしい。

1810年、端島に良質な石炭が発見され、世界でエネルギー革命が起こっていたこと目を付けた三菱が当時のお金10万円で買い取った。
19世紀末ごろから20世紀にかけて、日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が建てられ、水道が引かれ、住めるようになっていった。
島の周りを埋め立て、端島は少しずつ大きくなっていった。
港には三菱の造船所など巨大な設備がたくさんあったが、巨万の富というのはこのような歴史に残る産業を牛耳った会社が得ていたのは納得がいく。

戦時中には、アメリカ軍に本物の軍艦と間違えられて、魚雷を撃ち込まれたこともあるが、無事だったらしい。
空襲も受けたものの、奇跡的に一発も当たらなかったのだとか。

戦後、労働者は増え続け、1960年代には人口は5000人を超え、日本一の人口密度となり、これは当時の東京の9倍以上、未だ破られていない。
小学校、映画館、病院、美容院、パチンコなど、普通の街にあるようなものが普通にあって非常に栄えていた。

炭鉱発掘の労働は、8時間3交代でフル稼働。
労働は地下奥深くに棺のようなエレベーターで下り、光の届かない埃まみれ油まみれの過酷なものだった。
地底にはレールが引かれていたり、電気のケーブルが通っていたりするわけだけれど、そもそも石炭発掘の前のインフラ整備がどれほど大変だったことだろう。
労働者の賃金は高く、日本でテレビの普及率が10%だった頃、端島の家庭のテレビ普及率はほぼ100%だったらしい。

端島は、元々草木も生えぬ、大きな岩礁だったらしい。
本来であれば、人間が住むような場所ではないところに、一生懸命堤防を作り、建物を建て、水道を引き、住めるようにした。
台風が来れば、沖の孤島は暴風雨をもろに受けた。
島の西側に多くの住宅が建っていたが、炭鉱関連の設備は風雨の影響が少ない東側にあった。
それだけ労働者の安全は重要視されていなかったとも言える。
水事情は良くなかったので、腸チフスなどの感染症が流行ったそうだ。

1960年代後半、再びエネルギー革命が起こり、石油に取って変わられた石炭は需要が極端に減り、1974年閉山。
閉山になった後は人口の流出が止まらず、ついには無人化、建物は徐々に風化していった。

日本の高度成長期を支えた発端のひとつが間違いなくここにあり、現代の便利な生活の土台を作った偉大な場所である。
時を経て、廃墟になって尚、貴重な歴史的遺産として注目を集め、世界遺産に認定された。

建物倒壊の危険により、立ち入り禁止区域も多い中、ドローンなどを用いて現状の記録が今も進められている。

と、これらは記憶の限りのガイドさんの説明の備忘録。

崩れたコンクリートやバリバリになった窓ガラスは、まさに廃墟の様相だった。
自然に対する年月の経過と、人の手の入れ様、というのは半端ではない。
それもまた、自然、の範疇か。

時代の煽りを受ける、とか、時代に翻弄される、ということを生活が一変するほどのものは肌身で感じたことがないけれど、端島に関わった人々は良くも悪くもそんな感じだったのだろう。
廃墟ブームだの、世界遺産だの、誇らしくもあり、また反対に何らか表沙汰になっていない事情によって気分が悪い人だっているだろうと思う。

ただ、この軍艦島によってもたらされた雇用数や経済効果というのはものすごいものだろうと思う。
ツアーは非常に日本的で、よく先回りしてできている感じがした。

長崎の街を大方見尽くして時間を持て余した私たちは、地元のスーパーで100円の多肉植物を3つ、東京にある靴下屋で3足1000円の靴下を買ったりした。
なんなら、あまりに新鮮な緑のつるむらさきなどを買ってしまいそうだったけれど、つぶれてしまいそうだったのでやめた。

ちゃんぽんやら、タピオカココナッツミルクやら、茶碗蒸しやら、イカのお刺身やげそ天ぷらやら、紫芋のコロッケやら、長崎牛やら、ハンバーグやら、ビワ最中やら、よく食べた。
良い牛肉は体に合わない、ということがまた証明された。
しかし、お店のチョイス的に旅行全体を通してとても当たりだったなと思う。

羽田空港に着くと、早回しになったかのように世界のスピード感が変わった。
全ての人が協力して、自分の動作とエスカレーターの速度などを計算して、動いているかのようだった。
テキパキ、ちゃきちゃき、世界は早足で回り始めた。

都会の人は急いでいる、歩くのが早い、なんてことを言われるけれど、私は実感したことがなかった。

旅行もいいけれど、東京は安心する。


格子窓に街灯ひとつ月ひとつ




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