つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

女子力58万

2013-06-24 01:39:02 | 日記
「開塾指導講座」が無事に終了した。
やり直しで1日で書きなおした宿題は、点数が付いて戻ってきた。
「あんな短い時間でよくやったね」と先生に言われて、それはでも私の適当さの問題以外の何物でもないのだけれど、とりあえず上位何人かに入る点数がもらえたので私はとても単純に嬉しかった。
創作よりも断然、ルールが決まっていて、誰の目線でも上手か否かを判断できるような子ども用の楷書の提出物だったから、その評価がとても嬉しかった。

手で仰ぐと空中にその軌跡が残りそうなほど空気は蒸していたけれど、太陽が覗くくらいの晴れ間はあって、私は駅の階段を小走りで駆け上がった。
「ねえねえ見て見て!」と今の私も昔の私も、それを伝える人はいなくて、幼き私はそれを伝えたかったのかもしれないけれど今となってはもう自分自身の嬉しいで完結することができるのでどちらでも良い。
「褒めて」というよりかは、「私、嬉しかったんだ」ということは、伝える人がいれば伝えたいとは思う。
いずれにしても、喜びは減らない。

ただ、不意に褒められることは嬉しい。
「ブログに掲載している写真の腕が上がりましたね」と言われて、やっぱり嬉しい。

「嬉しい」ってうれしい。


人に対する愛情や関係の仕方とは、本当に難しい。
タイミングとか縁とか相性とか衝動とか。
それが双方にあるものだから、捩れてしまうことも拗れてしまうこともある。
だから重要なのは、双方の独立心とそれに対する尊敬の念ということだ。

ただ、私は本当に一緒にいる人は大事であるし、大事にしたいと思っている。
ひとりではできないことも、お喋りな私にとってのお喋りも、単純に吐き出すということも、また相手にそれをしてもらうことも、当然に誰でも良いわけではなくて、相手との信頼性の上でそういうことができるものである。

ただ、関係はなるべくお互いの自然さに任せたいと思うものの、もちろんのこと個々の独立心に敬意を払った上で関係を続ける、または築くべくアプローチをする努力も必要となる。
しかしその努力に無理が生じてしまうこともある。
干渉も浸食も、ときに悪いものではないかもしれないけれど、それはお互いの心地よさが築けなければ崩壊になってしまう。

かつて私がある相手にしてしまったことは、それよりも前に私がされてとてもとても嫌な思いをしたことと同義であることに言われて気が付いた。
その時の私にはそれに対する確固たる核はなかったけれど、そういうことで済まされる問題でもない。
でも、その同じ重さをもってしてでしか付き合えないのだとしたら、私はまた同じことをしてしまうかもしれない。

真剣さには真剣さで向き合いたいと思う。
自分のことだけだったら、何度でも、何度でも、いつでもやり直せばいいと思う。
しかし、人が関係していることは、やり直しがきくこともあればそうでないこともあるし、場合によっては取り返しのつかないことも本当にあるものだ。

何の断りか、これは恋人関係について言ってはいない。


私は人が殴られている音に酷い嫌悪感と恐怖を感じるので、そういう感じの映画などが観られない。
なぜかそういう夢を見てしまって、朝目覚ましの1時間前に目が覚めてしまった。
誰が出てきたわけでもないけれど。

スーパーで小さな花束を買った。
花屋さんで選んでしまうと、どうしても大ぶりの花ばかりが目を奪われてそれを買ってしまう。
それもそれでもちろんひとつ楽しみなのだけれど、スーパーの花束は少しずつ控えめな花が束になっているので最近たまにそれを買う。

家に帰ってその小さな花束をさらに小分けにして、瓶に生ける。
キレートレモンの緑の瓶が、ピンクのカーネーションによく似合う。



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