つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

赤面すれば

2014-03-22 02:50:12 | 日記
相変わらずにギターはコードでほとんどが止まっているのだけれど、オーバードライブのエフェクターを買ったことによってだいぶ私の頭の中のイメージが音で聞こえるようになってきた。
そうするとやはり大音量が出したいのでヘッドホンをしてやる。
物理的なヘッドホンの締め付けも手伝って、頭が割れそうになるのだけれど音量を下げられない。

頭の中で曲が流せる、歌ってもいいのだけれど歌うとギターがついていかないので、というだけで私は十分に青く熱くなれる。
コードのレベルがここまで来るのにも、私としてはかなりがんばった。
くるりの「男の子と女の子」のコードを今日初めて拾ってみたけれど、うまく弾けるかは別として、初見でほぼ拾えるのだから大したものだ。
と、自分で本気で思う。

私は、細かいことを言えば音や声にも打たれているけれど、結局多くを詞に打たれている。
だから私にとってそれが音楽である必要はもしかするとなかったのかもしれないけれど、その詞を発射するための音楽だったり付随するパフォーマンスは、最も分かりやすい発射装置なのだなと思う。

思いがけないところからまたスタジオに行けることになって、ギターが普通に弾ける人が来るようだから楽しみでならない。
私はギターを弾いているのも見るのも好きだ。
あわよくば教えてもらいたい。
とりあえず、ヘッドホンなしで大きな音が出せるだけでもとてもとても楽しみだ。

岡村靖幸、はっぴいえんど、ロバート・ジョンソン、ジェフベック、ガンズ・アンド・ローゼズ、ザ・キンクス、エクストリーム、をレンタル。
私は言ってもロックミュージックに対する造詣が深いなどとは言えないのだけど、なんだか最近新しく聴くものに対して「ふむふむ」と思ってしまう。
的確な言葉で「これはあの人の影響を受けていそうだ」とか「あの年代のあのジャンルだ」とは言い当てられることはごくわずかだけれど、サウンド感としてのばっくりとしたイメージの括りができてきたのかもしれない。
ジェフベックが超有名で偉大なギタリストであることも今日知ったにも関わらず。
そして別に「ふむふむ」となりたいわけでもないのだけれど。

前情報としてその聴きどころを聞いてしまったからなのか何なのか、エクストリームの「Decadence Dance」と「More than words」は良かった。
残っていた「More than words」の和訳を見てみると、恋愛ソングとしての良さは十二分だ。
ギターのヌーノ・ベッテンコートの音が青さのあるエモーショナルな美しい音色。
ヘヴィメタはメタリカを聴いて以来避けてきたけれど、所謂ヘヴィメタな曲以外にも色んな曲があると思えば掘れるかもしれない。

ついでに、パティ・スミスがいいよと勧められて、既にiTunesに入っているものを再び聴いてみる。
魂、のようなものは十分に感じる人なのだけれど、如何せん英語であるということと女性であるということと、やはりお茶目さに欠ける、という点でぎゅうっとはなれない。

お茶目であることは、表現においては時に真剣なことの逃げ道にもなるようなものだけれど、私が他人の人間性としてとても愛おしく惹かれる成分だ。
そして自分もお茶目でありたいと願うけれど、願ったり意識したりしてどうにかなるものでもない。


マスクなしで外出してしまったけれど、さほど花粉による症状が出ない。
今年は少ないとは思うけれど、いつもに比べるとあまりにも症状が軽い。
目薬も飲み薬も、今年は一度も使わずに済みそうである。
花粉症が治る、ということはあるのだろうか。





バミューダ現る

2014-03-20 14:37:30 | 日記
私は大学への入学が推薦だったものだから高校3年生の秋ごろには既に進路が決まっていた。
とても進学校だったから、皆が悲壮感漂うほどの勉強に明け暮れている頃、私はひとり部活に戻ったり自動車学校に通ったりしていた。

年が明けて受験シーズン真っ只中になると、同級生の落ちたとか受かったとかいう個人的な報告がぱらぱらと私に来るようになった。
皆本当に必死でやっていて、自分の結果を、どのような状況にあるかわからない相手に話すことを憚られ、既に悠々自適の私に話してきているのだった。
私は別に悪い気はしなかったし、おめでとうなのか、残念だったねなのか、そんなことを真剣に返していた気がする。

状況は全然違うけれど、あの時を思い出すような状況が今少しだけ起きている。
私が会社を辞めているから、第三者的な目線でそれを見られるのと、「気楽でいいな」みたいな感じで声がかかるのだろう。
カウンセラーなのか、スパイなのか、私は思ったことしか言えないし言うつもりもないから、とりあえず真剣に答える。
私もその場が楽しかったら良かったなと思って帰路につく。

私が「気楽」なのは置いておいたとして、時に相手が歯に衣着せぬ物言いをしてほしいのかなと勝手に思って勝手にそうしたりする。
たぶん、語気の強さにやられてしまう人はもとより私に相談などしないだろうし、なんとなく、これも私も勝手な解釈で、相手はほんの少し元気になって帰って行く気がする。

まあこのようなことはよくあることなのかもしれないし悪いことはないのだけれど、なんだか不思議な関係だなと思う。


下仁田葱のような太い葱と、豚肉と、しめじと、豆腐と。
ごま油で焼き付けてしょうゆ味で煮る。
これは鶏もも肉の方がおいしそうだ。

煮上がった太い葱からとろんとした熱々の葱汁が飛び出す。
食べながら先日いもうと宅で食べた豚肉とセロリの炒め物のことを思い出していて、私は果たしてセロリが好きなのか嫌いなのか今はどちらとも言えないなと思う。
でも、普通、なのではなく、好きか嫌いかどちらかだなと思う。

これだけ自炊をしている私だけれど、どんなに時間があって暇でも、チキンカチャトラを作ろう、とか意気揚揚とすることはなくて、ハンバーグとか餃子とか、食べたいけれど手が汚れるものを作ることもない。
本当に長らく放置してきたのが味覚というか、食べること、なのだろうとつくづく思う。

おいしいことに興味がないわけではない。
おいしいことは好きだ。

ただ、おいしいことに興味が薄いのだ。
そして、おいしいことに興味が沸くといいなと願う。

フライパンのテフロン加工が剥げてきてしまっていろいろとやりづらい。






身体に乗せて

2014-03-18 14:40:42 | 日記
自分の心の揺らぎを、信頼している幾人かの友人に聞いてもらって分かったことは、ただただ今の揺らぎをそのまま受け入れなさい、ということだった。
揺らぎは否定できるものではなく、その揺らぎの大きささえも、そういう意味では信頼している自分の心のまま受け入れなさい、と。

私が必死で守っている価値観が壊れてしまいそうで、それはなんだか怖い。
しかし、必死で守らなければならない価値観なんて、何かが大きく当たれば弾け飛んで良いものなのである。

好転せずともそれが私であって、それが「独りで歩む」とただそれだけの当然のこと。
言い聞かせたい気持ちも、逃げたい気持ちも、追いたい気持ちも、どうしようもない。
何かが満タンになればきっと次の道を選べるだろう。
私が選ぶことを放棄しなければ、それでいい。


そんな状況ながら、最近安眠できて嬉しいなと思っている。
自由業になって朝方寝るようになって、私の本能的に得意分野である睡眠に少し支障が出ていた。
といっても全く心配に及ぶことではないのだけれど、夜中に何度か起きてしまうことがあったし、寝つきもあまり良くなかった。
まあそれでもベッドに入って1時間も眠れないことはないのだけれど。

体が疲れていないせいだろうとか、枕が良くないのだろうかとか、やはり人間は朝に寝るものではないのかとか、色々と思いめぐらせていた。
しかし、最近の安眠具合を見ていると、どうやら暖かくなってきたことが原因のようだ。
冬の間、私は夜中に何度も起きては布団乾燥機をそのまま突っ込んで暖を取っていた。
朝、というか昼に足が冷たくなっていることもよくあった。

そうか、私は寒かったんだ、と気が付いた。
それでもまあまあ寝られるものだから布団を足すなどのことは思い当たらなかったわけなのだが、3か月ほどの間、私は体に負担をかけていたのだなと思う。
また私は自分に冷え性の自覚がないので、というか、他の酷い冷え性の女性の話を聞くと冷え性などとは言ってはいけないと思っている、がんばって体を温めるという行為をあまり取らない。

しかし、これから体は積極的に温めよう、と切に思う。


柔軟剤が甘ったるい匂いがすると思っていたけれど、どうも何だか嗅ぎ覚えのある変な匂いだとも思っていた。
ふと気づいたのは、それが一緒に住んでいないおじいちゃんの寝間着の匂いだということ。
「甘すぎない、少し大人のスウィートスパイスの香り」とパッケージには書いてある。
1~2か月くらい、スウィートスパイスなおじいちゃんと付き合っていかなければならないのか。


くるり「男の子と女の子」

私以外は誰も分からないかもしれないけれど、甲本ヒロトや真島昌利の詞を書くのと、岸田繁の詞を書くのとでは、同じ感じで書いていても無意識に差が出る。
私は彼らの持っている世界観はとても似ているところがあると思っているけれど、表現方法が異なるので、多少なりとも私がそれに憑依されている感はあるのだろうと思う。





全部脱いで

2014-03-16 18:19:20 | 日記
お正月ぶりに会った姪は、物事の理解が格段に良くなっていた。
しかし、お正月に最初いもうとと間違えて私に抱きついてきたくせに、すっかりリセットされてしまったようで人見知り全快で慣れるまで2時間を要した。
夜ごはんのときには、お正月は「こ」と言っていた「抱っこ」を「あっこ」と言って、私に求めてきた。

大人が歩いてものの5分のスーパーへ、小さなあんよで、15分以上もかけてお散歩がてら出かける。
他の子に漏れず、アンパンマンが大好きで、アンパンマンのパッケージの幼児用のせんべいに気を取られ続けているので、おばさんが買ってあげる、といもうとの許可を得てプレゼント。

母になったいもうとを私は結構尊敬していて、それは、一貫しているけどちょうど良さそうなしつけと、子どもに惜しげもなく注いでいる愛情と、機嫌も悪くならず楽しそうに子育てをしているところ。
他にも色んな話をしたけれど、なんだか私はいもうとにありがとうと言いたい気分でもある。

みかんが大好きな姪は、「みかん」とたどたどしく言えるようになって、甘夏の皮を剥いている私が「ちょっとまっててね」というと、「まっててねー」と繰り返す。
「いる人~?」と聞くと、嬉しそうに「はーい」と手を挙げる。
「はいどうぞ」とやると、嬉しそうにありがとうのお辞儀をする。

それを何度か繰り返していたら、「みかん、ちょっとまっててねー、いるひとー?、はーい、はいどうぞ」と全部自分でやり始めたことには、いもうとと二人で大爆笑。

色んな単語を覚え始めて、教えると発音は適当だったとしても、認識としてはだいたい1日でできるらしい。
「め」「みみ」「はな」「かた」「まゆげ」「くち」「あご」「おなか」「おへそ」はもう分かる。

小さなピアノを指さして「ピアノ」と言うと、「の」と最後だけ反復する。
何分後かに「これは?」とピアノを指さして聞くと、「の」と答えた。

それにしても、幼児を見ていてつくづく不思議なのが、例えば、色んな「いぬ」をなぜ「いぬ」と認識できるのか、である。
生きている大きな「いぬ」も小さな「いぬ」も、『おかあさんといっしょ』に出てくる巨大な「いぬ」の着ぐるみも、スヌーピーでさえも「いぬ」と認識していて、「わんわん」と言う。
他にも、到底ペンギンに見えないようなマスコットの人形は「ぺんぺん」だし、アフラックのブラックスワンもホワイトスワンも「がーがー」だ。

人間の脳とは不思議なもので、同じようなことに「文字」があると思うのだが、「文字」も千差万別あらゆる感じの字体や癖があるにも関わらず、大抵の場合において私たちはそれを正しく認識することができる。
異なるものを、同一の括りのものであるという数多くの認識を知らず知らずのうちにしているということだ。
でも、人の顔はみんな同じようなパーツでできているのに、個々として認識する。

当たり前と言えば当たり前なのだけれど、起こっている現象としてはよく分からなくなる。

いもうと宅では、早々に夕食となり、早々にお風呂に入れ、早々に寝てしまう。
お風呂まで手伝って、帰るね、と言ったら姪は大手を振って見送ってくれた。

姪の記憶がリセットされないうちにまた会いに行くね。


3日前くらいの激烈な二日酔いからうまく復活できずに、朝から書道の教室で缶詰となる。
もちろん朝6時に寝たのだけれど、10時からの缶詰に備えて8時半に起床する。
不思議とあまり眠くはなくて、久しぶりに先生の指導を受けるととてもなるほどと思うことばかりで改めて身が入る。

結局、次の展覧会は「月の爆撃機」に決めた。
もはや家である程度大きいものも書けるのだから、わざわざ展覧会でやるのであれば、大きな文字を入れたい。
大きな字は汚れるのであまり家ではできない。
構成も決まり、やってみると全然上手くいかなくて悩む。

書きながら私は「破壊活動」について考えていた。
「ロックは破壊活動で、それが美しい」と言った人がいた。
ある面に置いてごもっともだと思うけれど、それを言った人は外界にあるものを対象物として、あるいは自分が傍観者として言ったようで、しかしロックの破壊活動とは自分に向けられているものだと私は定義している。

破壊活動は、外界に対して行われるべきものではない。
結果的に、どうしようもなく外界への破壊となってしまう場合があったとしても、破壊活動は自分に向けて行うものだ。
結果そうなってしまう場合でも、破壊活動は無自覚に行うべきではない。

私も、曲がりなりにも、もうそろそろそう言ってもいいだろうか、色んな言い訳なしには言えないけれど、創作活動の端くれをしている身ではある。
創作活動は、私にとってのロックの体現を願いたいもので、それは小さな「破壊活動」を「律動」として行うことだ。
小さくても破壊活動には、技術が要る。
それでもそうしたいのだから、技術を身に付けるしかない。
そうしても、それがすぐに何かに結びついたり得たりできるものでもない。

私の場合、それは日常生活にも及ぶ精神のあり方だと思っていて、放っておくと留まって濁ってしまう水を、いつもなるべく澄んだ透明でいさせたいと思うようなことだ。

皆が破壊活動をしなければならないとは私は毛頭思っていない。
破壊活動は、多数の面倒と労力が伴う。
しかし破壊活動を自分に向けて行っている人を見ると、今の私は酷く尊敬してしまうし、そうでない人からのその部分の認識違いの共通意識の押し付けは嫌なのだと思う。
だから代弁とか代理暴走とかの言葉に過剰に反応してしまうのだと思う。
ロックが破壊活動だと言った人は、自分がまさにそうすること、当事者でありたいと、かつてでも思ったのだろうか。

と、そんなことを思いながら書いていた。
「月の爆撃機」に大いに揺さぶられながら、言ってもこれは「半破壊活動」だととも思いつつ。
加えて、自分を破壊するということがいかに難しいかということも思い知らされつつ。

思い通りに、自由に、自在に。
線はどこへでも行けるけれど、どこにいっても美しいわけではない。

過去の何かも全部取り払って、いやそれは決して消えるものではないから背負いつつも、今のそれがどうなのかの判断は今すべきなのだ。
自分の中の最ももっともらしいことを知る覚悟や、依存しない勇気や、独立して交わる関係が、美しいのではないのだろうか。


「平成のブルース」
展覧会の題材にしようかと迷っていたが、こちらはいつものように書いた。
これも90×240だから相当大きいけれど、字ばっかりというのもなかなか面白い。





飲み過ぎ注意

2014-03-14 19:18:03 | 日記
いくら個人であるという認識したって、人は関わり合ってしか生きられないのであって、中でも特別に関わりの深い人というのは当然いる。
その関係にはシンパシーのようなものが根底に流れている。

それはそれこそ、出会えたことは奇跡、みたいな話。
もしくは、腐っても縁、という場合もある。

自分の体の反応を重んじている私にとって、心の揺らぎやジャンプ力やその高さなどは、まあまあ分かる。
しかしながら私はもう余計な期待や、停滞する話や、殻に自ら留まる話はもう要らない。
仁義や生き様が不変的なものだというのであれば、私はそれには共感はできない。
枠の中の人間関係ではなくて、一対一の“はだか”の関係が欲しい。
破壊を外から楽しむのはロックじゃない。
代弁や代理暴走の話をしたいのではない。

それでも尚そうだ、というところが今私が最も感じている切なさなのだろうし、どうしようもなさなのだろう。
死ぬほど欲しいようで、それほどでもなくて、私はこれについては捩れないとやってられないのである。
結局のところ、ジャブを打たれてあり得ないほどの反応をしてしまったあの私が真実ということだ。

それは元より思い通りになるようなことでもないし、思い通りになってはいけないような気もする。

懐古主義とか、卑怯とか、後付けとか、言われてさほど傷つくようなことでもないけれど、そしてそれも一理あるだろうけれど、核の部分はうまく伝えることはできなかった。
ある種の絶対的な敗北感と、吐き気がするくらいの隔絶感に打ちのめされて。

今のところ、良かったのか悪かったのか、判断はしかねるけれど、私が私の心を図るには十分であった。


また久しぶりに貧血を起こす。
本当に、お酒ばかりを体に入れてはいけない。
何か食べないとおそらく脱水と低血糖のような状態になってしまうのだろう。

気分が悪くなりトイレに行くも何もできなくて、仕方がないから座っていると、冷や汗をかいて動悸がして力が入らなくなり、目の前が暗くなってくる。
耐えるしかない、耐えるしかない、と心の中で唱えながら、呼吸するのを忘れないように耐える。
貧血は本当に恐ろしい体の症状である。


新しい柔軟剤を買った。
乳白色のとろっとした液体で、甘ったるい匂いがする。
透明タイプのすっきりとした香りの方が断然好みである。


真っ向から考えたいわけであって、ある時にはそれがギャグ的になり、ある時には身悶えるほどのこととなる。
やることによってしか示せない。
ということで、歌詞を抜粋するのはその言葉だけが独り歩きしてしまうからあまり好ましくないのだけれど、今日はそうする。