つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

動きませんように

2014-03-12 02:32:55 | 日記
私の住むあたりは肉事情が悪い。
食料品の買い物事情全般に悪いけれど、特に肉事情が悪い。

野菜は八百屋さんがあるし、お米やパンや調味料や乾物などは100円ローソンでもドラッグストアでも比較的コストパフォーマンスに見合ったものが買える。
ソーセージやベーコンも、それらで買っても特に支障はない。

しかし生肉だけは、置いてあったとしても良品は置いてなく、疲れた感じのする肉ばかりである。
色のくすんだ疲れた肉は、こちらの生気も奪われるようなのでどうにも買う気になれない。

少し足を伸ばして大きなスーパーまで出向くには、食料品の買い物のためだけに外出しないといけない。
しかもスーパーに出向いたところで、さほど新鮮で値段も安く良い肉が買えるわけではない。
元々刺身を含む生魚を買う習慣がないので、魚事情は分からないが、魚事情もたぶん肉事情と同じくらい悪いだろう。

私は特別に肉食な方ではないと思うけれど、肉のパワーは絶大であると思っている。
少し肉が入るだけで野菜炒めは格段においしくなるし、肉のない肉じゃが、そもそも肉じゃがでなくじゃがいもとにんじんの煮物か、は相当味気ない。
普段お味噌汁に肉は入れないけれど、豚汁はもう、味噌汁とは別物のように肉様により支配される。
また、肉がないと味付けが難しい。
肉があれば多少味付けが適当でもおいしいと感じられる幅が広いのだと思う。
肉は頼りになるのである。

ソーセージやベーコンなどの加工肉でもそのような肉様支配は起こるけれど、やはり加工していない肉の肉々しさには到底かなわない。
食べたときの満足感や腹持ちも全然違う。
それは淡泊な鶏のささみでさえも言える。
それは厚揚げのボリューム感をももちろん上回るものである。

しかし、コンビニ事情は良くなることがあっても、肉事情が良くなることは可能性が低い。

仕方がないので、今日も冷凍してあるベーコンを切ってレタス半玉とカニカマを入れて煮る。
酒と醤油とだしの素、しょうがのすりおろしに唐辛子を1本。
何か大量に葉物を煮るときはだいたいいつもこの味付けになる。

ベーコンさまの力もあって、おいしいはおいしい。


またも今さらに「ガリレオ」を見ている。
東野圭吾の原作は最近幾分飽きているのだけれど、湯川先生がとてもかっこいい。
福山雅治が良いというのは少し違って、湯川先生が良い。


部屋のライティングレールの電球の4つのうち1つが切れた。
明るさにだいぶ影響が出て、とても気分が滅入った。
そういうものなんだな、と思う。


最近、ブログを書きたいという欲求が少し減った。
おそらく、今の仕事でメインで文章を扱っているからということがあるかもしれない。
ほとんど興味のない文章を扱っているけれど、書く、という行為が少し満たされてしまっているのかもしれない。
あまり嬉しくない。





背骨バンザイ

2014-03-08 18:12:35 | 日記
家にいるパキラがどんどん葉を落としてしまって、幹にそぐわなくすかすかになってしまった。
私は植物を育てるのはそんなに下手な方ではないと思う。
一通り、茎の切り方や水のあげ方などは把握しているつもりだ。
日当たりだけはどうしようもないことがあるけれど。

あと最終的に大事なのは、彼らを愛でる気持ちだ、と結構本気で思っている。
そして彼らを愛でる気持ちは人一倍持っている。

私が育てるのは主に切り花が多いけれど、もう一つ観葉植物としてあるクワズイモは次から次へと新しい葉っぱを芽吹いている。
もっとも、肥料はやらず水しかあげていないのだからどうしてこんなに葉っぱを芽吹くことができるのか、そちらの方が不思議ではある。
時々、米のとぎ汁はあげている。

ネットで調べてみると、パキラが落葉樹でもないのに葉を落とすのは、しかしそれでも寒いからであるらしい。
確かに温暖な地方の植物であるから、日本の冬には適さないだろう。
新芽が出ているのを確認できたり幹がしっかりしていれば温かくなればまたずんずんと伸びる、と書いてあった。

植物の血の巡りが戻って、生気があふれ出す季節までもうすぐ。

それを待たずに届いた梅やら菜の花やらで、寒々とした部屋はすでに春の色を咲かせている。


ローリングストーンズ2日目。
初めてと2回目というのは見方がある程度異なる。

一瞬あのミックジャガーのボーカルを食ってしまった黒人女性や、キースのはにかんだ笑顔、ミックのヘンテコでセクシーなダンス、ロニーのおちゃめなギター、チャーリーは前回と一緒の着心地良さそうな無地の真っ赤なTシャツ。
飛び入りした布袋さん。

彼らは、あんなに大きなドームで、あんなに多くの人を熱狂させているけれど、ひとりの人なのだ。
偉大なロッカーも、サイズとしては、普通のサイズ。
背が高いとか、細いとかの違いはあるけれども、普通の人間のサイズ。

そんな人に何百万、何千万という人たちが魅了されて震わされているという事実。
広告やメディアなどの仕組みの力ももちろんあるだろうけれど、それにしても、ひとりの普通サイズの人間が成せることとすると大きすぎて驚く。

そしてまた再度、やっぱりひとりの普通サイズの人間であることを確かめる。
多くも少なくもないひとりの人間の体。
ただの人であるということ。

そこが私がすごく尊敬しているポイントであるということ。


午前中に予定があったため、2時間程度しか寝れなかった。
朝の光は、これから昇るというきらめきに満ちているから眩しいんだな、とか寝ぼけ眼に思っていた。

その日終始ふらふらしていたけれど、何やら楽しそうなことの約束ができてうれしかった。
その夜、とても久しぶりに夜の時間、と言っても3時くらい、に寝たのに、起きたのが14時過ぎていた。
せっかく少し生活を戻そうと思っていたのに。

ただ、最近ものすごく疲れてばったり寝てしまうことがなく残念に思っていたので、こうして少しの負荷をかけて禁欲をし、倒れるように寝るというのは結構気持ちの良いことだなと体感してしまった。

ものすごくお腹が空いた、だから食べる、ものすごく眠たい、だから寝る、というのは、案外してやれないものである。
もうこんな時間だから寝なきゃ、今食べとかないとお昼食べ損ねてしまう、とかだいたいそんなことでそうする。

規則正しい生活をすることの利は、もちろん一理あるわけだけれど、自分の本能的な欲望にぴったりと不足なく従えるということは、体や脳が喜ぶという意味で健康なのではと思ってしまう。
ひっくり返ってしまうけれど、そのための禁欲は程度こそあれ価値がある。

マーシーの「カレーライスにゃかなわない」を思い出す。


先日のミュージックビデオの件が上がってきた。
灰汁のない感じに仕上げていただいて、映像の編集ってすごいなあと思う。
実に不思議な気持ち。

よろしければ、ご覧ください。
手のひらの上





がんばって

2014-03-05 04:32:16 | 日記
ローリングストーンズのライブ。
チケットが余ってしまったという人がいて、私はなんと2回も行けることになった。
ロックのひな形を作った彼らのライブは、去年のポールマッカートニーと一緒で、「ここで見ておかなければ」という気持ちだった。

いつものように自転車を走らせ、7時からのライブに5時入りして、そわそわしながら観客席でヒロトとマーシーの姿を探しつつ、ロックミュージックについてのあれこれを話した。
会場はじわじわと人で埋まっていき、やがて東京ドームは人ばかりになった。
周りを見渡すと40代から60代と思しき人たちばかりだった。

18時半を回った頃に飲んだビールが、とても良い具合に体に巡った。
最初の1杯でないと成せない、このぱあっと感。
今日ほどお酒によるぱあっと感に後押しされたことが過去にあっただろうか。

私はこのタイミングの酔い方が一番お酒の好きなところだ、と思った。
アルコールが体を巡っているイメージが浮かんで、明らかにスイッチが入ったのが自分で確認できた感じがした。
ちょっとだけ時空がずれて、周囲がぼやけて、当事者たちだけの異空間に行ける。
この後続けて飲んだところで、このぱあっと感は持続はしない。
あくまで最初の1杯が成せる、ぱあっと感。

私はタイプ的に「お酒の力を借りて」物を言ったり楽しさを煽ったりする方ではない。
と思っていたけれど、この感覚はもっと欲しいなと初めて今日認識できた。

ライブはとても、良かった。
私はさほど自分に期待はしていなかったのだけれど、ショーとしての煽りも上手な彼らのライブに私は結構酔っぱらった。

「70歳」の彼らがあんなことを今でもやっているその感じには、目頭が熱くなる思いがした。
私にとっては、私の偉大なロッカーに影響を与えたおじいちゃん的存在の彼ら。

マーシーのバンダナの元祖がまさにあそこでギターを弾いている。
直立不動のチャーリーの真っ赤な無地のTシャツがなんともかわいい。
ロンウッドの小回りが利く性格をしていそうな朗らかさ。
ミックジャガーの変わらない体型、思ったよりもずっと長い脚、ばかでかい口、屈託のない笑顔、魅力的な声。

他の70歳の人と比べても、ミックもキースも皺が深いように思う。
それは単に彫りが深いというだけではなく、目いっぱい使ってきたからだな、なんて想像する。

私でも分かるくらい演奏も適当なところがあったけれど、彼らもやっぱり持っているお茶目感はそんなことは大したことにはならない。
寧ろそれらをひっくるめてのロックのライブ。

私にとって特筆すべきは、不器用そうなキースがソロで歌い始めたとき、私はキースをよく知らないのに心を掴まれる感じがした。
キースが良ければ私もそれで良い、という感じ。

そしてものすごく単純な意味で、私はロックのひな形の音が好きなんだと改めて確認できた。
ブルースから派生したロック。
所謂感じのギターのリフとギターソロ。
決して早くも複雑でもないビート感。
「喫茶店で流れている古めかしい音楽」から私はやっとあの人たちが作っている生の音として認識できるようになった。

一緒に行った人は、私よりももっとずっと昔からローリングストーンズのことが大好きで、やっぱり衰えは感じたと言っていた。
そして自分の感じ方がマックスではなかったのかもしれないと、少し嘆いていた。

私がローリングストーンズを聴き始めたのはまだ1年もないから、彼らの昔と比較することも、CDと違うと言うことすらもないけれど、私には十分だった。
歌詞も分からない外国人の音楽に、説明のできない「すごい」を見ることができた。
「ロックはローリングストーンズとビートルズを聴いておけばいい」と誰かが言っていたけれど、そう言われる所以が体感できたことが嬉しかった。

明後日のチケットがバッグに入っている。
なんて贅沢な人なんだろう。





スターパンとカレーパン

2014-03-03 00:50:41 | 日記
けいこは起きるのが早いから、私も仕方なく9時半に起床した。
今の私にとって、9時半というのは通常朝方の人が早朝4時くらいに起きるようなものだ。

2人分、食パンを焼いて、お味噌汁を作って、目玉焼きを焼く。
簡素な朝ごはんを食べて、とうきょうスカイツリーに出向く。

スカイツリーは初めて行ったのだけれど、一般的な商業施設であった。
もっとも、天候不良で展望台に登らなかったので、スカイツリーの一番の見どころ知らずになってはいるけれど。
プラネタリウムでも見ようかと入ったはいいものの、暗い、暖かい、座席が倒れる、その上寝不足、となれば寝てしまうのは当然だった。
いや、寝不足でなくても、暗い、暖かい、だけあれば私は寝てしまう。
結婚式のビデオのようなナレーションが流れているのをところどころ聞きながら、私はほぼ寝ていた。

「雪のとき会社行くの大変だったでしょ」と聞かれて、その流れで「会社に行ってないからわからない」と自由業になった話をする。
特段突っ込まれもしなかったけれど、いささか心配そうというか、「何を言っても仕方ない」という気配だった。
私がこういうときに言ってもらいたいことなど、ただひとつしかないのだけれど。
それは30にもなる大きな子どもがそんなこと言ってもらいたいのかと、そんな類の幼き感情だけれど。


2か月ほど前に全巻買って、と言っても全14巻のうち3巻が抜けているが、やっと読み始めた「ザ・ワールド・イズ・マイン」。
大学時代「デスノート」を読んで以来、漫画は読んでおらず、漫画とはこういう手触りなのかと思いながら読む。
くるりの岸田さんが影響を受けていた理由も、友人が私に勧めていた理由も1巻で分かった気がした。

ひとつ言うなれば、私はあまり暴力シーンが得意ではない。
人が殴られる音が耐え難く嫌いなのだ。
しかし「ワールドイズマイン」は凄惨な暴力漫画である。
漫画なので音がないからさほど問題はないけれど。

漫画というものがどういうふうに描かれていくのか分からないけれど、その労力はすさまじいものだろうと想像はできる。
ストーリーがあって、言葉があって、絵がある。
作り手のイメージが重要であることはどんな創作物にも言えることだと思うけれど、映画や漫画のように、シーンを紡いで形にしていくものは、そのために必要な要素と量が多すぎて本当に大変だなと思う。
すごく単純な意味で。

また漫画は、小説よりも絵という情報が多い分、読み手のイメージは制限され画一化される。
読み手の想像によるところの幅が狭く、「漫画を読む」という行為はその限定的な世界のコマを自分のペースで送っていくことだ。
文字量のせいもあるが、小説よりも想像力を要さなくて読むのが楽だ。

また、小説のように読み手の想像上の人にセリフを言わせているわけではなくて、その絵のその人に言わせているわけだから、作り手の頭の中により近い気がする。
この点においては、イメージが既に確立している場合、映画が役者また役者の演技にも影響され、自分の頭の中のイメージを思い通りに近く表現できる可能性というのは高くないとすると、漫画のイメージは漫画家と絵の間に介在するものはないから映画のそれよりも正しく表現できる可能性が高そうだ。
どちらも、ある程度イメージを具現化できるほどのイメージの整理と理解と、表現における高い技量があることを想定した場合に。
それに、たとえば確固たるひとつのイメージを取り込みたいとすれば、漫画は一コマ一コマは静止画であるからそこに圧倒的に注力することもできる。

実際にどういうふうに作るのか作り手それぞれであるのはもちろんだが、漫画は作り手の身体性が乗り移りやすい表現物なのだと思う。
吐瀉物、という言葉は少し行き過ぎかもしれないけれど、そういう要素を含んだ漫画は私でも読めるかもしれない。

それにしても、久しぶりに漫画を読んで、あまりに興味深い擬態語や擬音語が随所に出てくるものだから、そちらに気を取られてしまって本文が疎かになってしまう。
これには慣れたい。

元々本を読むのがとても苦手な私である。
一語一語噛み砕かないと進めなくて、噛み砕いているうちに他のところに思考が派生してしまって、遅々としてとても時間がかかる。

しかし、どうにもこうにも、読めた方が世界は広いことは分かっているから、少し強いてみようかと思う。
ジャンルも問わず、漫画でもなんでも、とりあえず本という媒体で活字を読むことに慣れたい。
細部にこだわりすぎず、集中力を切らすことなく、本を読めるようになりたい。

本がないと落ち着かない、という友人がいるが、私は本があってもなかなか開けない。
小学生の読書目標みたいに、月に何冊、と作ってみようか。

そういうことで、まず読んだ書の批評本2冊は割に難なく読めた。
しかしやはり、インプットすると今度は自分なりの解釈をまとめておかないともったいないように思えて、その本を読んだことによる着地点を探し始めてしまう。
考えたければ考えればいいのだけれど、それについての答えが簡単に出そうもないとき、そのことを置き去りにしてまた全然違うインプットを行って良いものなのだろうか。

こういうところの器用さが私にはないのである。