つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

もぎたての太陽

2014-07-17 15:01:26 | 日記
私にしては長い間家を空ける。
といっても5日間だけれど。

PCがあれば仕事はどこでもできる。
3日間は実家にいる予定だし、どうせ夜には寝られないし、やることがない時間もたくさんあるだろうからちょうどいいだろう。

家を空ける前には、たいてい掃除と洗濯をする。
洗濯機を一回回して、「槽洗浄」というボタンを初めて見つけて押してみる。
洗剤やその他薬剤の投入の指示がないので、とりあえずそのまま回してみると、一回分の洗濯くらいに水が出て時間をかけて回っていた。
果たして、槽は洗浄できたのだろうか。

最近のあらゆる洗剤は「殺菌、滅菌、除菌」をやたらと煽ってくる。
私はファブリーズこそ匂いが付いたときくらいしかしないけれど、もれなく菌が気になるタイプである。

「テーブルを拭くその布巾、菌をテーブルになすりつけているようなものですよ」という煽りは、そんなことで死にはしないと思いつつもそのイメージは嫌である。
しかしアルコール除菌などしていたらキリがないし、それをやっていれば万事OKと言うようなものでもないと思うから買わない。
その代わりに漂白剤でこまめに漂白はする。
漂白剤をかけ過ぎて、布巾が傷み、ぼろぼろになってしまうこともある。
湿り気の雑菌、というイメージがなんとも耐え難いのだ。

だからシーツも枕カバーも、お風呂で身体を洗うものも、布巾も、よく洗う。
しかし洗濯槽が汚れていることで、もしかすると菌を染み込ませているようなものなのかもしれない。

結局、どうしようもない匂いがするわけでもないし、目に見えないのでそれ以上は考えるのを止める。
メーカーは、漂白剤で除菌を煽って、柔軟剤の香りでくらます。

また菌は見えないからいいとして、家の窓に網戸がないので、目に見える小さな虫も鬱陶しい季節になってきた。
植物の力を信じている私としては、ミントオイルを水で希釈したミントスプレーで対応しているけれど、なんとなく威力が弱いのでミントオイルの精油をそのままカードに染み込ませて吊るしてみる。
少し目がしぱしぱするような清涼感が部屋中に満ちた。

床を水拭きすると、ところどころ小さな虫の死骸が見つかる。
まさかミントで死んだということもないだろうけれど。

いつも通りの猛烈な掃除をして、一息ついて、さて出かける準備でもするかと、念のため新幹線の時間を確認すると「14:20」発とあった。
私はてっきり「15:20」だと勘違いしていた。
そのときには既に13:40で、化粧も準備もまだだった。
10分で準備をして、便利な方の駅ではなくて最寄り駅から行けば間に合うだろうと、まるでダッシュするように準備を始める。
考えている暇がないので、余分な服を詰めて荷物が多くなってしまった。

本当に10分あまりで準備して電車に飛び乗る。
大事な箇所、つまり降車車両をチェックしたり乗り換えなどの場面では音楽を止めて、小走りする。
無事東京駅の新幹線乗り場に、案外余裕を持って到着した。

と、ここで切符を出してみると、「15:26」東京発、とある。
「14:20」は帰りの新幹線の時間であった。
昨日確かめた時間は「15:20」だった覚えはこの時点では思い出せるし、現に「15:20」という認識はあっていたわけだ。

本当に、ばーか、と思った。
しかしまあ、時間を潰すのは何てことはなく、待合室でこれを書いている。

前もこういうことがあった。
家の契約に向かう際、確かに印鑑を入れて出かけたのに、不動産屋で印鑑が見つからず「しまった忘れた」と思い、謝って取りに帰ると、しっかりバッグの中に印鑑が入っていた。
そうだよね、入れたもん私、となるのだけど、「ない!」と思ったときにはそこでフリーズしてしまうのである。
自分に頓珍漢なことが多いので、こういうところの自分をあまり信用しておらず、勘違いの勘違いも確かめずに鵜呑みにしてしまうのだ。

ミステリー小説で、予測していた犯人が謎解き時点で違うと分かって、「そうなの?!」となって納得しているところで、その後に実行犯とは違う主謀者が出てくるようなものである。
その主謀者は自分が最初に予測していた人で。
ちょっと違うか。

出かける前に食べようと思っていた大好きなソルダムが食べられなかった。
5日の間に傷んでしまうだろうか。




タバスコに咽て

2014-07-16 18:14:15 | 日記
あたし、わたし。

私は口頭で一人称を発するとき、長らく「あたし」と言ってきた。
メールなどの文章も「あたし」と意図的に使ってきた。

それがここ数カ月で、「わたし」に変わった。
いつ、なぜ、そうなったのかが、記憶を遡ってみても判然としないのだけれど、今は明確に、また自覚的に「わたし」と発音としていることが多い。

いもうとや仲の良い友人が「わたし」とあまりに明確に発音することを私は知っていて、なんとなくそれに影響されたような気もするし、「あたし」というのがより口語的でラフな感じがすることに薄々と恥ずかしさのようなものを感じていたのかもしれない。
「わたし」という正式な言い方に怖気づいていたのかもしれない、自分を軽々しい感じにしておきたかったのかもしれない。
あるいは、私は「わたし」から逃げていたのかもしれない。

私は何か言葉を自分のものにするのにとても時間がかかる。
だから、流行の言い方や略語も使えないし、人にあだ名を付けることもないし、けいこのことを「お母さん」とも呼べなければ、付き合っている人のことを人に「彼氏」と言うこともない。
「カレシ」や「カノジョ」の語尾を上げるイントネーションの言い方なんて、もう全然使えるようになるとは思えない。
高校生の時、それを使おうかと試みたことがあって、一人赤面してしまったのでもうそれ以来、このような事例として出す以外には使っていない。

それがそれであると腑に落ちないと、自分の言葉として使うことが難しいのだと思う。
あと、人に対しては、敬意を持った当たり障りのない呼び方でないと呼べないのだと思う。
「カレシ」「カノジョ」は自分の所有物のようなニュアンスが出てしまうような気がして嫌なのだと思う。

ともあれ、私が「わたし」であることが、一人称の発音レベルまで腑に落ちてきたのだと思う。


書道教室で筆を買うと、事務員の方に「同人展、かっこよかったです。」と突然言われた。
一応顔見知り、いやむしろ向こうは私のことを知っているとも思っていなかったくらいの方で、会話をしたことはない。
思わず、「本当にそれ私のでしたか?」なんて聞いてしまったけれど、間違いなく私の作品について言っていた。

自分の書いたものについて言われるとき、私はとてもどぎまぎする。
「ほんとすみません」と謝ってしまいたくなる。

詞は借り物だけれど、紛れもなく「私」というフィルターを通しているし、なるべくその恥ずかしさみたいなものを前面に押し出すように書いた。
言葉にならない“感じ”が浮き出てくればいいなと思って書いた。
私は自分の作品を愛おしくもあるし、自分に対してナイフを突きつけているという意味で切なくもある。

人の評価は怖くもあり、ありがたくもある。
その事務員さんに何が伝わったのか分からないけれど、不意に訪れた私にそれをわざわざ伝えてくれたことはとても嬉しかった。


で、どうするのだ。
ということしか今の私には問うことがない。





カードホルダー

2014-07-14 13:41:21 | 日記
姪への売名行為で、呼ばれればせっせといもうと宅に出向く。
もうすっかり私のことは覚えてくれたようで、行くとにっこり笑って突進してくる。

フットワークの軽いおばあちゃん、つまりけいこにはもっと懐いていて、二人きりで保育園に行くのもご飯を食べるのも平気らしい。
私はそこまで手伝うのは嫌だけれど、二人きりでは私も不安、姪も不安で、二人して「おかあああさん」と泣き出してしまうかもしれない。

2歳になって、随分と言葉数も増えて喋るようになり、会話も少しできるようになった。
私のことを姪に「おばちゃん」と呼ばせていて、まだ拙い発音で叫ぶものだから、3回に2回くらいは「おばあちゃん」になってしまう。
「おばあちゃんじゃないよ、おばちゃん」と言うと、「ちゃん」とまた少し前のように後ろの方だけ復唱する。

私がガリガリくんを食べていると、冷たいアイスをちいさなむっくりした手で掴んでくる。
冷たいのが面白かったらしく、だめだよと言ってもいたずらっ子の笑みで何度も掴んでくる。
いもうとの食教育がよくできているので、食いしん坊だけれど大人が食べている物に襲ってきたりはしない。
「かか(お母さんのこと)の」「おばちゃんの」と言ってもの珍しそうに、少し食べたそうに見ている。

溶けたがりがりくんの滴がむっくりな手について、それを食べられると思っていない姪に、いもうとの許可を得て、「ぺろぺろしてみりん」と言ってみると「ぺろぺろ」と言いながら舐めはじめた。
薄い梨味の氷水を舐めた姪は、目を見開いてうれしいたのしいという顔をしながら「おいち」と言った。

しかし前から思っているけれど、どうして小さい子に話すのは方言でないと話しづらいのだろう。
「熱いから気を付けて食べなね」と言いたいところを「熱いで気を付けて食べりんよ」になってしまうし、人形を見つけて「ぽぽちゃんいたねぇ」と言いたいところを「ぽぽちゃんおったらぁ」になってしまう。
いもうとも時々そうなっているようだから、彼女はどのように方言を習得するのだろうか。

夕方、ごはんどきになると待ちきれなくて、きゅうりとにんじんのスティックを1本ずつもらっている。
生野菜をもらってこんなに嬉しそうな子どもはいるのだろうか。
それでも「もっともっと食べる、もっともっと食べる」ときかず、もうもらえないと分かると大泣きを始めた。
要求は、「きゅうりとにんじん、もっともっと食べたいからくれ」なのだけれど、5分ほど大泣きをして何で泣いているのか自分でも分からなくなってしまった様子だった。

お風呂までを手伝って、おやすみとバイバイ。
いもうと宅を出て、マンションを出る前にiPodをつなぐ。
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」が流れていた。

君はあるとき何を見ても何をやっても
何事にもかんげきしなくなった自分に気が付くだろう
そうさ君はムダに年をとりすぎたのさ
できることなら一生
赤ん坊でいたかったと思うだろう
そうさすべてのものがめずらしく
何を見ても何をやってもうれしいのさ
そんなふうな赤ん坊を
君はうらやましく思うだろう






チキンハート

2014-07-12 04:14:04 | 日記
時刻は深夜2時、真夜中のスーパーマーケット。
急を要するわけでは全然なかったのだけれど、急に蒸し暑くなった夏の空気に誘われて散歩に出たかった。
しっとりを通り越してじっとりの夜風は、どうせならもっと温度も湿度も増してべたべたになってもいいなと思った。
しかし、雨ではなく。

いつもは自転車が溢れかえっているスーパーの駐輪場も、大行列しているレジも、店員さんの方が多いくらいに、客は閑散としている。
しかし商品の入れ替えなどのワゴンがたくさんあって、空いてはいるけれど区画によってはいつもより買い物しづらいくらいだ。

買い物に来ている人たちはどんなだろう。
ジャージにスリッパ姿の中年男女は缶チューハイやらレトルト食品やらを、金のネックレスをして筋肉隆々のガタイのいいお兄さんはダニよけの薬剤を大量に、風俗店かどこかに勤務中かと推測されるムースで髪がパリパリの痩せた男性はトイレットペーパーを、眼鏡をかけてイヤホンを耳にしている黒ポロシャツの男性は売れ残ったお惣菜と納豆と電池をカゴに入れていた。
そして、髪を適当に束ねてよれよれのTシャツとサンダルの私は、洗濯洗剤と布巾と、納豆と鶏がらスープの素、塩昆布、豚肉と炭酸水を買った。

多くの人が寝静まる真夜中も、時は平等に流れていて、人々は呼吸を止めない。
真夜中だって代謝をしている。
起きていれば、何かを観たり聴いたり読んだり書いたり、炭酸水を飲んだりもする。

奥田民生の「SCHOOL OF ROCK」のラジオを聞いてしまったものだから、とりあえずどきどきしていた。
ぎゅうっとなって、なんだかいてもたってもいられなくなったから、深夜に自転車を走らせたくなった。
奥田民生はもちろん知っているし、「さすらい」や「フロンティアのパイオニア」などは大好きだし、一時は小さな容量のiPodのプレイリストにも入っていた。
ただしとても“男子感”の強い人のイメージなので、これ以上は掘れないのかなと思っていた。

ラジオを聴いて、とても切なくなった。
どの口が言うか、ということは置いておいて、そういう人だったのね、と思った。
本人の中に留めきれない強い意志で、自分のやり方で、戦っているんだなと思った。
そんな人に、そんな風に、力いっぱい一生懸命に、ギター一本で歌われたら、目が潤んでしまう。

「ギターは特技で、ないと困るものだけど、あくまで道具であると思っている」と言っていたけれど、大事なのは音楽と言うよりかは彼の中の“何か明確で明確でないような思い”がそこにあるということだけが、今さらにようやく私に明確に届いたような気がする。
奥田民生のインタビュー記事などは読んだことないけれど、このラジオは番組の構成が素晴らしく、実によく自身のことを説明していた。
説明されたからなのか、今の私の状態だからなのか、ちょっとだけ奥田民生の思いを見た気がした。

今まで“奥田民生のそんな感じ”ということで済ませていた歌詞がちょっとだけ理解できたような気がしたということでもある。
ヒロトやマーシーや、くるりの岸田さんや、オアシスのノエルギャラガーと、おんなじような“あのこと”を、ひたすらにやっていたのですね、戦っていたのですね、と。
自分に対して穢れない欲望を持っていたい願望と、体制への切り込みと、物事に対するフラットで謙虚な気持ちとを持って。


会期を終えたので今作を載せておく。

わざわざ会場まで足を運んでくださった皆さま、どうもありがとうございました。





がじゃいもちょうだい

2014-07-09 19:53:48 | 日記
ウィキペディアへの寄付のお願いメッセージが、ウィキペディアを開くたびに出てくる。
ネットの世界のこういったものへの不信感は拭えないのだけれど、あまりに私がこのメッセージを目にしていることに気付いて、寄付をすることにした。

あまりにこのメッセージを目にしているということは、私が毎日のように何らかウィキペディアを見ているということで、事実私はかなりウィキペディアユーザーである。
もちろん全部の内容が真実ではないとは思うが、私はある程度の信頼性を置いて利用している。
私が新しくバンドなどを知るとき、大抵はそのバンドのオフィシャルサイトではなくウィキペディアの情報から読む。
それはある程度情報を信頼しているという点と、基本フォーマットに則り系統立ててまとめて書いてくれているので把握しやすい。
それに、誰がいつ、どのように編集しているのか詳しく知らないけれど、ファンにしか知り得ないような細かい情報も載っていることが多々ある。

というわけで、多大な恩恵を受けているし、価値にはお金を払いたいので、寄付をすることにしたのである。
別に私が払った小さなお金で存続が決まるなんてことは絶対にあり得ないけれど、しかし、価値にお金を払うということは最近の私の中で美化されてしまっていることもあって、払わずにはいられなかったのである。

お金というのは、価値に対する敬意の表明として一つの分かりやすい方法だ。
この寄付を集うやり方は賛否、というか否定意見が多いようだけれども、払いたい人は個人的に自発的に払うだろう。
それでいうと、YouTubeにもあんな形で寄付を迫られたら私は間違いなく払ってしまうだろうなと思う。

インターネットは情報の海だし、一つの情報を一面的に見て鵜呑みにするわけにもいかない。
しかし、何かを調べるにあたり、基礎情報として大枠を把握する百科事典というのはありがたい。
そこからまた調べていけばいいわけだし、物事への思考の端を発する大元としてはウィキペディアは非常に有意義だと思っている。

ウィキペディアのことをクソ情報だとかなんとか言う人は、私よりもたくさん厳密にウィキペディアを読んでいるのかもしれない。

あのメッセージが実はウィキペディアの運営者ではなく、何か悪意のある人がウィキペディアへの寄付と見せかけた詐欺行為をしているのではないと良いけれど。


今日は7月3日くらいの感覚でいたけれど、9日だった。
夜風は十分に涼しくて、この空気が7月であるという実感が持てない。
毎年、梅雨明け前はこんなものなのだったろうか。

一刀両断に処理された思いと、きっとずっと私の胸に残っていくだろう思い。
想像以上に複雑で、想像以上にシンプルな。

“本物の死”は、誰にも、そう、この地球上にいる誰にも分からないから、生きているという事実しか存在しない。
生きているという事実もまた、自分の認識下にしか存在し得ない。

分類して、分割して、分け入って、潜って。
そこで目を見開いたら、何が見えるのだろう。

奥田民生 「人の息子」