つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

コジラセオタニノゲンエイ

2015-09-09 13:02:39 | 日記
もっぱらハイヒールを履かなくなって随分経つ。
かつては8cm~12cmくらいのハイヒールが当たり前だった。
背が大きい方ではないからハイヒールに乗らないとバランスが保てない、そう思っていたし現実にフォルム的にはそんな風にも思う。

しかしながら、ハイヒールの中でもピンヒールは安定感のある竹馬に乗っているようなものだし、先が尖っているポインテッドトゥのハイヒールなんて自分の体重で自分の爪先を圧縮して潰しにかけていることになる。
上り坂は良いけれど、下り坂は一人傾斜を煽ってしまうし、転びやすいし、挫きやすいし、はまりやすいし、走れない。

当然ながら、無意識にもバランスに常々気が行っているわけで、当然ながら1日出歩くと駅から自宅までの帰途で泣きたい気分になったりするくらい疲れる。

それはそれで辛かったから、最近はヒールが太いチャンキーヒールや、ヒールが高くても底の部分がフラットになっているウェッジソールを選ぶことが多くなっていた。
また、ブーツは、全般的にハイヒールでも足首が固定されて体重が分散されることで全体の安定感が向上するのでブーツ率も高まった。
しかしそれでもハイヒールなら乗って歩いている感じはもちろんある。

時折、ぺたんこの靴を履くと地に足付けて歩く素晴らしさで、「走れちゃうもんね!」となる。
しかし、急にぺたんこの靴を履くと、ハイヒールではさほど使わないのだろう、脛やふくらはぎの筋肉が痛くなったりもする。

ユニクロのレギンスパンツに惚れてからだろうか。
パンツスタイルをすることが増えて、ファッション的にフラットシューズのバランスの取り方に納得がいった。

とてもソールの薄いフラットシューズを履くと、地面の感触が近すぎて、外界がまるで部屋のように感じる。
点字ブロックの丸いやつを踏むと、足ツボを押されているかのような気にもなる。

タイツを履いてごく軽いスカートを纏うとき、「スカートをはき忘れたかも」と家を出て数分でハッとすることが時々あるのだけれど、そのときの感覚に少し似ている。
外に出ては行けない格好をしているのではないか、そんな感覚に襲われるのだ。

そんな感じにもだいぶ慣れてきて、私は普段街の人を観察することがさっぱりないのだけれど、スニーカーやローファーのハイヒールでない率や、その着こなしをちらちらと観察するようになった。
可愛らしいバレエシューズタイプのフラットシューズだけではなく、マニッシュな雰囲気のローファーやスリッポンやスニーカーも良いではないか。
そして、街を見渡した私の感覚では、そんなにハイヒールを履いている女性は多くなかった。

そんなこんなで、持っていたバッグを2つ売った。

こんなに雨ばかりで嫌になってしまう。


さよならが尽きた時から法師蝉




撃つ

2015-09-07 13:54:33 | 日記
どうも体が動かなくて、剥げ剥げになったマニキュアを塗りかえる気にもならないし、洗濯した枕カバーを付けることさえも放ってある。
それでも部屋が大きく荒れているのは嫌で、体が不意に少しだけ動き出した瞬間を感知して、シンクに山盛りになっていた食器類を洗って、部屋干しの洗濯物をハンガーから外してたたむ。

こんなときにお腹いっぱい食べたり、お酒を飲むとさらに動けなくなる。
その上に煙草を吸うと、重力にずんずんと引っ張られて自分が重石になったような気分になる。

借りている『銀と金』と、スマートフォンで『ザ・シェフ』『ねじの人々』を読む。
やはり『カイジ』の方が面白いけれど、「オレはただオレなんだ、それだけ。名前は森田鉄雄。背景はない・・・!」とか言われると私は、わーい、となる。

漫画を読むことは、長い時間ををかけて板に付いてきた。
絵が細かすぎることと、設定に現実味がなくて読み止し、もうかなり長期間寝かせてある『ジョジョの奇妙な冒険第7部』もそろそろ読むことができるだろうか。

漫画は、小説よりも字数が少ない分だけ断然に頁を速く捲っていける。
しかし、自分が読んで積み上がった漫画の塔を見て、「こんなにたくさん本を読んだ」と堂々と言う人はいないだろう。
言ったとしたら「(笑)」が伴ってしまう。

しかしながらそこには、小説に比べて膨大な作業量があるだろうし、映画に比べて恐ろしく孤独も付きまとっているだろうと思う。
漫画はそれこそ紙と筆記具があれば描けるわけだけれど、読み手の消費スピードと書き手の創作スピードには大変な乖離が生じてはしまわないのだろうか。
一コマの絵にこだわろうと思えばどれだけだってこだわれるだろうし、後から物語を少しいじりたいとなった場合にはそれはもう大変なのではなかろうか。

まあでも発行冊数が小説に比べて多大になるから、売れれば金銭的に潤い、その分アシスタントなどを雇うことでカバーもできるだろうが、そんなことで解決可能なのだろうか。

創作の労力だけが敬意の在り処であるわけではないけれど、漫画初心者の私としては毎度そのことを思ってしまう。
無論、他の表現物が労力を要さない、と言っているわけでは全くない。
単純に、漫画家ってすごいな、と思っているだけである。

漫画は、表現物として、読み手側の想像の余地が非常に狭く支配力がある。
よく、「漫画ばかり読んでてはいけません!」とお母さんが子供に言う一つの台詞があると思うが、それはおそらく漫画について一般的に社会が与えている位置づけや、この支配力ゆえの影響力を鮮明にでなくてもなんとなくそのお母さんたちが分かっているからなのではないかと思う。

私は小説などを読むとき、物語に入り込むことが非常に苦手なのだけれど、その理由は言葉の端々や情景描写を単独で拾って、思考を派生させてしまうことにある。
だから漫画くらいに絵と言葉でイメージを支配してくれた方が、単純に物語を楽しめる。

私は文章を書くことが好きだし言葉が好きだけれど、ただそれだけではなく、全体感としての“それ”が好きなわけだ。
音楽だってそうだ。
インストゥルメンタルの曲であろうと、歌詞のある曲であろうと、そこにあるのは表現者の、匂い立ってくる何か、なわけだ。
と、最初私は「歌詞しか分からない」と豪語していたものだけれども。
では「歌詞の意が分かっているのか」と問われれば、今思うによくもそんなことを豪語していたなと思う。

書は言葉を扱ってしまうから、記号としての支配力が強いわけだけれど、しかしだったら活字を拡大印刷したっていいわけで。
字一字ではない、“そんな感じ”ということしかきっとやることはないのだろうと思う。


初めて、ミントの花が咲いた。
先っぽに、白くて小さなつんつんした花。


さよならのこぼれた訳は流れ星





壁の話

2015-09-04 00:50:29 | 日記
プリンターを買った。
お手本やらなんやら、コンビニのコピーやプリントアウト機能に走っていることが増えたからだ。

大きな機器を家に増やしたくないのだけれど、必要なものは仕方がない。
いろいろと探してみると、スキャンも両面印刷もWi-fi対応も付いているA4サイズの複合機が4000円もしない。

そんなものなのかと、その値段帯のいくつかの中からヒューレット・パッカードのものを早速注文する。
ヒューレット・パッカードがどうとかは一切何もないけれど、amazonの商品検索で一番上に出てきた、から。

電子機器全般に酷くひどく苦手意識がある私だけれど、アレルギー的に自分にバグが起こって、物事が無駄に進まなくなるのは避けたい。
こういう場合、少しでも躓くとその途端に心が折れて、「やっぱり初期不良を引いてしまったか…」と、もしかするとそうではないかもしれないのに、そう結論付けかねない。
事実、過去にはPCの初期不良などには当たったことがあるのだけれど、実際のところそれが“本物の”初期不良であったかどうかは既に闇の中である。

説明書を、一歩、いっぽ、と落ち着いて読み進めていく、丁寧に指示に従う。
最近の機器は、実に懇切丁寧な誘導をしてくれるのでありがたい。

無線接続と、ソフトウェアインストールのCD挿入口が私のPCにないことで少々戸惑ったけれど、HPのHP上からドライバはダウンロードすることができた。
プリントアウトしたかった請求書やお手本のスキャンとコピーまで無事にたどり着けた。
これで良し、と、色々と他の便利な機能がもるだろうけれど、必要事項はHPに書いてあるだろうから保証書と説明書は邪魔なので捨ててしまおうか。

テレビのレコーダーも、クロームキャストも、一応最低限の機能は初期設定から問題なく使えている。
こうして少しずつ機械アレルギーが克服できていくといい。

こういった家電を買うとき、必要性とクオリティの話は別物で話はいささか逸れるけれども、やっぱりBOSEのスピーカーが最近の私の家電の中では断トツに買って良かったものだ。
クロームキャストは買った当初、相当に推していたが、iPhoneを落として端末認識の設定を変えねばならなくなったことと、HDMI端子がテレビのレコーダーで取られているので全く使っていない。


雨空が止まない。
秋のしっとりとした空気は優しいけれど、天高し、といった青空が見たい。

アスパラを塩胡椒で軽くソテーする。
穂先が豆の味がする。

ぐるぐると渦になっている蚊取り線香の匂いは、焚きっぱなしは少し辛い。

寝づらいソファで、それでも数時間も寝てしまうのはどうにかならないものか。

煙草が、美味しい。

どれも、何か特別なところの意味は、ない。

いろんなことが散り散りで、散り散りなのは良いけれど、こじんまりと散り散りだ。


飛びだしてつぐんだ先に小鳥渡る







千の起伏

2015-09-03 02:32:10 | 日記
いもうとの家で食べた切り干し大根の煮物が美味しくて、初めて切り干し大根を買った。
今まで避けてきたのは、私に使いこなせる代物ではないと、なぜか乾燥大豆を水から煮るくらい面倒であるとレッテルを貼っていたからだ。
というのと、ひじきを水でもどすときにザルに目詰まりして面倒を被った学生時代の記憶から、乾物を扱うのを避けてきた節もある。
なんだか今思い出すとよく分からないけれど、そのとき私は何かに怒っていて、ひじきで目詰まりしたざるを確かそのまま捨てたのではないかと思う。

よく、料理番組などのレシピでは、「だし汁1カップ」という表現がある。
出汁をとることというのは、結構繊細な作業というか、工程が大切なように思うのだけれど、それが「だし汁1カップ」という言葉で省略されて良いものだろうか。
まあ、毎度そんなことをやっていては、肝心のレシピが紹介できないということだとは思うけれども。

斯く言う私も、よく使うかつおの厚削りでさえも正しい出汁の取り方はよく分かっていない。
味噌と同じで、沸騰して煮立ててはいけない、と言われると思うが、いつかの「きょうの料理」で小林カツ代さんが、「かつお節は水から入れて、美味しさをぐつぐつ煮出して搾り取ってください。灰汁だけはちょっと丁寧に取ってくださいね。これが美味しさの秘訣です。」と言っていたのがしっくりきて、今も私はそうしている。

かつおの厚削りを水に浸しておく。
厚削りが水分を含んで茶色が少し白くぼけたくらいで中火にかける。
そうした方が、じっくりと旨味を搾り出せるような気がする。
火にかけて10分強、灰汁を少し取って、黄金色になっただし汁を器にあけておく。

切り干し大根を軽く水洗いして、こんにゃくを下茹でする。
こんにゃくは味が染みやすいように表面に格子状に包丁を入れて、サイコロ状に切る。
包丁できれいに切るよりもスプーンで抉った方が味が染みやすい、とこれもどこかの料理番組で見たけれど、スプーンが汚れるのでしない。

私は、生姜が好きで、冷蔵庫にあればかなり高頻度でいろんな料理に入れる。
だいたいすりおろしで使うけれども、今回は千切りにする。

この時点でまだ「切り干し大根の煮物」という構想しかないので、冷蔵庫を除いて入れられそうなものは全部入れる。
シーチキンと、三つ葉と、豆腐と、しめじと。
豆腐は水分がとても多いので安い豆腐は特に一度水切りをして、美味しい水を吸わせると美味しい豆腐になる、と友人が言っていてなるほどと感心したのだけれど、ごった煮を作るのに美味しい水を吸わせなくても良いだろう。

シーチキンをフライパンにあけて、火にかける。
何気なく空き缶を見ると「一缶159kcal」とあって、とても低カロリーな気がして、なるほどノンオイルである。
シーチキンを使うとき、私はたいてい葉物と一緒に煮ることが多いので、どろっとしたコクが欲しい。
ノンオイルは買ってはダメだ。

ごま油を少し足して、三つ葉と豆腐以外をフライパンに放りこんで軽く炒める。
だし汁を戻し入れて、ぐつぐつと煮る。
切り干し大根は甘いのでみりんはやめて、しょうゆと塩で味付けする。

味は冷めるときに入る、これも何かの料理番組でしつこく言っていた。
おでんなども長時間煮込むよりも、一旦火から下ろして冷蔵庫に入れた方が味は染み込む、と。

だから私は煮物を作るとき、たいてい今食べないときに、夜な夜な深夜も深夜に作る。
冷蔵庫に入れはしないけれど、ひと晩というか、ひと朝置く。

豆腐と三つ葉を入れてひと煮立ちさせて、火を止める。

翌日、混然とした感じが出たごった煮を温め直す。

切り干し大根は、滋味深い。


うそみたいなほんとみたいなうそみたいなほんとみたいな、うそみたいな、多肉植物。


ししとうの当たりを引いて夏終わる