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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

「道徳教育えっ!ボクたちだけ?!…小中学生」政治家の嘘や誤魔化しは不問?

2017年11月19日 | こども危機
  《子どもと教科書全国ネット21ニュースから》
 ◆ 道徳教科書がやってくる・・・
   「道徳教科化」の現場で考える

小佐野正樹(子どもと教科書全国ネット21常任委員)

 来年4月から小学校の子どもたちの手に渡る、道徳教科書の検定と採択が終わった。教科書展示会でその実物を読んだ人たちからは、「特別の教科道徳」が初めて具体的な姿を現した内容に危惧する声があがった。
 ◆ あらわになった「道徳教科化」の本当の姿 ~修身科以上の危険な臭い
 今回の「道徳教科化」は、表向きは「いじめ」問題がきっかけになって導入された。中央教育審議会の答申(2014年10月21日)では、「道徳教育の改善の方向性」として「人としてよりよく生きる上で大切なものとは何か、自分はどのように生きるべきかなどについて考えを深め…」と述べ、それはある意味で「思いやりのある子どもに育ってほしい」「いじめのない学校であってほしい」という保護者・市民の切実な願いに応えるものとして受けとめられてきた。
 一方で、その実施にあたっては「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるもの」(前出「答申」)として、こうした指導は厳しく排除することも述べられてきた。
 ところが、それを具体化した学習指導要領と教科書が登場してみると、「特定の価値観を押し付け」「言われるままに行動する」教育をもくろむ道徳科の本当の姿があらわになってきたのである。
 生活のすべてで「明るく」「楽しく」「誠実な」子どもであることが求められ、集団の中では「法やきまりを守り」「責任を果たす」子どもであることが求められ、あげくは「節度、節制」「礼儀」として「正しいあいさつ」「おじぎのしかた」まで型にはまった行動様式を教えこむ教科書に、「お国のために忠義を尽くす」ことを教えこんだ戦前の修身科の再来を思い起こした人も少なくなかった。
 しかも、「読む道徳」から「考え、議論する道徳」への転換をうたった道徳科は、教科書を読んで終わりではなく、「問題解決的な学習」をさせそれを「評価」するのだから、修身科以上の危険な臭いを嗅ぎとったものである。
 ◆ 「いじめのない学校」をどう実現するか
 採択も終わり、半年後にはその教科書が子どもたちの手に渡ろうという今の時期に、みんなで深めたいいくつかの間題がある。
 ひとつは、道徳教科書を実際に開いて、「特別の教科道徳」が本当に「思いやりのある子ども」や「いじめのない学校」というみんなの願いを実現するものなのか政めてふり返ってみることである。
 低学年の教科書に、「うそやごまかしをしないで、あかるい気もちですごすごとができたら、いろをぬりましょう」というページがある。
 新聞に「道徳教育えっ!ボクたちだけ?!…小中学生」という投書が載った。一番色ぬりをしなければならないはずの政権の「うそやごまかし」は不問に付され、子どもにだけうわべの「規範意識」を求めることが本当の教育と言えるのだろうか。
 中学年の教科書には、「いじめ役・いじめられ役・傍観者役」になって寸劇(ロ一ルプレイング)を演じさせるというページがある。
 現実の学級の中に「いじめ」が起きていて、しかも教師がその事実を把握していない教室で教科書通りにこのような授業をしたら、当事者である子どもたちの心をどんなに傷つけることになるか、想像しただけでも背筋が寒くなる。
 しかもこれも「評価」の対象になるのだから、自分の本音とは裏腹の模範解答を演じさせられる子どもたちの苦しみを想像してほしい。
 いろいろ生育環境も違う子どもたちが集団生活する学校という場で、様々な行き違いが起こり「いじめ」に至るのは、ある意味であたりまえな姿である。「いじめのない学校」以上に大切なことは、「いじめが起きた時、それを自分たちの力で解決できる子ども集団をどう育てるか」ということである。
 そのためには、誰に対しても自分の意見を気兼ねなく言える関係をすべての子どもと教師に保障することであり、自分たちの問題を自分たちで話しあえる場を保障することである。
 学級会も職員会議も奪い、教師は業績評価で追い立て、子どもたちは学力競争で追い立て、そして今度は心の内側まで評価しようとする「道徳教科化」は、「いじめのない学校」どころかそれとは真逆の学校をつくりだそうとしている。
 いま必要なのは「道徳教科化」ではなく、子どもも教師も保護者も本音でものが言える学校をどう実現するかということであり、それが真に「いじめのない」「思いやりのある」学校にする第一の道であることを広く訴えたい。
 ◆ 真に道徳性を培う教育とは
 小学校の理科には、「氷・水・水蒸気」という勉強がある。
 私の学級の子どもたちは、教科書に載っているH20の状態変化だけでなく、金属を加熱するとトロトロの液体になってしまうことなど、「どんな物も固体から液体、気体へと変化する」ことを学んだ。
 その子どもたちが、ずっと後になって、ヒロシマの爆心地で6000℃もの高温によって一瞬にして人も建物も「蒸発」してしまった話を聞いた時、その残虐な事実に驚き、心から憤った文を綴ったできごとがあった。
 学校は、人類が蓄積してきた科学や芸術の基礎を子どもたちがゆたかに獲得する場である。そして、「心」や行動はそのうえにひとりひとりの子ども自身が決めてゆくことである。
 ところが、それらを保障するはずの教科教育は、学習指導要領と学力テストによって、無残にも薄っぺらなものにさせられている。
 数学のおもしろさではなく計算の反復練習、文学のゆたかさを学ぶのではなく漢字書き取りばかり…。
 そうしておいて、一方では画一化された道徳によって子どもたちの「心」を同じ色に塗りこめようとしている。
 「わがままなかぼちゃがつるをのばして痛い目にあう」だの「樹の幹に耳を付けると生きている水の音がする」だの、道徳教科書に載っている話は、決まりきった結論を押しつけるために科学をねじ曲げ、コトバだけで教えこむ教育をしようとしている。
 本当にゆたかな心をもった子どもは、ゆたかな科学や芸術を身につけることで育つ。そうした視点から教科教育を充実させること、それが真の意味での道徳性を培う教育であることを確認しあいたい。
 ◆ 新たなとりくみのスタートを
 もちろん、道徳教科書に載っている教材をどう扱うかとか、「評価」をどうするかという目の前の問題はある。そうした時も、以上に述べたことを見据えた議論を学校現場で深めたい。
 ところで、今回ほど教科書採択権を私たちの手に取り戻すことの意味を痛感させられたことはない。
 そうした中で、教育出版のような道徳教科書を批判する声は全国に広まり、道徳教育とは何かを深めることができたことはだいじな成果である。
 しかし、道徳教育が子どもたちを苦しめることになるのは、教育出版の教科書だけではない。そして、半年後にはこれらの教科書が使われるというのに、見本本の配付を制限する文科省の通達によつて、展示会が終わるとその実物を見ることができないという事態も起きており、全社教科書の展示・公開を教育委員会などに要求するとりくみも各地で始まっている。
 採択が終わったいま、私たちの取り組みは新たなスタートに立っている。(こさのまさき)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 116号』(2017年10月)

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