2023年12月25日
◆ 原告ら訴訟代理人 弁護士 平松真二郎
1 本件訴訟においては,まず,原告らは,2014年3月から2017年4月の間に都立学校で実施された卒入学式の際に起立斉唱命令に従わなかったことを理由として科された懲戒処分の取消しを求めています。
加えて,これまでの第2次訴訟から第4次訴訟までの先行する裁判で減給以上の処分の取り消し判決が確定した者に対して,取り消された処分と同一の事実について,7~8年前の起立斉唱命令違反行為について,さかのぼって処分の対象として科された再度の懲戒処分の取消を求めています。
2 原告らは,まず,教職員に対する卒業式等における国歌の起立斉唱の強制自体,思想良心の自由を制約し,教育の自由を侵害するものであるから,そもそも起立斉唱命令違反を理由とする懲戒処分はいずれも違憲違法であって取り消されなければならない。
さらに,本件各懲戒処分は,いずれもその処分裁量を逸脱・濫用してなされたものであるから取り消されなければならない。これが,原告らの主張の骨子です。
3(1)10・23通達が発せられて以来,職務命令違反を理由として懲戒処分を受けた教職員がこれまでに4次にわたって懲戒処分取消請求訴訟を提起してきました。
これまでの訴訟においては,結論として減給以上の懲戒処分の取消したにとどまり,戒告処分の取り消しは認められてはおりません。
しかし,これらの判断は,あくまでも判決当時の状況を前握にして,戒告処分について「まだなお違法とまではいえない」と判断したものにとどまります。けっして強圧的な都教委の姿勢を肯定したものでもなければ,状況いかんにかかわらず戒告処分が違法とはならないとしたものではないことに留意されなければなりません。
このことは,10・23通達をめぐる訴訟の一連の最高裁判決には,数々の個別意見が付され,その多くが国歌の起立斉唱の「強制」に慎重な姿勢を示していたことからも明らかです。
(2)しかしながら,都教委は,これらの個別意見を真摯に受けとめず,免罪符を得たとばかりに教職員に対する圧力を一層強めています。そこには,ただただ国歌の起立斉唱の義務付けを貫徹しようとする思惑だけが見て取れます。最高裁の各個別意見が,教育環境の改善を図るために寛容の精神及び相互の理解を求めたことについての配慮はみじんもみられません。
不起立とそれに対する懲戒処分が繰り返される結果,教育現場の環境が悪化しようが,起立できない教職員に対して徹底的に不利益処分を科し,根絶やしにすることに固執する姿しか見られません。このような姿は,最高裁裁判官の各個別意見の真意に沿うものではないはずです。
(3)それを措いても,本件訴訟においては,これまでの最高裁判決の多数意見の判断,結論に漫然と従って判断されてはなりません。
一連の最高裁判決以降,都教委の再発防止研修の強化など,より精神的自由に対する制約が強められ,原告らに科された各懲戒処分の実質的内容は加重されています。これらの事実経過を正確に認識したうえで,憲法19条が保障する思想良心の自由が侵害されているか否かが判断されなければなりません。
また,都教委による教育内容介入が,教基法16条が禁ずる「不当な支配」に該当しないかが判断されなければなりません。そして,なにより,懲戒処分を繰り返している都教委の真の意図を直視した判断がなされなければなりません。
(4)さらに付け加えると,一連の最高裁判決は,個人の思想・良心の自由という人権の制約を合理化する対抗価値について積極的に述べるところはありません。
結局のところ,最高裁判決の法廷意見は,「秩序維持」という多数派の抽象的な利益を,個人の人権を凌駕する優越価値と認めてしまっています。しかも,優越価値と認められた「秩序」は,国旗国歌への敬意表明の場としての学校儀式の整然性であり,そのような国家意識を涵養する「秩序」にほかなりません。
このような「秩序」優先の判断は,不正常な憲法感覚にもとづくものであり,人権感覚の欠如と指摘せざるを得ません。
4 当然のことですが,人権は多数決によって侵害されてはなりません,社会の多数派の意識が少数者の人権を蔑ろにしようというとき,敢然と少数者の側に立って人権を擁護すべきが司法の役割です。
最高裁判決の多数意見の結論のみに漫然と従い,硬直した判断を行うことは,裁判所の判断が,不起立とそれに対する懲戒処分との繰り返しによって教育環境を悪化させる一端を担う結果となるのです。
裁判長、右陪席裁判官の交代による弁論の更新に当たって,このことをくれぐれも強調し,貴裁判所には是非とも,真っ当な人権感覚をもっての的確な審理,訴訟指揮を求めるものであります。
以上
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