◆ 国立大への国旗国歌「要請」
税金拠出者は国民
◆ 文科省の「脅迫」
過日の国立大学長会議において、文部科学相が国立大学においても卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱をするよう「要請」した。国旗や国歌が国民に定着してきたことと、一九九九年の国旗国歌法の施行が今回の要請の背景にあり、「取り扱いについて適切にご判断いただけるようお願いする」と語ったのである。
小中高は学習指導要領で指導(強制?)できたのだが、大学にはそのような典拠になるべきものがないから「各国立大学の自主的な判断にゆだねられている」と述べるしかなく、各大学の自治に任せているような口調ではあるが、国立大学が今置かれている状況を考えれば、この「要請」は「脅迫」に近いといえる。
そもそもの発端は、国会の議論の中で安倍晋三首相が「国の税金で賄われている大学なのだから」との理由で、国立大学が節目の儀式において国旗掲揚と国歌斉唱を行うのが当然とのニュアンスで語ったことにある。
この「国の税金…」という言葉が「国の言うことに従うのは当然」との論に直結し、結果として国家を批判する思想が弾圧され、愛国主義が強要されたのが戦前の大学であった。国家に従順な思想と行動を大学人に要求するために税金が持ち出され、その恩義に報いよという論理が組み立てられたのだ。それが今も続いており、国家のスポンサーが政治家や官僚であるかのように振る舞うのが常となっている。
しかし、そこに大きなすり替えがあることは明白だろう。税金の真の拠出者は国民であり、国家(立法であれ行政であれ)は国民に代わってその管理と配分を受任しているにすぎないからだ。
国民が国立大学に税金を投入することを認めてきたのは、研究によって得られた学術の成果を文化として共有し、教育によって次世代を担う人間を養成する、そして必要ならば国の方針に異議を唱える、そんな役割を期待しているのである。
だからこそ、学問の自由を最大限に認め、大学の自治を尊重することを当然としてきた。そのような条件が満たされていてこそ、何ものにもとらわれずに研究と教育と自由な言論が全うできるからだ。まさに大学は公共財という意味はそこにある。
首相や文科相の言うことに唯々諾々と従うのは国立大学としては恥ずかしい限りと言うべきだろう。
◆ 従順度を数値化
とはいえ、国立大学は今大きな曲がり角に差しかかっている。二〇〇四年に法人化され、それ以降一般運営費交付金と呼ばれる大学の基本的運営経費は年々削減される一方(法人化以来累計で10%以上削減された)、「選択と集中」政策の下で大学教員は自分の研究費を熾烈な競争で勝ち取らねばならなくなったからだ。
その結果として、論文稼ぎのための安直な論文ばかりが増えて日本の研究力が低下しつつあることが報告されている。
そして、文科省はこのような予算制度を逆用して国立大学の種別化を強行し、さらに人文・社会系分野の縮小を迫つている。その背景には安上がりの高等教育政策があるのだが、それを貫徹するために大学の従順度を数値化しているという。
とすれば、国旗掲揚・国歌斉唱がカウントされることになるのは確実で、こうして大学は嫌々ながら金のために文科省に屈するだろくくうと文科省は高を括っているのだろう。
「国の税金で賄われている大学」は「お国のための大学」への殺し文句なのである。
『東京新聞』(2015/7/3【夕刊】)
税金拠出者は国民
池内了(いけうち・さとるー総合研究大学院大名誉教授)
◆ 文科省の「脅迫」
過日の国立大学長会議において、文部科学相が国立大学においても卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱をするよう「要請」した。国旗や国歌が国民に定着してきたことと、一九九九年の国旗国歌法の施行が今回の要請の背景にあり、「取り扱いについて適切にご判断いただけるようお願いする」と語ったのである。
小中高は学習指導要領で指導(強制?)できたのだが、大学にはそのような典拠になるべきものがないから「各国立大学の自主的な判断にゆだねられている」と述べるしかなく、各大学の自治に任せているような口調ではあるが、国立大学が今置かれている状況を考えれば、この「要請」は「脅迫」に近いといえる。
そもそもの発端は、国会の議論の中で安倍晋三首相が「国の税金で賄われている大学なのだから」との理由で、国立大学が節目の儀式において国旗掲揚と国歌斉唱を行うのが当然とのニュアンスで語ったことにある。
この「国の税金…」という言葉が「国の言うことに従うのは当然」との論に直結し、結果として国家を批判する思想が弾圧され、愛国主義が強要されたのが戦前の大学であった。国家に従順な思想と行動を大学人に要求するために税金が持ち出され、その恩義に報いよという論理が組み立てられたのだ。それが今も続いており、国家のスポンサーが政治家や官僚であるかのように振る舞うのが常となっている。
しかし、そこに大きなすり替えがあることは明白だろう。税金の真の拠出者は国民であり、国家(立法であれ行政であれ)は国民に代わってその管理と配分を受任しているにすぎないからだ。
国民が国立大学に税金を投入することを認めてきたのは、研究によって得られた学術の成果を文化として共有し、教育によって次世代を担う人間を養成する、そして必要ならば国の方針に異議を唱える、そんな役割を期待しているのである。
だからこそ、学問の自由を最大限に認め、大学の自治を尊重することを当然としてきた。そのような条件が満たされていてこそ、何ものにもとらわれずに研究と教育と自由な言論が全うできるからだ。まさに大学は公共財という意味はそこにある。
首相や文科相の言うことに唯々諾々と従うのは国立大学としては恥ずかしい限りと言うべきだろう。
◆ 従順度を数値化
とはいえ、国立大学は今大きな曲がり角に差しかかっている。二〇〇四年に法人化され、それ以降一般運営費交付金と呼ばれる大学の基本的運営経費は年々削減される一方(法人化以来累計で10%以上削減された)、「選択と集中」政策の下で大学教員は自分の研究費を熾烈な競争で勝ち取らねばならなくなったからだ。
その結果として、論文稼ぎのための安直な論文ばかりが増えて日本の研究力が低下しつつあることが報告されている。
そして、文科省はこのような予算制度を逆用して国立大学の種別化を強行し、さらに人文・社会系分野の縮小を迫つている。その背景には安上がりの高等教育政策があるのだが、それを貫徹するために大学の従順度を数値化しているという。
とすれば、国旗掲揚・国歌斉唱がカウントされることになるのは確実で、こうして大学は嫌々ながら金のために文科省に屈するだろくくうと文科省は高を括っているのだろう。
「国の税金で賄われている大学」は「お国のための大学」への殺し文句なのである。
『東京新聞』(2015/7/3【夕刊】)
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