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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

OECDが後押しする「値札」としての学力を競わせる「人材要請機関」学校観から訣別を

2022年02月24日 | こども危機
  《「子どもと教科書全国ネット21ニュース」から》
 ◆ 学びの本質とはなんだろう
   ~学校の「呪い」から解放されるために

中央大学 池田賢市(いけだけんいち)


新泉社 定価2,000円十税
 ◆ はじめに

 学校で勉強すればするほど、子どもたちの発想は貧弱になり、むしろ「考えなくなっていく」。なぜ、いま、この私が、これを学ぷのか、こんなことをいちいち考えていたのでは授業についていけない。とにかく提示されたものを、指示されるとおりに習得したほうが得策である。
 なぜなら、学校での学習状態(成績や学歴など)が、将来の生活(保障)と結びつく、つまり、学校にいる間に将来が決まってしまうのだから。
 しかも、学校によって提示される学びのあり方や物事の考え方に対して、その枠組み自体を問い直そうとする発想は封印されている。
 「しっかりと知識を身に付けておかないと、社会に出てから困る」とか、「学歴がないと、将来の(職業の)選択肢が広がらない」などという子どもへの脅し文句が呪文のように繰り返される。みんな呪いにかけられていく。
 この「呪い」からいかに解放されるか。「学ぶ」とはどういうことなのか、私たちの思考の癖を解きほぐす必要がある。
 ◆ 子ども観の問い直し

 学校における教育作用は、子どもをどのようにみなすかによって変わってくる。
 動物に芸を仕込むようなイメージか、白紙に文字を印刷していくイメージか、あるいは植物を育てるようなイメージか。
 「動物」と「白紙」のイメージは、教員からの強い働きかけを前提とするが、「植物」とみなす場合には、環境を整えることでその育ちを見守るような作用になるかもしれない。いくつかを組み合わせた指導も考えられる。
 ただ、いずれも右肩上がりの一次関数的な成長のイメージで、時間の経過と共に「できる」ことが多くなっていく作用として教育をとらえている。
 そして、出発点はいつも「ゼロ」である。
 しかし、そもそも「人間」である子どもをなぜ別のものにたとえなければならないのか、そのことのほうが深刻な問題である。
 「人間」だとすれば、「ゼロ」でないことはすぐにわかる。
 小学校入学時には6年間、さまざまな生活経験を経て生きてきているのだから。学びは生活と共にある。
 ところが、学校はそれらをリセットしてしまう。子どもは常に「できない」状態であると前提され、学校を経て「できる」ようになることが教育の成果として測られていく。しかも政策的には、そこに費用対効果という評価軸が導入される。
 ◆ 学びと生存権の切り離し

 多くの人が恐れているように、一定の学習内容を習得しないと社会生活に不利益が生じるのだとすれば、そのこと自体が社会的な大問題である。
 学ぶことは権利とし(自由なものとして)保障されている(憲法26条)はずなのだから、優秀な成績をとるような学び方をしないと、また、なるべく長く学校教育を受ける(高学歴となる)ような学び方をしないと生活に支障が出るなどということがあっていいはずはない。まさに学びに対する権利侵害である。自由に学べなくなってしまう。
 一方、日本国憲法の第25条で保障されている生存権は、一定の学力を身に付けないと確保できないのだろうか。
 ここで重要になるのは、憲法の25条と26条の切り離しであり、知識習得度が就職を左右するのだからすべての人に学習の機会が必要だ、という発想とは異なる権利論である。
 ◆ 値札としての学力

 ところで、「学力」は「求められる学力」として語られる。つまり、具体的な知識等の習得そのものではなく、他者からの要求にうまく応えることが「できる」かどうかの測定結果が学力だということになる。
 では、一体誰が「求めて」いるのか。結論を急げば、経済界である。
 就職活動で、自らに「付加価値を付ける」という言い方がそれを象徴しているように、企業等にいかに高く買ってもらうかが重要とされる。テストの点数や偏差値は、その子どもに付けられた「値札」である。
 このような教育観をOECD(経済協力開発機構)が後押ししている。
 教育政策は「投資」の発想で評価され、将来の「予測不可能な社会の到来」に備える教育改革が喧伝される(予測不可能と予測しているのだが)。
 「予測不可能」である限り、「何でもあり」となり、学習内容はその時々の経済状況(企業の都合、雇用情勢)に左右されながらどんどん増殖していく。
 学校が「人材養成」機関として有効に機能するかどうかが重視され、その中で子どもたちは競争を強いられる
 しかし、少しでも「できる」ようになるためにと、たとえば「障害児」を特別支援学校・学級に入れ、以前より計算が「できる」ようになったとしても、大きな「できる・できない」の軸で見れば、相変わらず「できない」と言われ続けるだろう。
 この評価軸は伸縮自在で、「健常児」についても事情は同じ。仮に100点をとっても、その軸がグッと(できる側に)伸ばされ、現状が「できない」位置とされていく。
 子どもは常に「成長」し続けなければならない。内容そのものよりも、その評価軸に乗って「努力」し、期待される一定の成果を出すことに価値が置かれている。
 なお、この「できる・できない」という評価軸自体がある子どもたちを「障害児」と呼ばせている。にもかかわらず、自ら進んでそれに乗ってしまう(乗らざるを得ない)状況が用意されている。
 したがって、永遠にその子は「障害児」と呼ばれ続ける。こうして、「障害児」がつくられていく。みんなこの罠にはまってしまう。
 ◆ 「自立」概念の問い直し

 私たちは「呪い」によって冷静な判断ができなくなっている。「自立」についてもそのひとつである。
 新自由主義による自己責任論とも重なり、人に頼らず自分のカで問題を解決していくことが「自立」の姿だと思い込んでいる。
 しかし、そんな人はどこにもいない。人はバラバラに生きているわけではなく、補い合っている。たくさんの人的ネットワークの中で生きていればこそ、たくさんのことが「できる」。
 いろいろなことを知り、できることが「自立」なのだとすれば、「自立」しているかどうかは、その入がいかに多くの「依存(依頼)」先をもっているかどうかにかかっている。
 つまり、より多くの関係性の中で生きていくことが「自立」した生き方であるということになる。
 「自立」とは、依存(依頼)先をたくさんもつことである。
 学びの場を分け、子どもたちを分断することは、このような関係の構築を困難にさせる残酷な政策となる。
 このような意味での「自立」は、「多様性」や「個性」の尊重を必要とする。しかし、学校は、表面上はそれを標榜しながらも、実態としては逆を向いている。
 たとえば、走るのが早い子もいれば遅い子もいることは承認されても、なぜか、分数の計算のできる子もいればできない子もいるよね、ほんとにいろいろだよね、ということにはならない。
 一見すると、多様性の尊重に思えても、それは、同じ到達目標への道筋の違いである場合が多い。同じ山を登る登り方の違いであって、別の山は登らせてくれず、また、そもそもなんで登らなくてはならないのかは問われない。
 ◆ おわりに

 学びを保障するはずの学校で、どうしてこんなに学びが窮屈になるのか。本来なら、学ぶ者の声を聴かずに学びは保障できない。しかし、学校での学びは自分発信ではない。
 しかも、提示された内容を理解できなければ、さまざまな意味で「排除」されていく(この不安解消のために参考書を買い、塾に行く)。
 子どもは常に精神的に不安な状態に置かれている。子どもの権利条約を基盤として、学校に対する単純な疑問への封印を解く必要がある。
 まずは、人の行為に対して、学んでいるとかいないとか、そういう判断をしようとする「まなざし」から子どもたちを解放しなくてはならない。
 「評価」が子どもたちを追いつめていることは確かである。他者が認めるまで「がんばらねばならない」権力的暴力的環境を解体していく必要がある。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 141号』(2021.12)

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