《第4回「日の丸・君が代」問題等全国学習・交流集会から》
◆ 北九州の「日の丸・君が代」強制反対の状況
猛暑と猛る政治状況の中、集会に参加されているみな様に敬意を表します。
20年余り前、全国から突出して早期に「君が代」強制・大量処分が始まった北九州では、14年に及んだココロ裁判終結後、どのような状況であるのかを問われましたので報告します。
【近年、処分はないが】
退職して4年余り経過しますが、私が把握する範囲では、「君が代」に関してはほとんど動きがありません。すなわち、教委と管理職側は処分を出さない方針に徹し、斉唱時における不起立の可能性を予め排除(1、6年生の担任はずす。式の仕事分担は会場の外。など)、一方、現場の教職員の側は、ノー・マークの人の不起立は皆無といったところです。
処分が無いといっても、教委の「4点指導」はあいかわらず踏襲されており、強制があるという問題は何も変わってはいません。
【市教委に申し入れ】
毎年、卒業式が近くなると、市民と「北九州がっこうユニオン・うい」が一緒に北九州市教委に出向き、卒業式・入学式で「君が代・日の丸」の強制をするなという申し入れをしています。(昨年までは、「ココロ裁判原告団」名での申し入れでしたが、原告団は解散したので今年からは「北九州市民運動連絡会議」としている。)
申し入れは、毎年同じような内容になり、市教委の答弁も四半世紀の間「指導要領に則って」と繰り返すばかりで、膠着状態といったところです。これといって打開策も見出せず申し入れ行動を続けていますが、それでも、市教委を監視し続ける意味はあり、また、申し入れ後に方々にその報告をするなどして、最高裁判決以後は少なくなった、「君が代」強制問題についての情報発信の機会としています。
市教委の答弁自体には基本的に変わりがなくても、市職員は数年で担当が入れ替わっていくので、こちら側には市教委側から滲み出す変化が読み取れます。
以下は今年3月4日の申し入れ行動の事後報告です。「うい」のニュースレターNo.102より転載。(執筆者は藤堂均)
◎ 今年も市教委に申入れ
・・・・・・・指導部の課長、「国のために教育」と発言
申入れに参加してくださった皆さん、ありがとうございました。
今年の申し入れのハイライトはなんと言っても市教委側代表で指導部の教育課程担当・河村課長の、「私は公務員で全体の奉仕者。子どもたちに、国のために教育をする。」という発言である。子どもたちのための教育ではなく、お国のための教育だというのだから、これでは全体の奉仕者ではなく全体主義の奉仕者である。
管理職試験の面接で教育の目的を問われたら、教育基本法丸写しで「人格の完成」などと答えるよりも「国のため」と答えるほうがウケがいいのかもしれない。
宮城県の災害廃棄物を北九州市が焼却していることについて話が及んだ時、こちらが「国策だろう」というと、河村さんは「市民の代表である市議会が満場一致で決まった市民の総意である」と言う。
市議会の総意と市民の総意は違う。「市民の代表」である市長が、もし反対していたら総意というのはどうなったんでしょうね。実際、市長が本焼却の決定をする前に、市教委は学校を通じて、焼却を正当化するビラを子どもたちに渡して各家庭に持ち帰らせているのだ。そして、その後「がれきを燃やしても、健康や環境への影響はありません」という嘘っぱちビラを子どもたちにばらまいている。
ガレキ焼却のことになると妙にムキになっていると、参加した皆さんは思ったかもしれないが、実はこれらのビラ配布の市教委の担当者が河村さんなのである。国策のための学童動員担当者というわけである。
「日の丸・君が代」はこれまで言われてきた、天皇制の問題とか、侵略・植民地支配のシンボルであるとか、強制は思想信条の自由を侵害するとかといった問題だけではない。
今日只今も国策として進められた原発の事故によって故郷を奪われ、健康を侵害されている人がいる。国の過ちを糾そうとするものがどうして「国旗・国歌」とされるものを尊重できようか。
「日の丸・君が代」は過去の問題ではなく、すぐれて今日的な問題なのである。また「日の丸・君が代」の強制そのものが、過った国策なのである。
「国のため」発言は、「市民の総意」と言う言葉で簡単に少数を切り捨てる姿勢とともに、これまで常に国策のお先棒を担いできた北九州の教育行政の正体を露骨に表わしていると言って過言ではない。
◆ 北九州の「日の丸・君が代」強制反対の状況
牟田口カオル (元「ココロ裁判」原告)
猛暑と猛る政治状況の中、集会に参加されているみな様に敬意を表します。
20年余り前、全国から突出して早期に「君が代」強制・大量処分が始まった北九州では、14年に及んだココロ裁判終結後、どのような状況であるのかを問われましたので報告します。
【近年、処分はないが】
退職して4年余り経過しますが、私が把握する範囲では、「君が代」に関してはほとんど動きがありません。すなわち、教委と管理職側は処分を出さない方針に徹し、斉唱時における不起立の可能性を予め排除(1、6年生の担任はずす。式の仕事分担は会場の外。など)、一方、現場の教職員の側は、ノー・マークの人の不起立は皆無といったところです。
処分が無いといっても、教委の「4点指導」はあいかわらず踏襲されており、強制があるという問題は何も変わってはいません。
【市教委に申し入れ】
毎年、卒業式が近くなると、市民と「北九州がっこうユニオン・うい」が一緒に北九州市教委に出向き、卒業式・入学式で「君が代・日の丸」の強制をするなという申し入れをしています。(昨年までは、「ココロ裁判原告団」名での申し入れでしたが、原告団は解散したので今年からは「北九州市民運動連絡会議」としている。)
申し入れは、毎年同じような内容になり、市教委の答弁も四半世紀の間「指導要領に則って」と繰り返すばかりで、膠着状態といったところです。これといって打開策も見出せず申し入れ行動を続けていますが、それでも、市教委を監視し続ける意味はあり、また、申し入れ後に方々にその報告をするなどして、最高裁判決以後は少なくなった、「君が代」強制問題についての情報発信の機会としています。
市教委の答弁自体には基本的に変わりがなくても、市職員は数年で担当が入れ替わっていくので、こちら側には市教委側から滲み出す変化が読み取れます。
以下は今年3月4日の申し入れ行動の事後報告です。「うい」のニュースレターNo.102より転載。(執筆者は藤堂均)
◎ 今年も市教委に申入れ
・・・・・・・指導部の課長、「国のために教育」と発言
藤堂 均
3月4日、今年も北九州市教委に対し、卒業式・入学式で「日の丸・君が代」の強制をするなという申し入れをした。申入れに参加してくださった皆さん、ありがとうございました。
今年の申し入れのハイライトはなんと言っても市教委側代表で指導部の教育課程担当・河村課長の、「私は公務員で全体の奉仕者。子どもたちに、国のために教育をする。」という発言である。子どもたちのための教育ではなく、お国のための教育だというのだから、これでは全体の奉仕者ではなく全体主義の奉仕者である。
管理職試験の面接で教育の目的を問われたら、教育基本法丸写しで「人格の完成」などと答えるよりも「国のため」と答えるほうがウケがいいのかもしれない。
宮城県の災害廃棄物を北九州市が焼却していることについて話が及んだ時、こちらが「国策だろう」というと、河村さんは「市民の代表である市議会が満場一致で決まった市民の総意である」と言う。
市議会の総意と市民の総意は違う。「市民の代表」である市長が、もし反対していたら総意というのはどうなったんでしょうね。実際、市長が本焼却の決定をする前に、市教委は学校を通じて、焼却を正当化するビラを子どもたちに渡して各家庭に持ち帰らせているのだ。そして、その後「がれきを燃やしても、健康や環境への影響はありません」という嘘っぱちビラを子どもたちにばらまいている。
ガレキ焼却のことになると妙にムキになっていると、参加した皆さんは思ったかもしれないが、実はこれらのビラ配布の市教委の担当者が河村さんなのである。国策のための学童動員担当者というわけである。
「日の丸・君が代」はこれまで言われてきた、天皇制の問題とか、侵略・植民地支配のシンボルであるとか、強制は思想信条の自由を侵害するとかといった問題だけではない。
今日只今も国策として進められた原発の事故によって故郷を奪われ、健康を侵害されている人がいる。国の過ちを糾そうとするものがどうして「国旗・国歌」とされるものを尊重できようか。
「日の丸・君が代」は過去の問題ではなく、すぐれて今日的な問題なのである。また「日の丸・君が代」の強制そのものが、過った国策なのである。
「国のため」発言は、「市民の総意」と言う言葉で簡単に少数を切り捨てる姿勢とともに、これまで常に国策のお先棒を担いできた北九州の教育行政の正体を露骨に表わしていると言って過言ではない。
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