=『週刊新社会』【沈思実行(193・194)】=
☆ 過労死や過労自殺は、企業名を社会化すべきだ。
鎌田 慧
トヨタ自動車で働いていて、過労死した労働者の妻が、初めて弁護士に会ったとき「どうして車を夜、作らなければならないのですか」と聞いた、という(「過労死」過労死弁護団全国連絡会議編)。
それを読んで、ふいを衝かれたように驚かされた。過労死された妻にしてみれば、当然の発言である。それを当たり前にしている「世間」が批判されている。昼に働いて、夜は寝るのが、普通の暮らしのはずなのだ。
実はわたしは出稼ぎ労働者の取材で、トヨタ自動車の本社工場で半年働き、旭硝子船橋工場で2カ月(ガラス粉末が多く、喘息発作でダウン)働いたことがある。
トヨタでも旭硝子でも、交代制の深夜労働は当たり前だった。旭硝子でのブラウ管製造のラインは、出稼ぎ労働者に任されていて、1時間45分働いて15分間の休憩、というシステムだった。
短時間でカネ稼ぎが魅力なので、18時間、24時間を連続して働く人は珍しくなかった。それもあってか、2カ月で3人が過労死。腰痛、寮の階段踏み外し、などで退職、故郷に帰った人たちがいた。わたし自身、状況の酷さを体験記として書いたが、交代制の深夜労働を疑った事はなかった。
鉄鋼や窯業、石油産業など、加熱による業種は連続生産が必要だ。
しかし、自動車の組み立てなどの交代制労働は、生産量を増やすためだけのものなのだ。それも深夜労働など、人間的な体内時計を無視し、人間の精神と肉体にいいわけがない。
近所に住む知人の長男(当時43歳)が夜になっても自宅に帰らず、翌朝、会社で死亡しているのが発見された。長時間労働とパワハラによる異常事態だったが、労基署が取り合わなかった。それで過労死弁護団連絡会議を組織し、全国の過労死と取り組んでこられた、川人弁護士に紹介した。その活躍によって労災認定をかちとった。
大量殺人は戦争ばかりではない。経済戦争の犠牲者としての過労死、職業病患者は一向に減らない。
人間のいのちと健康を奪う非人間的生産を規制するのは、裁判ばかりか、労働運動の役割だ。
☆ たいがい労災は、会社側の経費削減や労働過重の利益至上主義の犠牲である
労働災害や職業病、さらには過労死など、おカネを稼ぐために働いていのちを落としたり、心身を破壊されたりするほど、無念なことはない。
塀の外に発生する公害もそうだが、それらは経営者が安全対策費を惜しみ、労働者の健康といのちとを大切に考えていなかったからだ。労働者や市民の基本的人権を尊重して、対策を講じていたなら、発生することのない被害者なのだ。
学生のとき、アルバイトで働いていた夜、スクーターで転倒、救急車で運ばれ、2カ月ほど入院したことがある。自分では運転ミスと思っていた。
が、入院してまもなく、病室に警察官がやってきて、道路事情を聞かれた。でも自損事故だと思い込んでいたし、転倒は恥ずかしことだったので、余り考えたくなかった。道路には問題がなかった、と答えていた。警察はあまり好きでなかったのが影響した。
しかし、その後、昼間は道路工事中だったので、その後始末に問題があったのでは、と気がついた。それでも自主経営でつくられた職場だったので、労災保険に加入し、入院費などは支給されて助かった。休業手当ももらった記憶がある。
「生活のために働き、生活するために死ぬ」。たいがい労災は、会社側の経費削減や労働過重の疲労による。過労自殺などは、パワハラもふくめて企業側の支配強化による。利益至上主義の犠牲である。人権を尊重する、穏やかな、人間主義的な企業なら、職業病や過労死、過労自殺など起こりうるはずがない。
90年代に『家族が自殺に追い込まれるとき』(講談社〉という本を出した。このとき、川人博弁護士などの過労死、過労自殺110番運動がはじまっていた。
労災、職業病、過労死、そして公害。人間のいのちと健康を抑圧して利益を増すのは犯罪だ。これら基本的人権の擁護に取り組まない労働組合は、労働組合の自己否定である。
不当労働行為は、恥ずべき行為として企業名が公表される。それと同じように、緩慢なる殺人行為としての過労死や過労自殺は、企業名を社会化すべきだ。
『週刊新社会』(2024年5月8日・15日)
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