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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

石原流の"教育"は、はじめに差別があり、戦争があった

2013年01月08日 | 暴走する都教委
 ◆ 前石原都政の教育改革を斬る
斎藤貴男 ジャーナリスト

 「中国との戦争も辞さない」と、石原慎太郎・前東京都知事は嘯いたそうである。
 尖閣諸島を東京都が購入するとの計画をめぐり、さる8月に野田佳彦首相と会談した際の発言だと、前原誠司・国家戦略担当相が10月のテレビ番組で明らかにした。野田首相もさぞ慌てたことだろう。
 こんな奴に任せておくわけにはいかないと、十分な根回しもなく国有化を打ち出して、およそ馬鹿馬鹿しい騒動へと発展してしまったのは周知の通り。
 もっとも前原氏は件の会談に同席していたわけではなかった。「居合わせた人に聞いた話」とのことだが、仮にも政権の中枢にいる人が、こんな形で嘘をつくとも考えにくい。実際、尖閣絡みで中国と戦争だというのは、かねて石原氏の持論だった
 2005年の5月にも、英紙『タイムズ』の取材にそう語ったことがある。北京五輪を3年後に控えて、中国の存在感がとみに増していた時期だった。
 同じ年の新年に発行された週刊誌での妄言も紹介しておきたい。
 近頃の若者に元気がないのはなぜかという話題で、「60年間戦争がなかったからですよ。戦争がないのは有り難いことだけど、つまり国や社会全体が緊張した瞬間が一度もなかった。オリンピックで勝ちたいとか勝たせたいと期待したことはあるけれど、そんなものは知れている。国全体が緊張したことは全くない。乱暴な言い方になるが、『勝つ高揚感』を一番感じるのは、スポーツなどではなく戦争だ」(「石原慎太郎『中国に勝つ日本』」『週刊ポスト』2005年1月14・21日合併号)。
 都知事職を自ら辞し、再び国政に名乗り出た後も、やたら好戦的な発言は止まない。
 11月には日本外国特派員協会で講演し、またしても対中国の文脈で、核兵器開発の研究が必要だと言い出した。
 私は『東京を弄んだ男「空疎な小皇帝」石原慎太郎』(講談社文庫)の著者である。
 本人には最後までインタビューに応じてもらえなかったが、周辺の取材や調査を通して、彼の発想なり考え方は、それなりに承知しているつもりだ。
 敢えて書く。齢80歳を迎えてこの人は、今、本気で戦争を人生の花道にしたいと夢想しているのではないか。週刊誌やネットの情報によれば、尖閣周辺の局地戦であれば、中国軍より自衛隊の方が強いのだという。だから、それで勝って満足しながら死んでいく。後々どうなるのかなんてことは、俺の知ったことではない-と。
 問題は、過去13年間における東京の教育が、そのような人間の思いのままに進められてきてしまったという、ミもフタもない現実である。もちろんすべての面で大問題なのだが、ここでは教育に絞ることにする。
 彼にとって他人の子どもの“教育”とは、支配のための調教でしかない
 卒業式や入学式での日の丸掲揚・君が代斉唱の強制については、今さら繰り返すまでもないだろう。抵抗した教職員は処分され、思想研修への受講を強いられる。
 最近では都立高校改革の一環で、独自の「生活指導統一基準」(都立高校生ルール)の作成を打ち出した。
 「あるべき日本人像を描く」として設置した「教育再生・東京円卓会議」の4月の会合では、「(現在は教育勅語のような)刷り込みの量がちょっと日本は足りない」「高3を卒業した年代で、韓国じゃないけれども、2年間はやっぱり兵役、消防、警察、最低限、海外協力隊みたいなところで組織的な奉仕運動の体験をさせたらいいと思うんですね」徴兵はさすがに東京だけでは無理なので、「政府がその気になってやってもらいたい」と述べている。
 石原氏は調教のためなら何でも利用する。3・11東日本大震災を「天罰だ」と言い、この機に「津波で我欲を洗い流せ」と吐いた男の主導で、東京都は複数の都立高校の生徒に自衛隊や消防庁で宿泊訓練を行わせた。
 防災訓練と言いながら、これもまた東京独自の道徳教育なのだという。迷彩服姿の自衛官が講和を行う場面も見られた。
 都立高校改革は、初期の段階では道徳よりも学校間の序列化に重点が置かれていた。
 偏差値の高い学校を中高一貫化し、それらを頂点とする進学指導重点校に予算を優先配分。一方では授業時間を短縮して中退者が出ないようにする「エンカレッジスクール」を設定するなどした。
 後者にはやり方次第で高校でのやり直しを促し得る可能性も伴うが、都教委での審議の過程では、はたして石原氏に近い委員から、「落ちこぼれの学校」などという侮蔑語が発せられていた。具体例を挙げ始めたらきりがない。
 どれも基本的には国が進めているのと同様の新自由主義と、これと表裏一体の関係にある新保守主義(ネオコン)に貫かれた施策だが、そこに石原氏らしい“個性”が加わって、“教育”はより暴力的かつ差別的な構造を露わにしていく。
 特別支援教育では、軽度の障害のある子を対象とする学校に手厚くしつつ、重度の障害の子のための学校の閉校や縮小が急がれた。進学や就職への道が開けた子が少なくないのも確かだが、子どもの居場所を奪われて泣いていた母親たちの姿が、私には忘れられない。
 個人的な私憤も少しだけ書いておきたい。
 私は小学校3年の頃、千葉県の内房海岸にあった「東京都豊島区立竹岡養護学園」(現在は健康学園)に寄宿していた。その頃は東京23区のうち20区の教委が、喘息や体の弱い子どものために房総や伊豆半島で運営していた全寮制の小学校(各区内の小学校の分校という体裁になっている)のひとつで、お陰で丈夫になり、こうして生きていられる。だから公教育には心の底から感謝してきた。
 しかし、石原都政が誕生して以来、健康学園のほとんどが潰された。なんとか存続を、と陳情に出向いた保護者たちに、「お宅らの子にはひとりアタマ1000万円ずつ、余計なカネがかかっているんだよ!」と暴言を吐きかけた区教委もあった。
 ただし私の豊島区と、中央区の健康学園だけは潰されずに残っている。他の健康学園が美濃部亮吉都政の児童福祉政策だったのに対して、この2つだけは1933(昭和8)年に今の天皇が生まれた時の記念事業として建設された。石原氏の息のかかった区議会議員らも迂闊に手を出せないのだ。
 本当に必要がなくなったのなら無差別に潰してしまえばよいものを、他人の子どもの命と健康を否定する場合でも、己の保身だけは怠らない、ゲス野郎どもの本性がよくわかる。
 改めて指摘するまでもないが、石原氏は以上のような“教育”政策を実行する際、自分自身や自分の家族の素行はすべて棚に上げてきた
 3選目の直前、血税を乱費した過剰な飲み食いや豪華ファミリー旅行、さらには画家を自称する無職の息子のために都が仕事まで作ってやった公私混同ぶりが表沙汰になった一幕が記憶に生々しい。まさに「我欲」の塊こそが石原という人なのである。
 まともな時代であれば、石原氏のような人物の“教育”論など、誰からも相手にされないはずである。事実、彼は都知事になる前の国会議員時代、自民党内でも完全に浮いていた
 浜田幸一、中山正暉らとともに結成したタカ派集団「青嵐会」で、石原氏はあくまで台湾を支持し続けるとした仲間との誓いをあっさり破り、日中平和友好条約が採択された衆議院外交委員会で、賛成に立った
 「慎太郎君は私の前の席にいて、振り向きざま『正暉さん、日中に賛成するのは今しかないよ』と言い放ち、すっくと起立したんです」。他ならぬ中山氏に私が直接聞いた話だ。石原氏とは卑劣と無責任に服を着せたものである-私はそう評したことがありますと話したら、中山氏は「まったく同感」だと笑った。
 石原都知事以前の東京の教育が完壁であったわけではない。保守派による批判の何もかもが的外れだったとも言えないだろう。だが石原流の“教育”は、そういう問題とは次元を異にしている。はじめに差別があり、戦争があった
 ともかくも彼は都庁を去ってくれた。本稿の締め切りは総選挙の投開票より前であり、国全体の新自由主義と新保守主義の勢力がより肥大化する恐れも大きいが、それはそれ。
 石原氏のための臣民教育になり果てかけていた東京の教育を、今度こそ、1人ひとりの自由と平和のために取り戻そう。奪われ続けた13年間を検証すれば、ではどうすればよいのかは、おのずから明らかだ。(さいとうたかお)
「子どもと教科書全国ネット21ニュース」87号(2012.12)

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