《河原井・根津06停職処分取消訴訟》
★ 君が代不起立 二審判決見直しも
卒業式などで日の丸に向かって起立し君が代を斉唱する職務命令に従わず、停職処分を受けた東京都立の特別支援学校の元教諭ら二人が処分取り消しなどを求めた訴訟の上告審で、最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)は、弁論期日を十一月二十八日に指定した。
最高裁は二審判決を見直す場合、弁論を開くのが通例。訴訟では命令違反に対する処分の妥当性が争点となっている。処分を適法とした二審判決が見直される可能性があり、最高裁としての初の判断が示される見通し。
起立斉唱命令をめぐっては、最高裁は五月以降、違憲性が争われた別の訴訟で相次いで合憲判断している。
一、二審判決は、いずれも処分は適法と判断したが、二審東京高裁は「(処分を)適切で合理的と評価したのではない。処分権者に許される裁量の上限だ」と付言した。
同高裁は三月に同様の訴訟で「懲戒処分は著しく妥当性を欠く」として、都立高教員ら百六十七人に対する処分の取り消しを命じている。
『東京新聞』(2011年9月17日 朝刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011091702000022.html
※参考【金築裁判官の補足意見とは】平成23年6月6日(嘱託採用拒否撤回裁判)
裁判官金築誠志の補足意見は,次のとおりである。
多数意見に賛成する立場から,若干の意見を付加しておきたい。
1 本件において,まず問題になるのは,思想及び良心の自由を侵害する強制があったというためには,一般的,客観的に侵害と評価される行為の強制でなければならないか,それとも,本人の主観において,思想・良心と行為との関連性があり,強制されることに精神的苦痛を感じる揚合であれば足りるかという点である。
一般的,客観的には,特定の思想,信条等を否定するものとは認められない言動が,一部の人にとっては,その思想,経験等から,本人らの思想等の否定を意味したり,精神的苦痛を与える行為となることは,間々あるが,思想,信条等は,人によって様々であり,それに対してどのような外部的行動が否定的意味を持ち,その人に対し精神的苦痛を与えるかも,人によって違いがあり得るから,仮にこれらの点に関する決定を当該思想等の保有者の主観的判断に委ねるとすれば,そうした主観的判断に基づいて,社会的に必要とされる多くの行為が思想及び良心の自由を侵害するものとして制限を受けたり,他の者の表現の自由を著しく制限することになりかねない。こうした事態は,法の客観性を阻害するものというべきであろう。
したがって,内心の思想・良心と外部的行動との関連性,すなわち,特定の外部的行動を強制することがその人の内心の思想・良心の表明を強いたり,否定したりすることになるかどうかについては,当該外部的行動が一般的,客観的に意味するところに従って判断すべきであると考える。権利の「侵害」があるかどうかを判断する場合に,こうした一般的,客観的評価に従うという考え方は,法的判断としては,通常のことであると思われる。
所論は,本人の内心において,「真摯な」関連性があれば足りる旨主張するが,この見解は,本人の主観的判断に委ねてしまうという問題点を,少しも解決していないといわざるを得ない。また,所論は,一般性,客観性を要求することは,少数者の思想・信条を保護しないことになるとも主張するが,ここでの問題は,どのような行為の強制を「侵害」と考えるかの問題であって,どのような思想・信条を保護するかの問題ではない。
2 職務命令をもって起立斉唱を命ずることは,一般的,客観的見地から,上告人らの歴史観,世界観等に関わる思想及び良心の自由を侵害するものではないが,起立斉唱行為が,国旗・国歌に対する敬意の表明という要素を含んでおり,その限りにおいて,本件各職務命令が,上告人らの思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面を有すること,しかし,起立斉唱行為の性質,本件各職務命令の目的,内容,制約の態様等を総合的に較量すれば,その制約を許容し得る程度の必要性,合理性が認められることは,多数意見の判示するとおりである。
ここで,私が,念のため強調しておきたいのは,上告人らは,教職員であって,法令やそれに基づく職務命令に従って学校行事を含む教育活動に従事する義務を負っている者であることが,こうした制約を正当化し得る重要な要素になっているという点である。この点で,児童・生徒に対し,不利益処分の制裁をもって起立斉唱行為を強制する場合とは,憲法上の評価において,基本的に異なると考えられる。
もっとも,教職員に対する職務命令に起因する対立であっても,これが教育環境の悪化を招くなどした場合には,児童・生徒も影響を受けざるを得ないであろう。そうした観点からも,全ての教育関係者の慎重かつ賢明な配慮が必要とされることはいうまでもない。
★ 君が代不起立 二審判決見直しも
卒業式などで日の丸に向かって起立し君が代を斉唱する職務命令に従わず、停職処分を受けた東京都立の特別支援学校の元教諭ら二人が処分取り消しなどを求めた訴訟の上告審で、最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)は、弁論期日を十一月二十八日に指定した。
最高裁は二審判決を見直す場合、弁論を開くのが通例。訴訟では命令違反に対する処分の妥当性が争点となっている。処分を適法とした二審判決が見直される可能性があり、最高裁としての初の判断が示される見通し。
起立斉唱命令をめぐっては、最高裁は五月以降、違憲性が争われた別の訴訟で相次いで合憲判断している。
一、二審判決は、いずれも処分は適法と判断したが、二審東京高裁は「(処分を)適切で合理的と評価したのではない。処分権者に許される裁量の上限だ」と付言した。
同高裁は三月に同様の訴訟で「懲戒処分は著しく妥当性を欠く」として、都立高教員ら百六十七人に対する処分の取り消しを命じている。
『東京新聞』(2011年9月17日 朝刊)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011091702000022.html
※参考【金築裁判官の補足意見とは】平成23年6月6日(嘱託採用拒否撤回裁判)
裁判官金築誠志の補足意見は,次のとおりである。
多数意見に賛成する立場から,若干の意見を付加しておきたい。
1 本件において,まず問題になるのは,思想及び良心の自由を侵害する強制があったというためには,一般的,客観的に侵害と評価される行為の強制でなければならないか,それとも,本人の主観において,思想・良心と行為との関連性があり,強制されることに精神的苦痛を感じる揚合であれば足りるかという点である。
一般的,客観的には,特定の思想,信条等を否定するものとは認められない言動が,一部の人にとっては,その思想,経験等から,本人らの思想等の否定を意味したり,精神的苦痛を与える行為となることは,間々あるが,思想,信条等は,人によって様々であり,それに対してどのような外部的行動が否定的意味を持ち,その人に対し精神的苦痛を与えるかも,人によって違いがあり得るから,仮にこれらの点に関する決定を当該思想等の保有者の主観的判断に委ねるとすれば,そうした主観的判断に基づいて,社会的に必要とされる多くの行為が思想及び良心の自由を侵害するものとして制限を受けたり,他の者の表現の自由を著しく制限することになりかねない。こうした事態は,法の客観性を阻害するものというべきであろう。
したがって,内心の思想・良心と外部的行動との関連性,すなわち,特定の外部的行動を強制することがその人の内心の思想・良心の表明を強いたり,否定したりすることになるかどうかについては,当該外部的行動が一般的,客観的に意味するところに従って判断すべきであると考える。権利の「侵害」があるかどうかを判断する場合に,こうした一般的,客観的評価に従うという考え方は,法的判断としては,通常のことであると思われる。
所論は,本人の内心において,「真摯な」関連性があれば足りる旨主張するが,この見解は,本人の主観的判断に委ねてしまうという問題点を,少しも解決していないといわざるを得ない。また,所論は,一般性,客観性を要求することは,少数者の思想・信条を保護しないことになるとも主張するが,ここでの問題は,どのような行為の強制を「侵害」と考えるかの問題であって,どのような思想・信条を保護するかの問題ではない。
2 職務命令をもって起立斉唱を命ずることは,一般的,客観的見地から,上告人らの歴史観,世界観等に関わる思想及び良心の自由を侵害するものではないが,起立斉唱行為が,国旗・国歌に対する敬意の表明という要素を含んでおり,その限りにおいて,本件各職務命令が,上告人らの思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面を有すること,しかし,起立斉唱行為の性質,本件各職務命令の目的,内容,制約の態様等を総合的に較量すれば,その制約を許容し得る程度の必要性,合理性が認められることは,多数意見の判示するとおりである。
ここで,私が,念のため強調しておきたいのは,上告人らは,教職員であって,法令やそれに基づく職務命令に従って学校行事を含む教育活動に従事する義務を負っている者であることが,こうした制約を正当化し得る重要な要素になっているという点である。この点で,児童・生徒に対し,不利益処分の制裁をもって起立斉唱行為を強制する場合とは,憲法上の評価において,基本的に異なると考えられる。
もっとも,教職員に対する職務命令に起因する対立であっても,これが教育環境の悪化を招くなどした場合には,児童・生徒も影響を受けざるを得ないであろう。そうした観点からも,全ての教育関係者の慎重かつ賢明な配慮が必要とされることはいうまでもない。
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