東京「君が代」裁判4次訴訟控訴審 2月7日(水)10時開廷 824号法廷
◆ 東京「君が代」裁判4次訴訟控訴審に向けて
~原判決をどう乗り越えるのか (被処分者の会通信から)
東京「君が代」裁判4次訴訟東京地裁判決には,大きく二つの問題点があります。
一つは,原判決は,「本件職務命令等は,国旗・国歌について一層正しい認識を持たせ,それらを尊重する態度を育てることを目的とした,国旗・国歌条項の趣旨を実現することに沿うものであって,必要かつ相当な範囲内の都教委及び校長の権限行使である」(原判決93頁等)と判示するなど,客観的事実経過に反する偏った事実認定をしていることです。
二つ目は,卒業式の目的について「学校行事の中でもとりわけ卒業式等は,学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛かつ清新な雰囲気の中で,新しい生活の展開への動機づけを行い,学校,社会,国家などの集団への所属感を深めるうえでよい機会となるもの」としたうえで,国歌の起立斉唱命令が「一般的,客観的見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるもの」として憲法違反ではないとしていることです。
このような原判決の問題点を控訴審でどう乗り越えるか。
まず,事実認定については,10・23通達発出の目的が学習指導要領の適正実施などではなく,国旗国歌を利用した愛国心の注入方法となっていること,2003年10月に卒業式の適正実施のための通達を発出する必要性などなかったことをあらためて,書証を示しながら繰り返し主張していくほかないと考えています。
そのために控訴理由書の3分の1を超える紙面を費やして丁寧に論じてきました。
次に,憲法論ですが,これまでの最高裁の論理の弱点は,根拠を示すことなく「卒業式等における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」としたところにあると思います。
仮に学習指導要領で示されている卒業式等の目的が正当であったとしても,卒業式等で行われる「国歌斉唱」が直ちに儀礼的所作となるものではないはずです。
そこで,現在,行われている卒業式等での「国歌斉唱」に政治的,宗教的意味が残存していることを明らかにすることを通じて最高裁の論理を乗り越えられるのではないかと思います。
そのために島薗進先生に意見書を取りまとめていただきました。
意見書では,国家神道体制の下での学校行事として儀式的行事が利用され,宗教や特定のイデオロギーを含む一定の考え方を注入する道具立てとして利用されてきたこと,そして,学校行事における日の丸君が代の用いられ方は戦前と断絶しているものではなく,現在でも戦前の学校行事と同様の日の丸君が代の画一的な取り扱いをすることによって個々人の思想良心の自由を脅かすものと捉えるべきことが明らかにされています。
控訴審では,この島薗意見書を武器に,国歌の起立斉唱行為は,あらためて「儀礼的所作」にとどまるものではなく,なお思想良心の自由と緊張関係をもたらすものであることを明らかにして最高裁が示した憲法19条論を乗り越えようと考えています。
また,「儀礼的所作」として片づけられない問題であることを明らかにすることを通じて,最高裁がいまだ判断を示していない教師の教育の自由の問題についても,教職員に対する国歌の起立斉唱の強制が,特定の意見のみを教授することであって「教育の自由」を侵害するものであることを明らかにできればと考えています。
『被処分者の会通信 115号』(2018/1/23)
◆ 東京「君が代」裁判4次訴訟控訴審に向けて
~原判決をどう乗り越えるのか (被処分者の会通信から)
平松真二郎
東京「君が代」裁判4次訴訟東京地裁判決には,大きく二つの問題点があります。
一つは,原判決は,「本件職務命令等は,国旗・国歌について一層正しい認識を持たせ,それらを尊重する態度を育てることを目的とした,国旗・国歌条項の趣旨を実現することに沿うものであって,必要かつ相当な範囲内の都教委及び校長の権限行使である」(原判決93頁等)と判示するなど,客観的事実経過に反する偏った事実認定をしていることです。
二つ目は,卒業式の目的について「学校行事の中でもとりわけ卒業式等は,学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛かつ清新な雰囲気の中で,新しい生活の展開への動機づけを行い,学校,社会,国家などの集団への所属感を深めるうえでよい機会となるもの」としたうえで,国歌の起立斉唱命令が「一般的,客観的見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるもの」として憲法違反ではないとしていることです。
このような原判決の問題点を控訴審でどう乗り越えるか。
まず,事実認定については,10・23通達発出の目的が学習指導要領の適正実施などではなく,国旗国歌を利用した愛国心の注入方法となっていること,2003年10月に卒業式の適正実施のための通達を発出する必要性などなかったことをあらためて,書証を示しながら繰り返し主張していくほかないと考えています。
そのために控訴理由書の3分の1を超える紙面を費やして丁寧に論じてきました。
次に,憲法論ですが,これまでの最高裁の論理の弱点は,根拠を示すことなく「卒業式等における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的所作としての性質を有する」としたところにあると思います。
仮に学習指導要領で示されている卒業式等の目的が正当であったとしても,卒業式等で行われる「国歌斉唱」が直ちに儀礼的所作となるものではないはずです。
そこで,現在,行われている卒業式等での「国歌斉唱」に政治的,宗教的意味が残存していることを明らかにすることを通じて最高裁の論理を乗り越えられるのではないかと思います。
そのために島薗進先生に意見書を取りまとめていただきました。
意見書では,国家神道体制の下での学校行事として儀式的行事が利用され,宗教や特定のイデオロギーを含む一定の考え方を注入する道具立てとして利用されてきたこと,そして,学校行事における日の丸君が代の用いられ方は戦前と断絶しているものではなく,現在でも戦前の学校行事と同様の日の丸君が代の画一的な取り扱いをすることによって個々人の思想良心の自由を脅かすものと捉えるべきことが明らかにされています。
控訴審では,この島薗意見書を武器に,国歌の起立斉唱行為は,あらためて「儀礼的所作」にとどまるものではなく,なお思想良心の自由と緊張関係をもたらすものであることを明らかにして最高裁が示した憲法19条論を乗り越えようと考えています。
また,「儀礼的所作」として片づけられない問題であることを明らかにすることを通じて,最高裁がいまだ判断を示していない教師の教育の自由の問題についても,教職員に対する国歌の起立斉唱の強制が,特定の意見のみを教授することであって「教育の自由」を侵害するものであることを明らかにできればと考えています。
『被処分者の会通信 115号』(2018/1/23)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます