☆ 土肥裁判 3月24日(木)9時50分~ 東京地裁527法廷
午前:増田氏(面接官)、古川氏(都立学校教育部課長)
午後:田中氏(人事部職員課長)、園田氏(選考課長)
◎ 土肥信雄著「それは、密告からはじまった」(七つ森書館)に思う(1)
1.「土肥裁判」と日本の司法の問題点
日本の司法が、日本の民主主義の柱である三権分立の一翼を担う独立機関として機能しているのかと疑問を持つ。日本の裁判官の実態はほとんど明らかになっていない。
憲法は国民が時の政府に向って発する命令である。法律は時の政府が国民に向かってする命令である。政府の法律が憲法に合致しているかどうかを最高裁判所は国民に代わってチェックするのが本来の仕事である。最高裁判所の裁判官たちは、政府が作る法律が、それは憲法の下位概念ですから、国民に代わって憲法に合致しているかどうかを国民に代わって審査するのが本来の仕事である。
ドイツでは、違憲判決は500件以上出されている。しかし、違憲審査は日本に無きに等しい。10件しかない。行政府の暴走を審査しチェックする気概は裁判官にない。そうすることを全く怠ってきた。
最高裁判所が一番関心のあるのは人事だ。最高裁事務局を頂点にして司法官僚の給与と昇進、転勤人事など雁字搦めにして、事務局の意向に反する判決は出せないようにしている。「ヒラメ裁判官」しか生き残れない。
「判事補・裁判官の人用と再任用、転勤、昇任、報酬、部総括指名、人事評価などは、実質的に最高裁事務局の司法官僚の手に握られている。そしてまた、選任の基準は全く不明のままだが、判事補段階に於いて司法官僚のエリート候補生の選別が、最高裁事務局によって行われている」(新藤 宗幸『司法官僚』岩波新書)
最高裁判所の判事の人事権を内閣が持つ。日本では「司法の独立」は、虚像だ。仮面をかぶった「行政機関」でしかない。
土肥氏が「都教委を訴えた」ことの意義は大きいが、日本の司法の問題は重大な問題を抱えている。その問題を乗り越えて良い判決を期待する。
2.都教委の「不正と不法」を「告発する書」
土肥信雄著「それは密告にはじまった」は、「都教委の暴走、横暴」に対する告発の書であり、これまでの闘いの足跡だ。
「それは密告にはじまった」は、土肥氏の渾身の力こめて「都教委を告発した」書だ。
都教委の「横暴と卑劣さ」、「人権侵害」は数限りない。土肥氏対する言論弾圧だけでなく、教職員や生徒に対する言論統制、人権侵害の数々がこの裁判で明らかになってきた。教育において言論の自由、教育者の教える自由を奪うことは、戦前を見れば明らかなように、戦争への道につながる。戦前の負の遺産。戦前は平和を語る教師はそれだけで処罰の対象になった。現代は「日の丸」「君が代」強制することに反対しただけで、処罰を受ける。同じだ。
明治5年学制公布によって国民教育の制度が確立され、その指導原理が求められた。国民道徳論が発展し、教育勅語が、戊申詔書が、師範学校令が発布されて、国民教育の基礎は国民道徳に求められることとなった。自由主義・個人主義思想を徹底的に排除し、個人としての自覚の機会を奪い、「国家権力と天皇」への「絶対的服従」の観念を注ぎ込むことに全力を傾注した。その結果、無自覚で無批判で事大主義的で非人間的な日本国民を作り上げた。最後の元老西園寺公望が亡くなる寸前「明治以来の教育の方針が悪かった」と語らしめた。
(続)
『藤田先生を応援する会通信』(第46号 2011/3/4)
午前:増田氏(面接官)、古川氏(都立学校教育部課長)
午後:田中氏(人事部職員課長)、園田氏(選考課長)
◎ 土肥信雄著「それは、密告からはじまった」(七つ森書館)に思う(1)
IN(通信読者)
1.「土肥裁判」と日本の司法の問題点
日本の司法が、日本の民主主義の柱である三権分立の一翼を担う独立機関として機能しているのかと疑問を持つ。日本の裁判官の実態はほとんど明らかになっていない。
憲法は国民が時の政府に向って発する命令である。法律は時の政府が国民に向かってする命令である。政府の法律が憲法に合致しているかどうかを最高裁判所は国民に代わってチェックするのが本来の仕事である。最高裁判所の裁判官たちは、政府が作る法律が、それは憲法の下位概念ですから、国民に代わって憲法に合致しているかどうかを国民に代わって審査するのが本来の仕事である。
ドイツでは、違憲判決は500件以上出されている。しかし、違憲審査は日本に無きに等しい。10件しかない。行政府の暴走を審査しチェックする気概は裁判官にない。そうすることを全く怠ってきた。
最高裁判所が一番関心のあるのは人事だ。最高裁事務局を頂点にして司法官僚の給与と昇進、転勤人事など雁字搦めにして、事務局の意向に反する判決は出せないようにしている。「ヒラメ裁判官」しか生き残れない。
「判事補・裁判官の人用と再任用、転勤、昇任、報酬、部総括指名、人事評価などは、実質的に最高裁事務局の司法官僚の手に握られている。そしてまた、選任の基準は全く不明のままだが、判事補段階に於いて司法官僚のエリート候補生の選別が、最高裁事務局によって行われている」(新藤 宗幸『司法官僚』岩波新書)
最高裁判所の判事の人事権を内閣が持つ。日本では「司法の独立」は、虚像だ。仮面をかぶった「行政機関」でしかない。
土肥氏が「都教委を訴えた」ことの意義は大きいが、日本の司法の問題は重大な問題を抱えている。その問題を乗り越えて良い判決を期待する。
2.都教委の「不正と不法」を「告発する書」
土肥信雄著「それは密告にはじまった」は、「都教委の暴走、横暴」に対する告発の書であり、これまでの闘いの足跡だ。
「それは密告にはじまった」は、土肥氏の渾身の力こめて「都教委を告発した」書だ。
都教委の「横暴と卑劣さ」、「人権侵害」は数限りない。土肥氏対する言論弾圧だけでなく、教職員や生徒に対する言論統制、人権侵害の数々がこの裁判で明らかになってきた。教育において言論の自由、教育者の教える自由を奪うことは、戦前を見れば明らかなように、戦争への道につながる。戦前の負の遺産。戦前は平和を語る教師はそれだけで処罰の対象になった。現代は「日の丸」「君が代」強制することに反対しただけで、処罰を受ける。同じだ。
明治5年学制公布によって国民教育の制度が確立され、その指導原理が求められた。国民道徳論が発展し、教育勅語が、戊申詔書が、師範学校令が発布されて、国民教育の基礎は国民道徳に求められることとなった。自由主義・個人主義思想を徹底的に排除し、個人としての自覚の機会を奪い、「国家権力と天皇」への「絶対的服従」の観念を注ぎ込むことに全力を傾注した。その結果、無自覚で無批判で事大主義的で非人間的な日本国民を作り上げた。最後の元老西園寺公望が亡くなる寸前「明治以来の教育の方針が悪かった」と語らしめた。
(続)
『藤田先生を応援する会通信』(第46号 2011/3/4)
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