☆ 土肥裁判 3月24日(木)9時50分~ 東京地裁527法廷
午前:増田氏(面接官)、古川氏(都立学校教育部課長)
午後:田中氏(人事部職員課長)、園田氏(選考課長)
◎ 土肥信雄著「それは、密告からはじまった」(七つ森書館)に思う(2)
小渕内閣の時の「国旗国歌法」は「国旗は、日章旗とする」「国歌は、君が代とする」がその引き金になった。野中官房長官は「法律ができたからと言って強要する立場に立つものではない」と答弁したが、その答弁は、国会を出た途端「雲散霧消」。
「日の丸・君が代」強制が、教員の内的良心をあぶり出すリトマス試験紙の役割を果たした。あぶり出す道具にした。文部科学省も、東京教育委員会も、法すら守る気がない。憲法を守ろうとする人間が罰せられ、憲法を否定する人間が、大手を振って歩き、処罰をする。世の中は逆立ちしている。
彼らは、教育者として、人間として信用できない。憲法の番人の裁判官も、憲法を守る気概は全くない。
「第19条思想及び良心の自由は、これを犯してはならない。」思想及び良心の自由は、表現の自由などの各種精神的自由権の前提となる規定として把握される。その内容が内心の自由であることから、他者の人権との抵触による権利の制約や、政策的目的による制約が極めて限定的にのみ観念される権利であり、最大限保障される権利である。思想・良心の自由は思想・良心を形成する自由や外部に表明する自由も保障している。
学校現場への都教委は「日の丸・君が代」を強要は徹底した。教育の現場は荒廃した。その荒廃の極には「日の丸・君が代」強制を国民にも教師にも生徒にも説得できない彼らは、職員会議を否定し、「職員会議で挙手・採決」を禁ずるという戦前にもなかった暴挙、教員の口封じ、言論封殺に打って出た。
教員の「思想、信条、表現の自由」を弾圧し、否定した。今の日本を支配する重苦しい空気は、言論の封殺が一因である。ものごとを吟味し、批判し、真実はどこにあるかを追求する精神こそ、教育においてもっとも大切にされなくてはならない。教員の「自由検討の精神」を封じる都教委の通知は、その精神を否定するものである。「吟味する精神」は、思想などという難しいものではない。むしろ思想を肉体に宿す人間が心して自らから持つべき潤滑油のようなもの。こわばってとげとげしくなっていく学校を柔軟な姿に戻すためにも、吟味する精神は欠かせない。その精神を働かせ教育の根本をたずねることは、すべての先生が参加してはじめて可能だ。職員会議を否定するような通知は、学校教育を壊すことであり、壊してしまった。
土肥さんは「都教委が正しいのか、私が正しいのか判断してもらうため」「公開の場で討論するために裁判に」訴えた。「米長氏を批判したことを密告され、都教委から3回も呼び出され、最後には米長氏が三鷹高校を訪問することを告げられた」。
裁判では「都教委は米長氏が三鷹高校を訪問することを告げていないと主張」している。「言論の自由が憲法で保障されている日本で、批判するだけで強権的な指導や脅迫をする」「都教委の『ウソ』『密告』から始まった私への言論弾圧と裁判の中での都教委の『ウソ』の全てを全国民に伝え、都教委の『横暴と卑怯』の実態を明らかに」したい。
カントは、「汝の権利を踏みにじった他人をして、処罰を免れて恬然たらしむることなかれ」という格律を導き出している。「密告した卑劣な人間」に、対抗措置をとることは理の当然の義務である。都教委が行った横暴、暴虐、人格を踏みにじるあり方は、我々も含めて、土肥氏の著作は「憤怒の書」である。「権利のための闘争」の足跡である。
教育庁に突然呼び出された。「都庁の指導課長のところに行くと、高野敬三指導課長、加藤裕之学務部課長、清水宏人事部副参事の三人が既にそろっていました。第一声が『あなたのことを内部告発する投書があった』。私が内部の誰かによって密告されたということでした。・・・弁護士から『土肥さんは何も悪いことをやっていないからそれは密告だよ』と教えられました。
主な内容は二つ。一つ目は教育委員の米長邦雄氏を批判した。二つ目は、管理職にもかかわらず日の丸・君が代裁判で原告(教職員)が勝訴した難波判決を評価した。この二点について厳しく指導された」。校長である前に人間だ。肩書なんか何の意味もないことを理解できない愚かな、みすぼらしい自らの姿を恥ずかしいと思わないのか。
肩書にとらわれ何も聞こえず、何も見えない都教委の人間よ。イザヤ書42章18節に「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ」とある。密告者は三鷹高校の副校長だった。恥ずかしい自分の姿をよく見よ。ソクラテスは語った。「汝自信を知れ」と。
都教委が、校長、教員の人格そのものを否定し、無礼極まりない不法と暴虐を行っている。沈黙すること、臆病者として逃げることは、我々自らの人格を否定することになる。権利が侵害されるだけでなく、人格まで脅かされているのである。「権利のために闘う」ことは、自己自身のためのみならず、国家・社会に対する義務でもある。我々は恐るべき時代、悲しき時代、その中で生きていかなくてはならない。
都教委は「ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)」「ゲーペーウー(ソ連秘密警察)」「カー・ゲー・ベー(ソ連国家保安委員会)」「特高」になった。教育者ではない。
(完)
『藤田先生を応援する会通信』(第46号 2011/3/4)
午前:増田氏(面接官)、古川氏(都立学校教育部課長)
午後:田中氏(人事部職員課長)、園田氏(選考課長)
◎ 土肥信雄著「それは、密告からはじまった」(七つ森書館)に思う(2)
小渕内閣の時の「国旗国歌法」は「国旗は、日章旗とする」「国歌は、君が代とする」がその引き金になった。野中官房長官は「法律ができたからと言って強要する立場に立つものではない」と答弁したが、その答弁は、国会を出た途端「雲散霧消」。
「日の丸・君が代」強制が、教員の内的良心をあぶり出すリトマス試験紙の役割を果たした。あぶり出す道具にした。文部科学省も、東京教育委員会も、法すら守る気がない。憲法を守ろうとする人間が罰せられ、憲法を否定する人間が、大手を振って歩き、処罰をする。世の中は逆立ちしている。
彼らは、教育者として、人間として信用できない。憲法の番人の裁判官も、憲法を守る気概は全くない。
「第19条思想及び良心の自由は、これを犯してはならない。」思想及び良心の自由は、表現の自由などの各種精神的自由権の前提となる規定として把握される。その内容が内心の自由であることから、他者の人権との抵触による権利の制約や、政策的目的による制約が極めて限定的にのみ観念される権利であり、最大限保障される権利である。思想・良心の自由は思想・良心を形成する自由や外部に表明する自由も保障している。
学校現場への都教委は「日の丸・君が代」を強要は徹底した。教育の現場は荒廃した。その荒廃の極には「日の丸・君が代」強制を国民にも教師にも生徒にも説得できない彼らは、職員会議を否定し、「職員会議で挙手・採決」を禁ずるという戦前にもなかった暴挙、教員の口封じ、言論封殺に打って出た。
教員の「思想、信条、表現の自由」を弾圧し、否定した。今の日本を支配する重苦しい空気は、言論の封殺が一因である。ものごとを吟味し、批判し、真実はどこにあるかを追求する精神こそ、教育においてもっとも大切にされなくてはならない。教員の「自由検討の精神」を封じる都教委の通知は、その精神を否定するものである。「吟味する精神」は、思想などという難しいものではない。むしろ思想を肉体に宿す人間が心して自らから持つべき潤滑油のようなもの。こわばってとげとげしくなっていく学校を柔軟な姿に戻すためにも、吟味する精神は欠かせない。その精神を働かせ教育の根本をたずねることは、すべての先生が参加してはじめて可能だ。職員会議を否定するような通知は、学校教育を壊すことであり、壊してしまった。
土肥さんは「都教委が正しいのか、私が正しいのか判断してもらうため」「公開の場で討論するために裁判に」訴えた。「米長氏を批判したことを密告され、都教委から3回も呼び出され、最後には米長氏が三鷹高校を訪問することを告げられた」。
裁判では「都教委は米長氏が三鷹高校を訪問することを告げていないと主張」している。「言論の自由が憲法で保障されている日本で、批判するだけで強権的な指導や脅迫をする」「都教委の『ウソ』『密告』から始まった私への言論弾圧と裁判の中での都教委の『ウソ』の全てを全国民に伝え、都教委の『横暴と卑怯』の実態を明らかに」したい。
カントは、「汝の権利を踏みにじった他人をして、処罰を免れて恬然たらしむることなかれ」という格律を導き出している。「密告した卑劣な人間」に、対抗措置をとることは理の当然の義務である。都教委が行った横暴、暴虐、人格を踏みにじるあり方は、我々も含めて、土肥氏の著作は「憤怒の書」である。「権利のための闘争」の足跡である。
教育庁に突然呼び出された。「都庁の指導課長のところに行くと、高野敬三指導課長、加藤裕之学務部課長、清水宏人事部副参事の三人が既にそろっていました。第一声が『あなたのことを内部告発する投書があった』。私が内部の誰かによって密告されたということでした。・・・弁護士から『土肥さんは何も悪いことをやっていないからそれは密告だよ』と教えられました。
主な内容は二つ。一つ目は教育委員の米長邦雄氏を批判した。二つ目は、管理職にもかかわらず日の丸・君が代裁判で原告(教職員)が勝訴した難波判決を評価した。この二点について厳しく指導された」。校長である前に人間だ。肩書なんか何の意味もないことを理解できない愚かな、みすぼらしい自らの姿を恥ずかしいと思わないのか。
肩書にとらわれ何も聞こえず、何も見えない都教委の人間よ。イザヤ書42章18節に「耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目をこらして見よ」とある。密告者は三鷹高校の副校長だった。恥ずかしい自分の姿をよく見よ。ソクラテスは語った。「汝自信を知れ」と。
都教委が、校長、教員の人格そのものを否定し、無礼極まりない不法と暴虐を行っている。沈黙すること、臆病者として逃げることは、我々自らの人格を否定することになる。権利が侵害されるだけでなく、人格まで脅かされているのである。「権利のために闘う」ことは、自己自身のためのみならず、国家・社会に対する義務でもある。我々は恐るべき時代、悲しき時代、その中で生きていかなくてはならない。
都教委は「ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)」「ゲーペーウー(ソ連秘密警察)」「カー・ゲー・ベー(ソ連国家保安委員会)」「特高」になった。教育者ではない。
(完)
『藤田先生を応援する会通信』(第46号 2011/3/4)
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