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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

君が代最高裁判決:宮川光治裁判官反対意見全文(前半)

2011年06月12日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 宮川反対意見の次の下りは、ズバリ真実を言い切っている!
 「本件通達は、式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく、前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができると思われる。」(17p)
 ◎ズバリ真実!宮川反対意見(前半)/日の君最高裁6・6判決

 本件は少数者の思想及び良心の自由に深くかかわる問題であると思われる。憲法は個人の多様な思想及び生き方を尊重し、わが国社会が寛容な開かれた社会であることをその理念としている。そして、憲法は少数者の思想及び良心を多数者のそれと等しく尊重し、その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していないと考えられる。このような視点で本件を検討すると、私は多数意見に同意することはできない。まず、1において私の意見の要諦を述べ、2以下においてそれを敷行する。
1 国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は、私もその一員であるところの多くの人々にとっては信条から自然に、自発的に行う行為であり、式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし、そうではない人々が我が国には相当数存在している。
 それらの人々は「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、平和主義や国民主義とは相いれないと考えている。そうした思いはそれらの人々の心に深くあり、人格的アイデンティティをも形成し、思想及び良心として昇華されている。少数ではあっても、そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的、根源的問を社会に投げかけているとみることができる。
 上告人らが起立斉唱行為を拒否する前提として有している考えについては、原審の適法に確定した事実関係の概要中において6点に要約されている。多数意見も、この考えは、「『日の丸』や『君が代』が過去のわが国において果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観およびこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」としており、多数意見は上告人らが有している考えが思想及び良心の内容となっていること、ないしこれらと関連するものであることは承知しているものと思われる。
 上告人らが起立斉唱しないのは、式典において「日の丸」や「君が代」に関わる自らの歴史観ないし世界観および教育上の信念を表明しようとする意志からではないであろう。その理由は、第1に、上告人らにとって「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱する行為は、慣例上の儀礼的な所作ではなく、上告人ら自身の歴史観ないし世界観等にとって譲れない一線を超える行動であり、上告人らの思想及び良心の核心を動揺させるからであると思われる。
 第二に、これまでの人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者として、その魂ともいうべき教育上の信念を否定することになると考えたからであると思われる。そのように真摯なものであれば、本件各職務命令に服することなく起立せず斉唱しないという行為は上告人らのそそう良心の核心の表出であるとみることができ、少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。
 上告人らは東京都高等学校の教員であるところ、教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するということもあり得るであろう。その場合は、教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。しかし、それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては(式典もその一つであるといえる。)、自らの思想良心及び良心の核心に反する行為を求められるということはないというべきである。なお音楽教師が式典において「君が代」斉唱のピアノ伴奏を求められる場合に関しても同様に考えることができる。
 国旗及び国歌に関する法律の制定に関しては、国論は分かれていたが、政府の国会答弁では国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないことが示されており、同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したのであろう。しかしながら、本件通達は、校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問うとして、都立高等学校の教職員に対し、式典において指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを求めており、その意図するところは、前記歴史観ないし世界観および教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、その歴史観等に対する否定的評価を背景に、不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができる。
 本件各職務命令はこうした本件通達に基づいている。

 本件各職務命令は、直接には、上告人らに対し前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を持つことを禁止したり、これに反する思想等を持つことを強制したりするものではないので、一見明白に一九条に違反するとは言えない。しかしながら、上告人らの不起立不斉唱という外部的行動上告人らの思想及び良心の核心の表出であるか、少なくともこれと密接に関連している可能性があるので、これを許容せず上告人らに起立斉唱行為を命ずる本件各職務命令は憲法審査の対象となる。そして、上告人らの行動が式典において前記歴史観等を積極的に表明する意図をもってなされたものでない限りは、その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的になされるべきであると思われる。本件は、原判決を破棄し差し戻すことを相当とする。
2 上告人らの主張の中心は、起立斉唱行為を強制されることは上告人らの有する歴史観ないし世界観及び教育上の信念を否定することと結びついており、上告人らの思想及び良心を直接するものであるというにあると理解できるところ、多数意見は、式典において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、その性質の点から見て、上告人らの有する歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではないとしている。
 多数意見は、式典における起立斉唱行為を、一般的、客観的な視点で、いわば多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる。およそ精神的自由権に関する問題を、一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でないと思われる。なお、多数意見が指摘するとおり式典において国旗の掲揚と国歌の斉唱広く行われていたことは周知の事実であるが、少数者の人権の問題であるという視点からは、そのことは本件合憲性の判断にいささかも関係しない。
 前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有するものでも、その内面における深さの程度はさまざまであろう。割り切って起立し斉唱する者もいるであろう。面従腹背する者もいるであろう。起立はするが、声を出して斉唱しないという者もいよう(なお、本件職務命令では起立と斉唱は一体であり、これを分けて考える意味はない。不起立行為は視覚的に明瞭であるだけに、行為者にとっては内心の動揺は大きいとみることもできる。他方、職務命令を発する側にとっても斉唱よりもむしろ起立させることが重要であると考えているように思われる。)。しかし、思想及び良心として深く根付き、人格的アイデンティティそのものとなっており、深刻に悩んだ結果として、あるいは信念として、そのように行動することを潔しとしなかった場合、そういった人たちの心情や行動を一般的でないからとして、過小評価することは相当でないと思われる。
【続く】

 ※【君が代最高裁判決:宮川光治裁判官反対意見全文(後半)】↓参照
http://wind.ap.teacup.com/people/5378.html
『今 言論・表現の自由があぶない!』(2011/6/7)
http://blogs.yahoo.co.jp/jrfs20040729/20376678.html

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