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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

★ 「日本の公教育の崩壊が大阪から始まる」(2)

2024年12月08日 | こども危機

  『崩壊する日本の公教育』より #2
 ★ なぜ今になって…?
   教育研究者が「日本の公教育の崩壊が大阪から始まる」と嘆く“納得の理由”

鈴木 大裕(教育研究者)

 吉村洋文大阪市長(現・大阪府知事)は、2019年度以降の全国学力テストの結果を校長や教員の人事評価、ボーナス、そして学校予算に反映させる“能力給制度”の導入を打ち出した。一聴すると、頑張っている教員に適正な評価を与えるポジティブな取り組みに思えなくもないが、教育研究者の鈴木大裕氏は大きな落とし穴があると指摘する。

 ここでは、同氏の著書『 崩壊する日本の公教育 』(集英社新書)の一部を抜粋。能力給制度で教員へ報酬を与える致命的な欠陥について紹介する。(全2回の2回目)


 ★ 日本の公教育の崩壊が大阪から始まる

 教育を専門としない政治家らが、全国学力テストという教育に介入するツールを得たことで、「どうしたらより良い教育を全ての子どもたちに与えることができるか」という公教育の複雑な問題に対して、短く、単純で、間違った答えが教育行政に一気に流れ込むようになった。

 都市部では、行政が各学校に「結果責任」を求め、各学校が自らの生存をかけて生徒を奪い合う「市場型」学校選択制を始める自治体も登場した(写真略)。

 2019年、大阪市は、国家戦略特区制度を活用し、全国初となる「公設民営学校」(税金で賄われ、運営は民間に委託される公立学校)、いわゆるチャータースクールも誕生した。

 大阪府は、全国でも公立学校の統廃合を最も激しく進めてきた地域の一つだ。生徒が少ない学校はどんどん潰す一方で、税金を用いてエリート中高一貫校を創設する。

 その意味で、大阪府立水都国際中学校・高等学校に見られるのは、教育予算の「選択と集中」であり、結果的に義務教育における公教育の市場化を加速させ、公教育民営化の突破口としての役割を果たしている。

 こうして、全国学力テストの点数を「通貨」とする公教育の市場化の歯車が一気に回り始めた。「学力向上」の名の下に教育の数値化と標準化を行うことで、国家が全国の学校を遠隔評価し、監視、競争させる新自由主義的な教育統制が構築されていったのだ。

 規制緩和によって学校別の成績開示が可能になったことで点数競争が加速し、政治家が教育委員会に、教育委員会が校長に、校長が教員に、そして教員が生徒に圧力をかけるという歪んだ結果責任の構造が生まれた。

 その象徴ともいえる政策が、2018年に大阪で提案された。吉村洋文大阪市長(現・大阪府知事)が、2019年度以降の全国学力テストの結果を、校長や教員の人事評価やボーナス、そして学校予算に反映させるという、いわゆる「メリットペイ制度」(能力給制度)の導入を打ち出したのだ。

 子どもの学力を伸ばしたい。頑張っている教員をきちんと評価して欲しい。そんな思いは誰にでもあるだろうし、教育関係者ならばなおさらだろう。

 だからといって、教育をビジネスのように考え、教員を競争させれば、そしてインセンティブを与えればテストの結果が上がる、というのはあまりにも安易で、間違った答えだ。

 学校におけるメリットペイ制度の根底には、検証されるべきいくつもの想定がある。

(1)生徒の学力低迷の原因は、教員のやる気やインセンティブの欠如にある
(2)つまりは、教員は生徒の点数を伸ばすノウハウをすでに持っているが、やる気がないからそれをフルに活用していない。
(3)教員にやる気を与えるのは、生徒の成長であったり仕事に対するやりがいであったりする「内的報酬」ではなく、ボーナスなどの「外的報酬」である。

 もちろん、これらの想定はどれも間違っている
 アメリカの教育現場にメリットペイ制度が導入され始めたのは1980年代であり、今から半世紀近くも前のことだ。
 その後、弊害が次々に露呈し、新自由主義教育「改革」の中では化石のように古びた印象さえある。

 だから大阪市の多くの教育関係者たちは、そのような制度を市はなぜ今になって導入しようとしたのか、と首をかしげていた。
 教育関係者が疑問に思うのも無理はない。そこには教育学の知見に基づいた深い理由などないのだから。
 端的に言えば、教育の素人である新自由主義者の政治家らが、専門外である教育への介入を強め、公教育も市場化と民営化によって「改革」できるという単純で間違った答えにたどり着いただけのことだ。

 ★ 加速する「公教育の市場化」

 新自由主義社会では、政府は電気、保険、鉄道、郵政など、公共として行っていた事業を民営化し、「市場」に委ねる。政府はその市場を管理し、まだ民営化されていない領域には新たな市場をつくり出す役割を担う。
 だから水道に続き、公教育という新たな市場を開拓しようとしたのも、新自由主義の教科書通りのシナリオなのだ。

 2018年、当時の吉村大阪市長が学校における メリットペイ制度の導入を提案した時に、公教育の完全なる市場化と民営化を実現するのに不足していたものは何であったか。
 それは、全ての学校、校長、そして教員が、自らの生存をかけて、子どもの成績の結果を競い合う体制だった。
 学力テストが単なる調査で終わってしまうと、市場化は完成しない。評価に結果責任を組み合わせることで、初めて市場が動き出す。
 つまり、全国学力テストを教員評価に連動させることには、教育現場に結果責任を問うための根拠づくりとしての一面があったのだ。

 新自由主義の分析と批判の先駆者でもあるデヴィッド・ハーヴェイは、次のように言っている。

〈新自由主義は、人間が行う全ての行動を市場の領域に持ち込もうとする。そのために、グローバル市場におけるさまざまな決定を導く情報創出のテクノロジーとデータベースを必要とするのだ。〉

 つまり、教育 という事業の効率と効果を証拠として残すためのメカニズムの構築が公教育の市場化には不可欠であり、そのためには生徒の学力だけでなく、教員の教える能力さえも「パフォーマンス」として数値化する必要があったのだ。
 新自由主義教育「改革」によって荒廃し切ったアメリカ公教育の惨状を前にした、元アメリカ教育指導カリキュラム開発連盟会長のアーサー・コスタの嘆きを思い出す。

「教育的に大事で測るのが困難だったものは、教育的に大事ではないが測定しやすいものと置き換えられてしまった。だから今、我々は、学ぶ価値のないものをどれだけ上手に教えたかを測定しているのだ」

 ★ 1%の「勝ち組」目指して99%が競争する社会

 「アメとムチ」の政策であるメリットペイ制度に対して各方面から批判が噴出すると、大阪市の吉村市長は「子供達の学力向上の努力をし、結果を出す教員が高く評価されるのは当然だ」と、アメの側面を強調してきた。
 しかし、そもそも事の発端が、全国学力テストで大阪市が政令指定都市中、2年連続最下位だったことに対する市長の怒りだったという経緯を考えれば、それはあくまでも建前に過ぎないだろう。

 いったんムチの側面に光を当てれば、このメリットペイ制度が、教員の身分保障の脆弱化を加速させるツールとなる危険性を孕むことがわかる。
 終身雇用資格の剥奪や正規公務員から非正規契約雇用への切り替えなど、教員の身分保障の脆弱化はもはや世界的な傾向となっている。

 一つ理解しておきたいのは、市場化を目指す新自由主義政府にとって、教員など公務員の安定した雇用形態、およびそれを守る組合は邪魔な存在だということだ。
 新自由主義は、不安定性を肥やしにする。
 新自由主義的に言えば、1%の「勝ち組」を目指して99%の人間が生存競争をするのが理想的な社会のあり方なのだ。

 その意味では、「頑張っている」教員や校長へのボーナス支給を「エサ」にして導入されたメリットペイ制度が、政府に教育現場に対する管理の強化をもたらし、「結果」を出していない教員や校長を「正当に」解雇し、最終的に教員組合の解体へと突き進んでいくことは大いに考えられる。
 そうなれば教員の序列化は正当化され、公教育の枠組みの中で「アタリ」と「ハズレ」が生まれ、「公」の概念そのものが崩壊を起こす。

 そして皮肉なことに、「結果が全て」のテスト教育体制の中で、教員が目先の結果、つまり生徒のテストの点数を上げようと頑張れば頑張るほど、教員は自らの専門性を失い、「使い捨て労働者」になっていくのだ

 「どんな複雑な問題にも決まって短く、単純で、間違った答えがある」

 公教育に市場原理を持ち込めば諸問題が解決するというのは、まさに「短く、単純で、間違った答え」だった。

 

 ★ メリットペイ制度の落とし穴

 大阪市のメリットペイ政策に対しては、四方八方から反対意見が噴出した。中には、教育現場におけるメリットペイ制度には効果がない、という批判も多く見られた。
 しかし、この制度は「効果がない」のではない。むしろ「危険」なのだ。

 アメリカを代表する知識人であるマサチューセッツ工科大学(MIT)のノーム・チョムスキー博士は、「民衆を受け身で従順にしておく賢い方法は、議論の枠組みを厳しく制限し、その枠組みの中で活発な議論を奨励することだ」と指摘する。
 まさに今日、日本全国の地方自治体や学校が、文部科学省によって作られた枠組みの中で、受け身に、従順に、どうやったら全国学力テストの点数を上げられるかという議論を実に活発に交わしている。

 しかし、そもそも何をもって「学力」と呼ぶのかはほとんど議論されていない。これこそが私たちが囚われている「議論の枠組み」だ。
 いったん立ち止まって、全国学力テストの定義する「学力」とは何かを問い直したい。それは国語と算数(理科は3年に一度)のペーパーテストの点数ということになる。

 全国学力テストの結果が出るたびに、一喜一憂する各都道府県の姿が浮き彫りになるが、たった2教科の点数で学校や生徒を評価してよいのか。私たちが真に問うべきはこの貧弱な「学力」観そのものではないか。

 「プロの仕事は素人にはわからないから『プロ』なんだ」

 私の恩師はそう言い切る。この言葉が物語っているのは、プロの仕事を素人でも誰でも簡単に評価できるように数値化してしまうことの愚かさだろう。数値化の過程で、経験に裏づけられたプロの直感や技は跡形なく削ぎ落とされてしまうのだから。

 結果責任……。このパラダイム(議論の枠組み)の外には、どのような光景が広がっているのだろうか。フィンランドの教育庁長官などを歴任したパシ・サールベルク教授(教育政策)のこんな言葉が思い出される。

「私たちがどうやって教員を評価しているかですか? 話もしませんよ。そんなことは私たちの国では関係ないのです。その代わりに、私たちは『どのように彼らをサポートできるか』を議論しますよ

 現場を信じて任せる……。教育現場に結果責任を求めるのではなく、政治に教育現場への投資責任を求める、という全く別のパラダイムがそこにはある。

 ★ たった2教科の点数で子どもの学力を評価してよいのか

 子どもの学力を育てたい、頑張っている教員をちゃんと評価して欲しいという気持ちは、教育関係者であればなおさら強い。
 しかし、実際には個性豊かな子どもたちと日々かかわり、数値だけでは測れない子どもの多様な知性を知っている教育関係者だからこそ、たった数教科のペーパーテストの点数に基づく安易な学力観に対する懸念も強いのだ。
 そんな基準で教員を評価してよいわけがないとの反論が出るのは当然ではないだろうか。

 ハーバード大学の発達心理学者、ハワード・ガードナーが多重知能理論によって「知能」の多様性を指摘したのは40年も前のことだ。それによれば、人間の知能は、

言語的知能、
論理・数学的知能、
空間的知能、
音楽的知能、
身体運動的知能、
対人的知能、
内省的知能、
博物学的知能

 と、少なくとも八つに分類できる(図略)。
 そのように多様性に富んだ子どもたちの知能を、たった数教科のペーパーテストで測ろうとするのはあまりにもお粗末だ。 

 この制度に反対する教員や教員組合が本当に守ろうとしたのは、自分たちの首などではない。極端に狭く偏った土俵での勝負を強いられる子どもたちだ。
 だからこそ、「メリットペイ制度には効果がない」という批判そのものが危険なのだ。

 それは、提示された貧弱な学力観に基づいた議論の枠組みを受け入れることであり、「効果がない」と言った途端に「じゃあどうやって子どもたちの成績を上げるんだ? 教員にはどうやって責任を負わせるのか?」と対案を求められ、仕組まれた議論の呪縛に自らはまっていくことになる。

『文春オンライン』(2024年12月5日)
https://bunshun.jp/articles/-/75036

※ 鈴木大裕 (すずき だいゆう) 1973年、神奈川県生まれ。教育研究者。
16歳で渡米し、1997年コルゲート大学教育学部卒業、1999年スタンフォ―ド大学教育大学院修了。帰国後、千葉市の公立中学校で英語教師として勤務。2008年に再渡米し、コロンビア大学教育大学院博士課程で学ぶ。2016年、高知県土佐町へ移住、2019年に町議会議員となり、教育を通した町おこしを目指しつつ、執筆や講演活動を行なっている。著書に『崩壊するアメリカの公教育 日本への警告』(岩波書店)など。

 


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