学習指導要領の「国旗国歌条項」の趣旨に反して戒告~停職なら、「総則」の本文に反したらどのような懲戒になるのか。
「個人」の非違か、「学校」の非違か。最初に「違反内規」を作った責任者を都教委は告発できるか。
都教委「処分量定」の不備?この手の非違行為に規定なし。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/buka/jinji/kizyun.htm
必修漏れ問題の根拠
学習指導要領とは
法的拘束力は解釈次第
全国各地の公立高校で、世界史や倫理の授業がされず、生徒の卒業が危ぶまれている「必修漏れ問題」。教育基本法改正の論議にも影響を与えそうだ。
ところで、必修と定めている根拠は「学習指導要領」なのだが、その位置付けはいまひとつ不鮮明だ。どれほどの法的拘束力があるのか。
■「試案」消えても「法令」にあらず
学習指導要領とは、文部科学省が定めた小、中、高校、養護学校などの各教科で教えられる内容を示した基準。しばしば改定され、私立校にも適用されるが、私立では影響力が薄い。
ただ、指導要領の歴史をひもとくと、その位置づけの変化が分かる。
一九五三年までは「学習指導要領(試案)」と「試案」の二文字が付き、あくまで手引きにすぎず、実際には多くの部分について各学校の自由裁量が認められていた。
これは教育基本法が教育の国家からの独立(第一〇条、教育行政)をうたったように、戦前の反省から国家による思想、教育統制を避けようとしたためだ。
しかし、現場では自由裁量の行き過ぎか、教育内容のばらつきが目立ち、国はこれに"待った"をかける。
五八年には小中学校、六〇年からは高校の指導要領が官報に公示され、試案の文字も消え、指導要領は半ば法的な存在になった。
しかし、法令ではない。法的拘束力があるのか、というとやはり「微妙」だ。指導要領は学校教育法施行規則にある「教育課程の基準として別に大臣が公示する」の規定が根拠。つまり、法的な支えはあるが、内容はあくまで基準。現場の自由度をどこまで認めるのかは別の議論になる。
■文科省 vs 教職員組合 「君が代」問題にも
このあいまいさが、数多くの教育関連訴訟を生み出した。指導要領の拘束力をめぐる関係者の間で有名な最高裁判決が二つある。
一つは教員が全国一斉学力調査を阻止しようとした「(北海道)旭川学カテスト事件」(七六年)。もうひとつは教育委員会が指定する教科書を使わなかった教員の懲戒免職処分をめぐる「伝習館高校事件」(九〇年)。
双方とも判決は確定したものの、判決文の解釈は定まっていない。文科省は「判決では指導要領の法的拘束力が認められた」とし、教職員組合などは「教育内容への国家的介入はできるだけ抑制的にせよと書かれている」という部分を強調する。
これが「日の丸」「君が代」の指導を教員に強制できるかという問題にもつながる。
日本教育学会元会長で、東京大学の堀尾輝久名誉教授(教育法学)は「都合のいいところだけを引用するから話がおかしくなる。指導要領の精神は先生や生徒の意見も入れて柔軟に運用することだったはずだ」と苦笑する。堀尾氏は指導要領には君が代斉唱を強制する拘束力はないとみる立場だが、必修科目や単位数など教科の全国的な枠組みについては議論を重ねたうえ「大綱的基準としてきちんと定めることが必要」と考える。
■「大学入試に枠はめるべきだ」
教育ジャーナリスト矢倉久泰氏は今回の問題について「(指導要領の)法的拘束力を論じるなら、むしろ大学入試の在り方に枠をはめるべきだ」と提言する。
「高校での教育内容を大きくはみ出した問題ばかりを出すから、今回のような必修漏れが起きた。高校までの段階で必要なのは自立した市民を育てること。そのために必要な知識と技能は何かを専門家や現場の教師を交え決めるべきだ」
結局「法的拘束力」の有無はあいまいで、国と教員組合などの力関係が反映されているのが現状だ。
ちなみに旭川学カテスト事件の最高裁の判決文にはこう記されている。
「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりまず子供の学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属する」
『東京新聞』2006/10/27朝刊「ニュースの追跡」
「個人」の非違か、「学校」の非違か。最初に「違反内規」を作った責任者を都教委は告発できるか。
都教委「処分量定」の不備?この手の非違行為に規定なし。
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/buka/jinji/kizyun.htm
必修漏れ問題の根拠
学習指導要領とは
法的拘束力は解釈次第
全国各地の公立高校で、世界史や倫理の授業がされず、生徒の卒業が危ぶまれている「必修漏れ問題」。教育基本法改正の論議にも影響を与えそうだ。
ところで、必修と定めている根拠は「学習指導要領」なのだが、その位置付けはいまひとつ不鮮明だ。どれほどの法的拘束力があるのか。
■「試案」消えても「法令」にあらず
学習指導要領とは、文部科学省が定めた小、中、高校、養護学校などの各教科で教えられる内容を示した基準。しばしば改定され、私立校にも適用されるが、私立では影響力が薄い。
ただ、指導要領の歴史をひもとくと、その位置づけの変化が分かる。
一九五三年までは「学習指導要領(試案)」と「試案」の二文字が付き、あくまで手引きにすぎず、実際には多くの部分について各学校の自由裁量が認められていた。
これは教育基本法が教育の国家からの独立(第一〇条、教育行政)をうたったように、戦前の反省から国家による思想、教育統制を避けようとしたためだ。
しかし、現場では自由裁量の行き過ぎか、教育内容のばらつきが目立ち、国はこれに"待った"をかける。
五八年には小中学校、六〇年からは高校の指導要領が官報に公示され、試案の文字も消え、指導要領は半ば法的な存在になった。
しかし、法令ではない。法的拘束力があるのか、というとやはり「微妙」だ。指導要領は学校教育法施行規則にある「教育課程の基準として別に大臣が公示する」の規定が根拠。つまり、法的な支えはあるが、内容はあくまで基準。現場の自由度をどこまで認めるのかは別の議論になる。
■文科省 vs 教職員組合 「君が代」問題にも
このあいまいさが、数多くの教育関連訴訟を生み出した。指導要領の拘束力をめぐる関係者の間で有名な最高裁判決が二つある。
一つは教員が全国一斉学力調査を阻止しようとした「(北海道)旭川学カテスト事件」(七六年)。もうひとつは教育委員会が指定する教科書を使わなかった教員の懲戒免職処分をめぐる「伝習館高校事件」(九〇年)。
双方とも判決は確定したものの、判決文の解釈は定まっていない。文科省は「判決では指導要領の法的拘束力が認められた」とし、教職員組合などは「教育内容への国家的介入はできるだけ抑制的にせよと書かれている」という部分を強調する。
これが「日の丸」「君が代」の指導を教員に強制できるかという問題にもつながる。
日本教育学会元会長で、東京大学の堀尾輝久名誉教授(教育法学)は「都合のいいところだけを引用するから話がおかしくなる。指導要領の精神は先生や生徒の意見も入れて柔軟に運用することだったはずだ」と苦笑する。堀尾氏は指導要領には君が代斉唱を強制する拘束力はないとみる立場だが、必修科目や単位数など教科の全国的な枠組みについては議論を重ねたうえ「大綱的基準としてきちんと定めることが必要」と考える。
■「大学入試に枠はめるべきだ」
教育ジャーナリスト矢倉久泰氏は今回の問題について「(指導要領の)法的拘束力を論じるなら、むしろ大学入試の在り方に枠をはめるべきだ」と提言する。
「高校での教育内容を大きくはみ出した問題ばかりを出すから、今回のような必修漏れが起きた。高校までの段階で必要なのは自立した市民を育てること。そのために必要な知識と技能は何かを専門家や現場の教師を交え決めるべきだ」
結局「法的拘束力」の有無はあいまいで、国と教員組合などの力関係が反映されているのが現状だ。
ちなみに旭川学カテスト事件の最高裁の判決文にはこう記されている。
「子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりまず子供の学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属する」
『東京新聞』2006/10/27朝刊「ニュースの追跡」
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