☆ 4次訴訟控訴審・判決 4月18日(水)13:15~ 東京高裁824号
◎ 4次訴訟控訴審原告意見陳述
「10・23通達」発出後、校門の前で人権は立ち止まる
昨年の秋、大阪では、女子高生がいわゆる黒染め強要裁判を起こしました。一連の指導と対応は学習権の侵害であり人権侵害という他ありません。しかし、この件と前後して「地毛証明書」が取り沙汰されたように、都立高校も無縁ではありません。
かつて都立高校には自由がありました。私が高校に入学したとき、新入生歓迎会で生徒会長は学校の特色を「自由な校風」と紹介しました。だから、自由にふさわしい人間になってほしいと。先生方は、なんの教養もない私でも、一人の人間として尊重してくれました。
それが変わったのは、「10.23通達」と前後して都教委が都立高校改革に乗り出してからです。
私が本件で処分を受けた小岩高校も、異動当初は典型的な都立高校の一つでした。その在り様が都教委から目をつけられて生徒部の主任が呼びつけられ、一年間の研修の後、頭髪指導に続き標準服を制服化し、さらにその指導が強化されていきました。
はみ出すことは許さない、校長が上からの指導を受けて取り組めということに異を唱えることは許さない、その象徴が「10.23通達」です。職務命令に従わなかった者に処分が科されるのを見て、職員室の空気は凍り付きました。
職員会議の補助機関化や、校長の学校経営計画を基準とした業績評価制度の導入と相俟って、教員たちは沈黙していきました。服従に順応していく教員は、生徒への管理強化も当然視するようになります。
高校生は自我形成のただ中
国旗・国歌への敬意の表明に関わる判例では、エホバの証人の信者に関わるアメリカのバーネット判決が有名です。
私のクラスにもその信者の生徒がいました。高校生が思想に関わって深刻な問いを抱えるとすれば、それは宗教の問題でしょう。それは、大人の信仰の問題よりもはるかにデリケートです。
子どもは、第一義的には親によって育てられます。次が社会。信仰に関しても、親に沿って生きるしかない、それが子どもという存在です。大人になった彼が、今も信仰を維持しているかはわかりません。しかし、高校生が真に自己決定権を行使することは難しいのです。
教師にできることは、彼らが大人になって、信仰や思想を真に自由に、自分の判断で決められるようになるまで、できる限り抑圧しないこと、それ以外には考えられません。
90年代末、都教委の強力な指導の下に、一律に「日の丸・君が代」が導入されたときに、入学式・卒業式の前に「内心の自由」を説明することで、ギリギリのところで国歌を歌えない生徒を守る配慮がなされました。「10.23通達」はそれさえも奪いました。
都教委は判決の“趣旨”を汲み取らない
東京「君が代」裁判一次訴訟をはじめ、多くの最高裁判決で当事者同士の話し合いによる解決を求める補足意見が付されました。
私たち原告団は毎年何度も何度も、話し合いを求めて要請を繰り返してきましたが、会ってもくれません。都教委は、自ら解決しようとはしないのです。
これまでの訴訟で減給処分が取消された現職教員に対して、都教委は再処分をしてきました。四次訴訟の地裁判決によって減給処分が取り消され、都教委自らが控訴を断念した現職者に対しても、再処分を前提とした事情聴取が行われました。
都教委がこうした対応を取れるのは、戒告処分が認められているからです。「戒告」は一番軽い処分かもしれません。しかし、それが教育現場に与える萎縮効果は計り知れません。この控訴審で、ぜぴ戒告を取り消していただき、東京都の学校を処分という脅しから解放してください。
この闘題は、単なる公務員の職務命令違反ではありません。
私は、不起立の結果もたらされる処分を思って心貧しくも悩み、それでも自分が起立することで思春期の生徒に起立への圧力を加える恐ろしさに耐えられませんでした。せめて彼らが自分の意志で行動を選択できるようになるまでは、待ってほしいのです。
しかし、服務事故再発防止研修で、教員が起立・斉唱する意義は”生徒に範を示す”ことだと、何度も何度も言われました。それこそ、私たち教師が生徒を立たせ、歌わせるための圧力になれということではありませんか。
この法廷で私たちが問うているのは、教師としての倫理の問題なのです。
学校が、子どもたちの心を守り、人権を学ぶ場として再生するために、裁判官の賢明なご判断を願います。
◎ 4次訴訟控訴審原告意見陳述
2018年2月7日
控訴人 B
控訴人 B
「10・23通達」発出後、校門の前で人権は立ち止まる
昨年の秋、大阪では、女子高生がいわゆる黒染め強要裁判を起こしました。一連の指導と対応は学習権の侵害であり人権侵害という他ありません。しかし、この件と前後して「地毛証明書」が取り沙汰されたように、都立高校も無縁ではありません。
かつて都立高校には自由がありました。私が高校に入学したとき、新入生歓迎会で生徒会長は学校の特色を「自由な校風」と紹介しました。だから、自由にふさわしい人間になってほしいと。先生方は、なんの教養もない私でも、一人の人間として尊重してくれました。
それが変わったのは、「10.23通達」と前後して都教委が都立高校改革に乗り出してからです。
私が本件で処分を受けた小岩高校も、異動当初は典型的な都立高校の一つでした。その在り様が都教委から目をつけられて生徒部の主任が呼びつけられ、一年間の研修の後、頭髪指導に続き標準服を制服化し、さらにその指導が強化されていきました。
はみ出すことは許さない、校長が上からの指導を受けて取り組めということに異を唱えることは許さない、その象徴が「10.23通達」です。職務命令に従わなかった者に処分が科されるのを見て、職員室の空気は凍り付きました。
職員会議の補助機関化や、校長の学校経営計画を基準とした業績評価制度の導入と相俟って、教員たちは沈黙していきました。服従に順応していく教員は、生徒への管理強化も当然視するようになります。
高校生は自我形成のただ中
国旗・国歌への敬意の表明に関わる判例では、エホバの証人の信者に関わるアメリカのバーネット判決が有名です。
私のクラスにもその信者の生徒がいました。高校生が思想に関わって深刻な問いを抱えるとすれば、それは宗教の問題でしょう。それは、大人の信仰の問題よりもはるかにデリケートです。
子どもは、第一義的には親によって育てられます。次が社会。信仰に関しても、親に沿って生きるしかない、それが子どもという存在です。大人になった彼が、今も信仰を維持しているかはわかりません。しかし、高校生が真に自己決定権を行使することは難しいのです。
教師にできることは、彼らが大人になって、信仰や思想を真に自由に、自分の判断で決められるようになるまで、できる限り抑圧しないこと、それ以外には考えられません。
90年代末、都教委の強力な指導の下に、一律に「日の丸・君が代」が導入されたときに、入学式・卒業式の前に「内心の自由」を説明することで、ギリギリのところで国歌を歌えない生徒を守る配慮がなされました。「10.23通達」はそれさえも奪いました。
都教委は判決の“趣旨”を汲み取らない
東京「君が代」裁判一次訴訟をはじめ、多くの最高裁判決で当事者同士の話し合いによる解決を求める補足意見が付されました。
私たち原告団は毎年何度も何度も、話し合いを求めて要請を繰り返してきましたが、会ってもくれません。都教委は、自ら解決しようとはしないのです。
これまでの訴訟で減給処分が取消された現職教員に対して、都教委は再処分をしてきました。四次訴訟の地裁判決によって減給処分が取り消され、都教委自らが控訴を断念した現職者に対しても、再処分を前提とした事情聴取が行われました。
都教委がこうした対応を取れるのは、戒告処分が認められているからです。「戒告」は一番軽い処分かもしれません。しかし、それが教育現場に与える萎縮効果は計り知れません。この控訴審で、ぜぴ戒告を取り消していただき、東京都の学校を処分という脅しから解放してください。
この闘題は、単なる公務員の職務命令違反ではありません。
私は、不起立の結果もたらされる処分を思って心貧しくも悩み、それでも自分が起立することで思春期の生徒に起立への圧力を加える恐ろしさに耐えられませんでした。せめて彼らが自分の意志で行動を選択できるようになるまでは、待ってほしいのです。
しかし、服務事故再発防止研修で、教員が起立・斉唱する意義は”生徒に範を示す”ことだと、何度も何度も言われました。それこそ、私たち教師が生徒を立たせ、歌わせるための圧力になれということではありませんか。
この法廷で私たちが問うているのは、教師としての倫理の問題なのです。
学校が、子どもたちの心を守り、人権を学ぶ場として再生するために、裁判官の賢明なご判断を願います。
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