《コントラタック2014》
◆ 岸田さん裁判第5回
5月19日 527法廷 14:30
(岸田さんから)
前回4回目のロ頭弁論でやっと、都教委から準備書面(1)と37個の証拠が提出されました。それに対して、高橋弁護士さんを始め弁護団の方々が、28ページの反論(第3準備書面)を提出してくださいました。
先日、人事委員会からも準備書面が届きましたが、都教委・人事委員会両方の書面を読んで、私は自分の白髪が赤く燃え上がるのではないかと思うくらい、腹が立ちました。
毎度のことですが、弁護士さんは感情的な炎を、理論的な書面にしてくださいました。さらに例えば、私は年休を取る時に、言う必要がないので理由を言ったことはありません。そんなたいしたことではない私のこだわりも削ることなく、労働基準法39条で補強してくださいました。
憲法第20条については、今後もさらに判断を迫ってゆく予定です。
***********************************
私はキリスト教の「当たり前」で暮らしている。私の「当たり前」は限定的で、色や形や音の識別ができるのが前提であり、さまざまある教会の中で、私が通っている教会で培われた感覚である。私の教会の具象は、キリスト教信徒の生きる姿勢と考えがまとまりやすい。
しかしキリスト教であろうがなかろうが、人それぞれの生活感覚は同じようで同じでないのだから、普遍的な「当たり前」に通じると思っている。
今年は4月20日(日)が復活日(イースター)だった。
6月7日(土)までの7週間は復活節といって、祭壇の布や司祭服は白色であり、6月8日(日)の聖霊降臨日(ペンテコステ)からは、それらが緑色になる。復活日の46日前、灰の水曜日からは紫色、復活日前一週間は赤色と、色の表情が気持ちに重なることが多い。
復活日は、春分の日のあとの最初の満月の次の日曜日と定められている。3月下旬から4月上旬まで、年によって一カ月間のずれが生じる移動祝日である。クリスマスよりも重要な大切な祭日である。
灰の水曜日のミサでは、前年の棕櫚(しゅろ)の十字架を燃やしてできた灰で、司祭は信徒のおでこに十字を記す。イエスが荒野で40日断食したことに由来していて、復活日まで日曜日を除く40日間、自分の信仰生活を振り返り、節制と回心に努める(ことになっているけど、なかなか・・。・)。
カーニバル(謝肉祭)というのは、この40日間肉食を断つ前に、ごちそうを食べて騒ぐ習慣である。
復活日一週間前日曜日は、イエスがエルサレムに入城した際、5日後には十字架刑を要求した群衆が棕櫚の枝を道に敷いて歓迎したのに因んで、棕櫚の十字架をもらう。
聖木曜日は最後の晩餐の日であり、イエスが弟子たちの足を洗ったという聖書の記述に基づいて、司祭が信徒たちの足を洗う(実際は水をかける)。そのあと、聖堂の十字架や聖画は黒い布で覆われ、祭壇の布やロウソクも片され、イエスの死を予感する。
聖金曜日はイエスの受難(裁判と処刑)と死を記念する日であり、ミサはない。
聖土曜日のタ方、覆われていた黒い布は取り外され、祭壇もロウソクも元の位置に戻る。十字架のイエス像にも、マリア像にも、イエスの墓の模型の周りにも、ユリの花や色とりどりの鮮やかな花々が、いっぱいに飾られる。台所では、つい鼻唄を歌い合いながら、如でた卵を、これも色とりどりに、イースターエッグに作ってゆく。
聖職にない一般信徒は、このような教会暦で暮らしてゆくと、私は特に黒い布が覆われたり取り外される景色で、聖書を読んだだけでは分かったような判らないようなイエスの受難と復活を、体験的に実感する。
いつもの日曜日も、お香が焚かれ、聖歌を歌い、式文も歌で唱え、鐘や鈴が鳴り響く箇所では十字を切り、十字架の前では礼をして、「主イエス・キリスト」と唱える時は頭を下げる。
私の教会は「聖母」の名が冠についているだけあって、あちこちにマリア像があって、「身勝手だと怒られそう」と神さま直通では頼みにくいことを、「伝えといてください」と祈ることも多いけれど、マリア像を拝んでいるわけではない。
具象を通して、信仰も深くなる気がする。だから「日の丸。君が代」は単なるハタとウタではない。「日の丸」に礼をし、天皇制の繁栄を願う「君が代」を謳うのは、どうしても天皇教にしか思えないのだ。(八王子「通信・共に育つ」より転載)
『コントラタック2014』
「君が代」不当処分撤回を求める会(事務局、東京都公立学校教職員組合内)
千代田区一ツ橋2-6-2 TELO3・5276-1311
☆ 次回第6回口頭弁論 8月28日(木)15:00~ 東京地裁527号法廷
※『岸田さん累積処分取消裁判 本人意見陳述』
http://wind.ap.teacup.com/people/7966.html
◆ 岸田さん裁判第5回
5月19日 527法廷 14:30
(岸田さんから)
前回4回目のロ頭弁論でやっと、都教委から準備書面(1)と37個の証拠が提出されました。それに対して、高橋弁護士さんを始め弁護団の方々が、28ページの反論(第3準備書面)を提出してくださいました。
先日、人事委員会からも準備書面が届きましたが、都教委・人事委員会両方の書面を読んで、私は自分の白髪が赤く燃え上がるのではないかと思うくらい、腹が立ちました。
毎度のことですが、弁護士さんは感情的な炎を、理論的な書面にしてくださいました。さらに例えば、私は年休を取る時に、言う必要がないので理由を言ったことはありません。そんなたいしたことではない私のこだわりも削ることなく、労働基準法39条で補強してくださいました。
憲法第20条については、今後もさらに判断を迫ってゆく予定です。
***********************************
私はキリスト教の「当たり前」で暮らしている。私の「当たり前」は限定的で、色や形や音の識別ができるのが前提であり、さまざまある教会の中で、私が通っている教会で培われた感覚である。私の教会の具象は、キリスト教信徒の生きる姿勢と考えがまとまりやすい。
しかしキリスト教であろうがなかろうが、人それぞれの生活感覚は同じようで同じでないのだから、普遍的な「当たり前」に通じると思っている。
今年は4月20日(日)が復活日(イースター)だった。
6月7日(土)までの7週間は復活節といって、祭壇の布や司祭服は白色であり、6月8日(日)の聖霊降臨日(ペンテコステ)からは、それらが緑色になる。復活日の46日前、灰の水曜日からは紫色、復活日前一週間は赤色と、色の表情が気持ちに重なることが多い。
復活日は、春分の日のあとの最初の満月の次の日曜日と定められている。3月下旬から4月上旬まで、年によって一カ月間のずれが生じる移動祝日である。クリスマスよりも重要な大切な祭日である。
灰の水曜日のミサでは、前年の棕櫚(しゅろ)の十字架を燃やしてできた灰で、司祭は信徒のおでこに十字を記す。イエスが荒野で40日断食したことに由来していて、復活日まで日曜日を除く40日間、自分の信仰生活を振り返り、節制と回心に努める(ことになっているけど、なかなか・・。・)。
カーニバル(謝肉祭)というのは、この40日間肉食を断つ前に、ごちそうを食べて騒ぐ習慣である。
復活日一週間前日曜日は、イエスがエルサレムに入城した際、5日後には十字架刑を要求した群衆が棕櫚の枝を道に敷いて歓迎したのに因んで、棕櫚の十字架をもらう。
聖木曜日は最後の晩餐の日であり、イエスが弟子たちの足を洗ったという聖書の記述に基づいて、司祭が信徒たちの足を洗う(実際は水をかける)。そのあと、聖堂の十字架や聖画は黒い布で覆われ、祭壇の布やロウソクも片され、イエスの死を予感する。
聖金曜日はイエスの受難(裁判と処刑)と死を記念する日であり、ミサはない。
聖土曜日のタ方、覆われていた黒い布は取り外され、祭壇もロウソクも元の位置に戻る。十字架のイエス像にも、マリア像にも、イエスの墓の模型の周りにも、ユリの花や色とりどりの鮮やかな花々が、いっぱいに飾られる。台所では、つい鼻唄を歌い合いながら、如でた卵を、これも色とりどりに、イースターエッグに作ってゆく。
聖職にない一般信徒は、このような教会暦で暮らしてゆくと、私は特に黒い布が覆われたり取り外される景色で、聖書を読んだだけでは分かったような判らないようなイエスの受難と復活を、体験的に実感する。
いつもの日曜日も、お香が焚かれ、聖歌を歌い、式文も歌で唱え、鐘や鈴が鳴り響く箇所では十字を切り、十字架の前では礼をして、「主イエス・キリスト」と唱える時は頭を下げる。
私の教会は「聖母」の名が冠についているだけあって、あちこちにマリア像があって、「身勝手だと怒られそう」と神さま直通では頼みにくいことを、「伝えといてください」と祈ることも多いけれど、マリア像を拝んでいるわけではない。
具象を通して、信仰も深くなる気がする。だから「日の丸。君が代」は単なるハタとウタではない。「日の丸」に礼をし、天皇制の繁栄を願う「君が代」を謳うのは、どうしても天皇教にしか思えないのだ。(八王子「通信・共に育つ」より転載)
『コントラタック2014』
「君が代」不当処分撤回を求める会(事務局、東京都公立学校教職員組合内)
千代田区一ツ橋2-6-2 TELO3・5276-1311
☆ 次回第6回口頭弁論 8月28日(木)15:00~ 東京地裁527号法廷
※『岸田さん累積処分取消裁判 本人意見陳述』
http://wind.ap.teacup.com/people/7966.html
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