10月7日、信仰を持つ音楽教員の岸田さんの累積処分取消裁判が東京地裁で始まり、冒頭に本人の意見陳述がありました。1・16最判後に、停職1月処分取消を求めて人事委提訴したところ、「取消」ではなく、停職を減給に「修正」する裁決が出され、これを不当として地裁に提訴して裁判が始まりました。
私が訴えたのは東京都、具体的には東京都人事委員会と東京都教育委員会ですが、まず東京都人事委員会に言いたいことがあります。
裁決書が送られてきた時は、「修正」という裁決が理解できませんでした。今でも同じです。私は、東京都教育委員会による「停職一カ月」の懲戒処分の取り消しを求めて、東京都人事委員会に審査請求をしたのです。
人事委員会は、『専門的・中立的な立場の行政委員会』であり、『不利益処分を受けた職員からの不服申し立て等の審査を行う』ことも業務の一つです。
私の審査請求に対しては、例えば「審査した結果、停職一カ月の懲戒処分はおかしいから考え直すように」と東京都教育委員会を促すのなら、理解できます。
しかし、『処分者が請求人に対して平成22年3月30日付けで行った停職1月間の処分を1月間給料の10分の1を減ずる処分に修正する。』(裁決の主文)と「修正」するのであれば、その根拠を示してください。
裁決書では「これらの処分歴及び行為歴を併せ考慮すると,公務の秩序の維持という懲戒処分制度の目的にかんがみ,」とするだけで、これでは私が減給処分とされた理由が全く分かりませんし、根拠としても全く不十分です。
「修正」については納得できませんが、しかし「減給一カ月の懲戒処分」と明示したのであれば、東京都教育委員会に対して、私への謝罪も促すべきです。
もう既に、停職一カ月の懲戒処分により私が停職を余儀なくされた一日は、終了してしまいました。私の35年間の教員生活最後の日、2010年3月31日は、停職一カ月の懲戒処分という不当な制裁を受けた一日だったのです。
過ぎ去った時間は、今さら取り戻すことはできません。一度出した行政処分を、「あっ、違っていました」と修正するのであれば、今さら戻すことのできない過ぎ去った時間、「停職」の烙印を押された苦しく許せない時間に対して、東京都教育委員会に謝罪をさせてほしいと思います。
2 教員生活最後の日を迎えて
教員最後の卒業式翌日から、音楽室や職員室にある私物の整理と片づけを始めました。
私は、その時の子どもたちに合わせて教材を創り変えています。膨大な自筆楽譜の束は、懐かしい気持ちにはなったけれど、思い切ってリサイクル倉庫に運びました。市販の楽譜やCDは、欲しいと言う同僚に渡しました。それでも段ボール三箱分の荷物が残り、宅急便で自宅に送りました。「自宅に」というのが、退職と異動との違いだなあと感慨深かったです。
3月31日は最後の日だからと、何か特別な予定があったわけではありません。しかし、片づけの流れの中の一日と、あまりにも重い懲戒処分の一日とは、まったく別物です。比較できるものではありません。
それまでにも「君が代」で懲戒処分を受けていたので、再任用や非常勤講師の可能性は低いだろうと、私は希望しませんでした。翌日4月1日から今日まで、教える側に就いたことはありません。
反対に、教えてもらう側になっています。教員になった時に中断せざるを得なかった勉強を、若い人たちと机を並べてやっています。母親の介護や孫たちの世話、地域での活動や交流、教会でのオルガン当番や日曜学校、楽器の練習や宿題に追われているけれど、充実した毎日です。
ふと、季節に関係なく、思い出します。紫陽花の挿し木が「根付いたかな?」と庭を見る時、「職務命令を撤回してください」と訴えるために、毎朝校長室の戸を叩く前に深呼吸をしていた自分の姿が、浮かんできます。身の丈で生きている日々なのに、突然しゃがみ込みたくなります。
「最後の最後に懲戒処分を受けたのだから、おまえの35年間の教員生活は全否定に等しい」。ばかばかしいとは思いながらも、教員を辞めてから三年半も経っているのに、そういうふうに言われているような屈辱的な気持ちになってしまうのです。
3 信仰と行為の一致について
私の心と私の手は、私のからだです。学校行事、儀式での「君が代」に反対している心を、手に伝えないで無機質に機械的にピアノを弾くことは、できません。
憲法第20条「信教の自由」については、先月9月5日に最高裁判決が出た別件の訴訟では、どの段階の裁判所の時でも、明確に応えてはいただけませんでした。
今回の訴訟でも、担当の弁護士さんが真正面から憲法に向き合って、渾身の訴状を書いてくださっています。貴裁判所においては、必ず応えてください。
私はキリスト教信徒です。たしかに「日の丸・君が代」の強制は許されないと書かれている聖書の箇所はないし、教義の中にも明言されてはいません。しかし、私は、信仰と行為の一致を説く聖書の教えに従いたいと思っています。
それは日曜日だけとは限りません。365日のすべての時間の生き方です。家庭でも仕事場でも、いつでもどこでも、最優先される生き方です。
出勤する時に教員の服を着て、自宅に戻ったら教員の服を脱ぐというような、時と場合で使い分けられるような生き方ではありません。
4 職務命令に違反したことについて
私は、自らの足を踏み出そうともしないで、安全地帯から正義を叫んでしまいます。教会の中で平和を語り合うだけで、満足してしまいます。
『教え子を戦場に送るな』のはずが、私は教員だった時に何をしたのか。処分が怖くて、「君が代」の流れる会場から自分だけが逃げ続のけたではないか。
私が勤務した小学校の卒業生が吹奏楽部で「君が代」伴奏をした時も、結局は止めさせることができませんでした。
私は何年間も、「君が代」の時に子どもたちと一緒にいませんでした。そのあまりにもむごい後ろめたさと負い目は、未だに少しも償えていません。
教員最後の卒業式は、職務命令が撤回された状態で迎えたかったです。
連日のように校長と話しました。それは卒業式前日まで続きました。しかし、職務命令は撤回されませんでした。
「君が代」の間だけ席を外すという校長からの提案は魅力的な誘惑でしたけれども、私は、子どもたちの視線を感じて、その誘惑から覚めました。
私は、信仰と行為を一致させ、また教員としての良心に従った結果、教員生活最後の卒業式で、撤回されなかった職務命令に違反することになりました。
5 最後に
憲法第20条を行使することは、保障されているはずです。それが制限される時間や場所は、あってはならないと思います。
大きい音がうるさいのではないように、小さい音が静かなのではないように、私の信仰と行為が一致する生き方を、支配されたくはありません。信仰と行為の一致は、とてつもなく大きく重く深い。これは私の課題です。
※次回は、11月11日(月)13:10~ 東京地裁527法廷です。
◎ 意 見 書
2013年10月7日
原告 岸田静枝
1 はじめに原告 岸田静枝
私が訴えたのは東京都、具体的には東京都人事委員会と東京都教育委員会ですが、まず東京都人事委員会に言いたいことがあります。
裁決書が送られてきた時は、「修正」という裁決が理解できませんでした。今でも同じです。私は、東京都教育委員会による「停職一カ月」の懲戒処分の取り消しを求めて、東京都人事委員会に審査請求をしたのです。
人事委員会は、『専門的・中立的な立場の行政委員会』であり、『不利益処分を受けた職員からの不服申し立て等の審査を行う』ことも業務の一つです。
私の審査請求に対しては、例えば「審査した結果、停職一カ月の懲戒処分はおかしいから考え直すように」と東京都教育委員会を促すのなら、理解できます。
しかし、『処分者が請求人に対して平成22年3月30日付けで行った停職1月間の処分を1月間給料の10分の1を減ずる処分に修正する。』(裁決の主文)と「修正」するのであれば、その根拠を示してください。
裁決書では「これらの処分歴及び行為歴を併せ考慮すると,公務の秩序の維持という懲戒処分制度の目的にかんがみ,」とするだけで、これでは私が減給処分とされた理由が全く分かりませんし、根拠としても全く不十分です。
「修正」については納得できませんが、しかし「減給一カ月の懲戒処分」と明示したのであれば、東京都教育委員会に対して、私への謝罪も促すべきです。
もう既に、停職一カ月の懲戒処分により私が停職を余儀なくされた一日は、終了してしまいました。私の35年間の教員生活最後の日、2010年3月31日は、停職一カ月の懲戒処分という不当な制裁を受けた一日だったのです。
過ぎ去った時間は、今さら取り戻すことはできません。一度出した行政処分を、「あっ、違っていました」と修正するのであれば、今さら戻すことのできない過ぎ去った時間、「停職」の烙印を押された苦しく許せない時間に対して、東京都教育委員会に謝罪をさせてほしいと思います。
2 教員生活最後の日を迎えて
教員最後の卒業式翌日から、音楽室や職員室にある私物の整理と片づけを始めました。
私は、その時の子どもたちに合わせて教材を創り変えています。膨大な自筆楽譜の束は、懐かしい気持ちにはなったけれど、思い切ってリサイクル倉庫に運びました。市販の楽譜やCDは、欲しいと言う同僚に渡しました。それでも段ボール三箱分の荷物が残り、宅急便で自宅に送りました。「自宅に」というのが、退職と異動との違いだなあと感慨深かったです。
3月31日は最後の日だからと、何か特別な予定があったわけではありません。しかし、片づけの流れの中の一日と、あまりにも重い懲戒処分の一日とは、まったく別物です。比較できるものではありません。
それまでにも「君が代」で懲戒処分を受けていたので、再任用や非常勤講師の可能性は低いだろうと、私は希望しませんでした。翌日4月1日から今日まで、教える側に就いたことはありません。
反対に、教えてもらう側になっています。教員になった時に中断せざるを得なかった勉強を、若い人たちと机を並べてやっています。母親の介護や孫たちの世話、地域での活動や交流、教会でのオルガン当番や日曜学校、楽器の練習や宿題に追われているけれど、充実した毎日です。
ふと、季節に関係なく、思い出します。紫陽花の挿し木が「根付いたかな?」と庭を見る時、「職務命令を撤回してください」と訴えるために、毎朝校長室の戸を叩く前に深呼吸をしていた自分の姿が、浮かんできます。身の丈で生きている日々なのに、突然しゃがみ込みたくなります。
「最後の最後に懲戒処分を受けたのだから、おまえの35年間の教員生活は全否定に等しい」。ばかばかしいとは思いながらも、教員を辞めてから三年半も経っているのに、そういうふうに言われているような屈辱的な気持ちになってしまうのです。
3 信仰と行為の一致について
私の心と私の手は、私のからだです。学校行事、儀式での「君が代」に反対している心を、手に伝えないで無機質に機械的にピアノを弾くことは、できません。
憲法第20条「信教の自由」については、先月9月5日に最高裁判決が出た別件の訴訟では、どの段階の裁判所の時でも、明確に応えてはいただけませんでした。
今回の訴訟でも、担当の弁護士さんが真正面から憲法に向き合って、渾身の訴状を書いてくださっています。貴裁判所においては、必ず応えてください。
私はキリスト教信徒です。たしかに「日の丸・君が代」の強制は許されないと書かれている聖書の箇所はないし、教義の中にも明言されてはいません。しかし、私は、信仰と行為の一致を説く聖書の教えに従いたいと思っています。
それは日曜日だけとは限りません。365日のすべての時間の生き方です。家庭でも仕事場でも、いつでもどこでも、最優先される生き方です。
出勤する時に教員の服を着て、自宅に戻ったら教員の服を脱ぐというような、時と場合で使い分けられるような生き方ではありません。
4 職務命令に違反したことについて
私は、自らの足を踏み出そうともしないで、安全地帯から正義を叫んでしまいます。教会の中で平和を語り合うだけで、満足してしまいます。
『教え子を戦場に送るな』のはずが、私は教員だった時に何をしたのか。処分が怖くて、「君が代」の流れる会場から自分だけが逃げ続のけたではないか。
私が勤務した小学校の卒業生が吹奏楽部で「君が代」伴奏をした時も、結局は止めさせることができませんでした。
私は何年間も、「君が代」の時に子どもたちと一緒にいませんでした。そのあまりにもむごい後ろめたさと負い目は、未だに少しも償えていません。
教員最後の卒業式は、職務命令が撤回された状態で迎えたかったです。
連日のように校長と話しました。それは卒業式前日まで続きました。しかし、職務命令は撤回されませんでした。
「君が代」の間だけ席を外すという校長からの提案は魅力的な誘惑でしたけれども、私は、子どもたちの視線を感じて、その誘惑から覚めました。
私は、信仰と行為を一致させ、また教員としての良心に従った結果、教員生活最後の卒業式で、撤回されなかった職務命令に違反することになりました。
5 最後に
憲法第20条を行使することは、保障されているはずです。それが制限される時間や場所は、あってはならないと思います。
大きい音がうるさいのではないように、小さい音が静かなのではないように、私の信仰と行為が一致する生き方を、支配されたくはありません。信仰と行為の一致は、とてつもなく大きく重く深い。これは私の課題です。
以上
※次回は、11月11日(月)13:10~ 東京地裁527法廷です。
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