★ <コメント・2>帝国書院『新現代社会』再訂正のもう一つの意味
皆さま 高嶋伸欣です
1.先の帝国書院版『新現代社会』の再訂正には、沖縄側にとって重要な意味を持つ修正部分が、もう一つありました。
2 それはコラム「沖縄とアメリカ軍基地」の冒頭の記述「第二次世界大戦中の1945年4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸」を「第二次世界大戦中の1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸」と、書き換えたところです。
3.この件は、2007年9月29日に沖縄県民11万6000人が結集した、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」で明確になっている沖縄県民の民意と深く関係しています。
4.07年の「9・29県民大会」は、早10年前のこととなろうとしています。
皆さま、ご記憶でしょうか。
ことは、2006年度の高校「日本史」検定(2008年度用、2年生以上用)で、それまで、長年認められていた沖縄戦「集団自決(強制集団死)」は日本軍(皇軍)の強制によるものであったとの記述を、突如として日本軍と無関係の記述に改変させたことが発覚し、超党派の「島ぐるみ」抗議行動として開催されたものです。
5.文科省はこの時の突然の書き換え指示の主要な根拠として、05年に大阪地裁に提訴されたケラマ諸島座間味島の元守備隊長・梅沢裕氏らによる名誉棄損裁判を、記者クラブへの説明で明示していました。
同裁判は、梅沢氏たちが座間味島の住民に「集団自決」を強制したとしている大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書)の記述で名誉を棄損されたとして、著者の大江氏と岩波書店を訴えたもので、「大江・岩波裁判」と呼ばれました。
6.同裁判を文科省が「集団自決」記述を歪曲させる主要な根拠にしたことで、同裁判への関心が一気に高まり、被告側を応援する組織が大阪で発足し、沖縄でも新たな目撃者や体験者が名乗り出たりします。
結果として、同裁判は地裁、高裁さらに最高裁でも原告側の敗訴で終結します。
7.梅沢氏たちに提訴を働きかけたのが、当時「沖縄プロジェクト」と称する沖縄戦の歴史歪曲策を推進していた「自由主義史観研究会」の藤岡信勝氏と同氏を支援していた『産経新聞』でした。
彼らは、裁判を起こさせ、それを根拠に教科書の「集団自決」記述の歪曲検定を、文科省に強行させたわけです。
この限りでは、彼らの”作戦”は大成功だったことになります。
8.けれども、彼らの作戦は間もなく破たんします。
肝心の裁判の法廷で原告の梅沢氏が「大江氏の『沖縄ノート』を読んだ時期」を問われて、提訴後1年ぐらいしてからと答えたのです。提訴が本人の発意でないことは明白になったこの証言は、2007年11月9日のことです。
9.さらに文科省は、「記述変更の検定意見の主要な根拠を、05年に提訴された裁判とするのであれば、同じ記述が検定に申請されていた05年度検定でその記述をなぜ問題にしないで合格にしたのか?」と問われて、しどろもどろになり「根拠の一つにすぎない」と言い換えます。
その一方で、沖縄の怒りが爆発することになった06年度検定結果が公表されたのは、07年3月末でした。ところがその翌月の07年4月から、05年度検定で「問題なし」とした「日本軍によって『集団自決』を強制された」旨の記述を載せた「日本史」教科書で、全国の高校生が学習を始めていたのです。
現在の検定制度では、検定意見の一つでも拒否すると、その教科書は丸ごと一冊が不合格になります。それほど検定意見は重いもののはずです。いかに06年度検定での「集団自決」記述歪曲検定が不当なものであったかはこのことからも明らかです。
10.さらにこうした無理に加え、「大江・岩波裁判」の敗訴続きで文科省はますます窮地に追い込まれます。そこで新たに言い出したのが「私人間の争いについて口を挟む立場にない」という、逃げ口上でした。
ある時は教科書検定という行政処分の権限行使の根拠に位置付けながら、形勢不利となると無関係を決め込む、情けないありさまです。
第三次家永訴訟で国側がグーの音も出せなかった東京高裁・川上判決による国側違法の論理(恣意的便宜的な法規の解釈や運用は職権乱用で違法である、というもの。後に最高裁もこの論理を採用し、国側の敗訴が確定)に反しているのは明らかです。
検定意見で記述改変を強要された執筆者の中の一人でもこの件で提訴していれば、原告勝訴は確実だったはずです。
11.しかし現実は厳しく、文科省という蛇ににらまれたカエル同然の存在である教科書会社や執筆者から、この件で提訴されることはなく、文科省は命拾いをしたことになっています。
12.けれども沖縄県民は納得していません。07年9月29日の県民大会に11万6000人が結集したのを受けて、第1次安倍政権の後を継いだ福田内閣の渡海文科大臣が、検定制度の見直しと著者側からの「訂正申請」があれば記述の再改変に応じるとの方針を、表明するところまで追い込まれます。
13.本来であれば文科省が謝罪し、検定意見を撤回すべき事柄だと、沖縄側は考えていました。それでもとりあえずの対応策としての、訂正申請を供給本印刷前に済ませるとの著者側の取り組みを見守ることにしました。
14 結果として07年12月26日に、執筆者側が一斉に提出した訂正申請を文科省が承認し、「日本軍によって『集団自決』においこまれたり」などの記述が”復活”します。
15 同時に執筆者側は、訂正申請に乗じて新たに「これを『強制集団死』とよぶことがある」と加筆したりしました。
さらに次のような新たな記述まで申請され、文科省は承認に追い込まれたのでした。
本文=「2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の『集団自決』に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった。」
注記=「沖縄県では、県議会・全市町村議会で検定意見撤回を求める意見書が可決され、同年9月には大規模な県民大会が開催された。」
16 文科省側は、沖縄の島ぐるみ・超党派の抗議の声を無視できないとし、訂正申請に応じることで、何とか検定意見の撤回は回避できた形です。
けれども、上記15のような加筆を認めさせられたことで、検定官たちは敗北感を強く覚えたはずです。
17 但し、沖縄側には強い不満が残りました。検定意見が撤回されなかっただけでなく、日本軍による「強制」の二文字の復活が認められなかったことです。
18 そのため、12月26日の訂正申請承認について、「本土」の全国紙各紙は横並びで、日本軍の「『関与』復活」と報道したのに対し、沖縄では「『軍強制』認めず」と『琉球新報』『沖縄タイムス』がともに強調しました。
「本土」側はこれでともかく一件落着ということにしようとしたのに対し、沖縄側は納得できないとしたのです。
19 2008年1月、沖縄では「9・29県民大会」実行委員会の主要メンバーが、状況の評価と今後についての協議をし、12・26の訂正申請による記述復活は不十分であることが確認されます。
そこで改めて、県民大会の決議(検定意見の撤回と記述の完全な復活をめざす)を実現させるために、当初の呼びかけ6団体によって新たに「県民大会決議を実現させる会(実現させる会)」を発足させ、粘り強く教科書会社や文科省に働きかけを継続することが議決されました(県民大会実行委員会も解散していません)。
20 その後、「実現させる会」は毎月29日に定例会を開催し、時宜に合わせて文科省や教科書会社への要請行動を年に最低1回は実施。さらに毎年9月29日には1年間の活動を集約する集会を開催してきました。
間もなく迎える今年16年9月29日には「県民大会から9年目集会」を開催します。
21 これまでのほぼ9年間の「実現させる会」の活動をどう評価するか。沖縄の人々の粘り強さ、あきらめず・へこたれない意思の強靭さ、不屈の精神の現れ等々、さまざまに言えそうです。一つだけ確かなのは同会の月例会議や東京要請行動などの都度、沖縄の県紙2紙が必ずその様子を報道し、全県に「集団自決」記述の歪曲検定問題で文科省を問い詰め続けていることが伝わっているということです。
月例の会議のために沖縄を訪れる機中やモノレール車内で、声をかけられたり、無言ながら会釈で、「続けているのですね」との励ましの思いを送りつけられる私(高嶋)の経験は、最近も繰り返されています。
22 そうした地味な取り組みの様子は、歴史の教科書の編集者や執筆者にも伝わっています。そのことを証明しているのが、中学校歴史教科書での沖縄戦開始時期についての記述の変化なのです。
23 「集団自決」歪曲検定事件が発覚した07年3月当時、中学歴史教科書は8冊ありました。その内の5冊は3月下旬のケラマ諸島への艦砲射撃や上陸戦の開始の事実に合わせて、沖縄戦が3月から開始されたと正確に記述していました。
一方で残りの3冊は、以前からの俗説のままに沖縄本島上陸の4月1日から沖縄戦が開始されたという記述でした(そのうちの1冊が藤岡氏による扶桑社版です)。
それらは、2004年度検定に合格したものでした(添付資料参照)。
24 それが現在の中学歴史教科書8冊(2014年度検定合格)では、すべてが沖縄戦は3月から開始されたとする、正確な記述に変わっています(添付資料参照)。藤岡氏の自由社販や八木秀次氏の育鵬社版もです。
25 本島上陸以前にケラマ諸島攻撃があったという事実そのものに執筆者たちが気づいたからという単純な経緯であった可能性もあります。ただそれにしてもケラマ諸島攻撃に話や関心がなぜ及んだのかということを考えると、ケラマ諸島への上陸時にこそ集中的に「集団自決」が多発したという事実の関連性を切り離せないことになります。
上記の「大江・岩波裁判」で事実関係が争われたのも、ケラマ諸島一つ座間味島での「集団自決」をめぐってのことでした。
26 その「大江・岩波裁判」は、上記のように藤岡氏たちによる「集団自決」に関する歴史改ざん策の一環として画策されたものです。そして、06年度検定での「集団自決」記述歪曲検定も、歴史修正主義を標榜する安倍首相の登場を受けて文科官僚が政治的な行動に踏み切った結果であると、考えられます。
27 そうした時に、沖縄と大阪を中心に不当な歴史修正主義による沖縄戦の歴史改ざんの動きに抵抗する取り組みが生まれ、焦点の「集団自決」は3月下旬のケラマ諸島上陸時に多発したという事実を、歴史教科書の執筆者たちが改めて認識する機会となったわけです。
結果として、現行版の中学歴史教科書8冊すべてに、沖縄戦が3月から始まったと事実に即した記述が掲載され、そこから「集団自決」に話題を広げる手がかりともなった、と評価できます。
28 ところが高校の「日本史A・B」の教科書の場合、3月からと正しく記述しているのが「日本史A」では7冊中の5冊、「日本史B」では8冊中4冊にすぎません(添付資料参照)。
そこで「実現させる会」では、4月からと誤解させる記述をしている「日本史A・B」教科書(6冊のうち5冊が山川出版、もう1冊の実教版は中途半端)について、記述の改善を要望してきました。
そこへ降って湧いたのが帝国書院版『新現代社会』のコラム「沖縄とアメリカ軍基地」の騒ぎの中で、冒頭部分の問題記述「第二次世界大戦中の1945年4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸」に気づかされたという次第です。
この記述を修正するべきだということは、「実現させる会」の東京要請行動で、帝国書院を訪問した際と教科書課と交渉した際(16年4月)に、それぞれ伝えてありました。
今回の訂正申請でこの部分が訂正されたのは、要請が生きたのだと、我々は受け止めています。
29 「実現させる会」では、山川出版に対しても「日本史A・B」教科書5冊で「4月1日に沖縄本島上陸から沖縄戦~」との記述になっているのを訂正するように、引き続き要請しています。そのためにも今回の帝国書院版のこの部分の訂正は、好都合なことと受け止めています。
30 長い経過説明になりましたが、帝国版『新現代社会』のコラムの「45年4月」が「45年3月」に修正されたことで、沖縄戦を語るときには触れないわけにはいかない「集団自決」の事実に言及しやすい教科書記述をさらに整えることができた、と考えています。
31 「実現させる会」は、歪曲検定を仕掛けた側の意図をくじき、逆にそれへの反撃の取り組みによって「集団自決」への関心度や認知度を高めることを目指しています。
そうすることが藤岡信勝氏や安倍首相などの歴史修正主義者たちに「余計なことをしてしまった。逆効果だった」という、ほぞをかむ思いをさせることにもなり、同じ策略を思いとどまらせることにも通じると、考えています。
32 沖縄戦について学習する際には、この沖縄戦開始時期が正確に語られているかに着目し、そこから「集団自決(強制集団死)」の事実に話題を結びつけられるよう望みます。
特に現行版の山川出版の「日本史A・B」教科書は5冊ともこの点において、不正確な記述になっているので、使用中の高校では補足の説明をされるよう希望します。
以上 今回も文責は高嶋です 転送・拡散は自由です
*添付禁止のMLには添付資料を略しました。
皆さま 高嶋伸欣です
1.先の帝国書院版『新現代社会』の再訂正には、沖縄側にとって重要な意味を持つ修正部分が、もう一つありました。
2 それはコラム「沖縄とアメリカ軍基地」の冒頭の記述「第二次世界大戦中の1945年4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸」を「第二次世界大戦中の1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸」と、書き換えたところです。
3.この件は、2007年9月29日に沖縄県民11万6000人が結集した、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」で明確になっている沖縄県民の民意と深く関係しています。
4.07年の「9・29県民大会」は、早10年前のこととなろうとしています。
皆さま、ご記憶でしょうか。
ことは、2006年度の高校「日本史」検定(2008年度用、2年生以上用)で、それまで、長年認められていた沖縄戦「集団自決(強制集団死)」は日本軍(皇軍)の強制によるものであったとの記述を、突如として日本軍と無関係の記述に改変させたことが発覚し、超党派の「島ぐるみ」抗議行動として開催されたものです。
*ちなみに、翁長雄志・現沖縄県知事は、県民一丸となった時の力強さを、那覇市長(沖縄県市長会代表)としてこの時の集会の壇上にいて実感したことが、のちの知事選で掲げた「オール沖縄」の発想の源だった、と知事選当時から繰り返し表明しています。この意味で「9・29沖縄県民大会」は、沖縄の戦後史に一つの方向付けを刻んだできごとでした。
5.文科省はこの時の突然の書き換え指示の主要な根拠として、05年に大阪地裁に提訴されたケラマ諸島座間味島の元守備隊長・梅沢裕氏らによる名誉棄損裁判を、記者クラブへの説明で明示していました。
同裁判は、梅沢氏たちが座間味島の住民に「集団自決」を強制したとしている大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書)の記述で名誉を棄損されたとして、著者の大江氏と岩波書店を訴えたもので、「大江・岩波裁判」と呼ばれました。
6.同裁判を文科省が「集団自決」記述を歪曲させる主要な根拠にしたことで、同裁判への関心が一気に高まり、被告側を応援する組織が大阪で発足し、沖縄でも新たな目撃者や体験者が名乗り出たりします。
結果として、同裁判は地裁、高裁さらに最高裁でも原告側の敗訴で終結します。
7.梅沢氏たちに提訴を働きかけたのが、当時「沖縄プロジェクト」と称する沖縄戦の歴史歪曲策を推進していた「自由主義史観研究会」の藤岡信勝氏と同氏を支援していた『産経新聞』でした。
彼らは、裁判を起こさせ、それを根拠に教科書の「集団自決」記述の歪曲検定を、文科省に強行させたわけです。
この限りでは、彼らの”作戦”は大成功だったことになります。
8.けれども、彼らの作戦は間もなく破たんします。
肝心の裁判の法廷で原告の梅沢氏が「大江氏の『沖縄ノート』を読んだ時期」を問われて、提訴後1年ぐらいしてからと答えたのです。提訴が本人の発意でないことは明白になったこの証言は、2007年11月9日のことです。
9.さらに文科省は、「記述変更の検定意見の主要な根拠を、05年に提訴された裁判とするのであれば、同じ記述が検定に申請されていた05年度検定でその記述をなぜ問題にしないで合格にしたのか?」と問われて、しどろもどろになり「根拠の一つにすぎない」と言い換えます。
その一方で、沖縄の怒りが爆発することになった06年度検定結果が公表されたのは、07年3月末でした。ところがその翌月の07年4月から、05年度検定で「問題なし」とした「日本軍によって『集団自決』を強制された」旨の記述を載せた「日本史」教科書で、全国の高校生が学習を始めていたのです。
現在の検定制度では、検定意見の一つでも拒否すると、その教科書は丸ごと一冊が不合格になります。それほど検定意見は重いもののはずです。いかに06年度検定での「集団自決」記述歪曲検定が不当なものであったかはこのことからも明らかです。
10.さらにこうした無理に加え、「大江・岩波裁判」の敗訴続きで文科省はますます窮地に追い込まれます。そこで新たに言い出したのが「私人間の争いについて口を挟む立場にない」という、逃げ口上でした。
ある時は教科書検定という行政処分の権限行使の根拠に位置付けながら、形勢不利となると無関係を決め込む、情けないありさまです。
第三次家永訴訟で国側がグーの音も出せなかった東京高裁・川上判決による国側違法の論理(恣意的便宜的な法規の解釈や運用は職権乱用で違法である、というもの。後に最高裁もこの論理を採用し、国側の敗訴が確定)に反しているのは明らかです。
検定意見で記述改変を強要された執筆者の中の一人でもこの件で提訴していれば、原告勝訴は確実だったはずです。
11.しかし現実は厳しく、文科省という蛇ににらまれたカエル同然の存在である教科書会社や執筆者から、この件で提訴されることはなく、文科省は命拾いをしたことになっています。
12.けれども沖縄県民は納得していません。07年9月29日の県民大会に11万6000人が結集したのを受けて、第1次安倍政権の後を継いだ福田内閣の渡海文科大臣が、検定制度の見直しと著者側からの「訂正申請」があれば記述の再改変に応じるとの方針を、表明するところまで追い込まれます。
13.本来であれば文科省が謝罪し、検定意見を撤回すべき事柄だと、沖縄側は考えていました。それでもとりあえずの対応策としての、訂正申請を供給本印刷前に済ませるとの著者側の取り組みを見守ることにしました。
14 結果として07年12月26日に、執筆者側が一斉に提出した訂正申請を文科省が承認し、「日本軍によって『集団自決』においこまれたり」などの記述が”復活”します。
15 同時に執筆者側は、訂正申請に乗じて新たに「これを『強制集団死』とよぶことがある」と加筆したりしました。
さらに次のような新たな記述まで申請され、文科省は承認に追い込まれたのでした。
本文=「2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の『集団自決』に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった。」
注記=「沖縄県では、県議会・全市町村議会で検定意見撤回を求める意見書が可決され、同年9月には大規模な県民大会が開催された。」
16 文科省側は、沖縄の島ぐるみ・超党派の抗議の声を無視できないとし、訂正申請に応じることで、何とか検定意見の撤回は回避できた形です。
けれども、上記15のような加筆を認めさせられたことで、検定官たちは敗北感を強く覚えたはずです。
17 但し、沖縄側には強い不満が残りました。検定意見が撤回されなかっただけでなく、日本軍による「強制」の二文字の復活が認められなかったことです。
18 そのため、12月26日の訂正申請承認について、「本土」の全国紙各紙は横並びで、日本軍の「『関与』復活」と報道したのに対し、沖縄では「『軍強制』認めず」と『琉球新報』『沖縄タイムス』がともに強調しました。
「本土」側はこれでともかく一件落着ということにしようとしたのに対し、沖縄側は納得できないとしたのです。
19 2008年1月、沖縄では「9・29県民大会」実行委員会の主要メンバーが、状況の評価と今後についての協議をし、12・26の訂正申請による記述復活は不十分であることが確認されます。
そこで改めて、県民大会の決議(検定意見の撤回と記述の完全な復活をめざす)を実現させるために、当初の呼びかけ6団体によって新たに「県民大会決議を実現させる会(実現させる会)」を発足させ、粘り強く教科書会社や文科省に働きかけを継続することが議決されました(県民大会実行委員会も解散していません)。
20 その後、「実現させる会」は毎月29日に定例会を開催し、時宜に合わせて文科省や教科書会社への要請行動を年に最低1回は実施。さらに毎年9月29日には1年間の活動を集約する集会を開催してきました。
間もなく迎える今年16年9月29日には「県民大会から9年目集会」を開催します。
21 これまでのほぼ9年間の「実現させる会」の活動をどう評価するか。沖縄の人々の粘り強さ、あきらめず・へこたれない意思の強靭さ、不屈の精神の現れ等々、さまざまに言えそうです。一つだけ確かなのは同会の月例会議や東京要請行動などの都度、沖縄の県紙2紙が必ずその様子を報道し、全県に「集団自決」記述の歪曲検定問題で文科省を問い詰め続けていることが伝わっているということです。
月例の会議のために沖縄を訪れる機中やモノレール車内で、声をかけられたり、無言ながら会釈で、「続けているのですね」との励ましの思いを送りつけられる私(高嶋)の経験は、最近も繰り返されています。
22 そうした地味な取り組みの様子は、歴史の教科書の編集者や執筆者にも伝わっています。そのことを証明しているのが、中学校歴史教科書での沖縄戦開始時期についての記述の変化なのです。
23 「集団自決」歪曲検定事件が発覚した07年3月当時、中学歴史教科書は8冊ありました。その内の5冊は3月下旬のケラマ諸島への艦砲射撃や上陸戦の開始の事実に合わせて、沖縄戦が3月から開始されたと正確に記述していました。
一方で残りの3冊は、以前からの俗説のままに沖縄本島上陸の4月1日から沖縄戦が開始されたという記述でした(そのうちの1冊が藤岡氏による扶桑社版です)。
それらは、2004年度検定に合格したものでした(添付資料参照)。
24 それが現在の中学歴史教科書8冊(2014年度検定合格)では、すべてが沖縄戦は3月から開始されたとする、正確な記述に変わっています(添付資料参照)。藤岡氏の自由社販や八木秀次氏の育鵬社版もです。
25 本島上陸以前にケラマ諸島攻撃があったという事実そのものに執筆者たちが気づいたからという単純な経緯であった可能性もあります。ただそれにしてもケラマ諸島攻撃に話や関心がなぜ及んだのかということを考えると、ケラマ諸島への上陸時にこそ集中的に「集団自決」が多発したという事実の関連性を切り離せないことになります。
上記の「大江・岩波裁判」で事実関係が争われたのも、ケラマ諸島一つ座間味島での「集団自決」をめぐってのことでした。
26 その「大江・岩波裁判」は、上記のように藤岡氏たちによる「集団自決」に関する歴史改ざん策の一環として画策されたものです。そして、06年度検定での「集団自決」記述歪曲検定も、歴史修正主義を標榜する安倍首相の登場を受けて文科官僚が政治的な行動に踏み切った結果であると、考えられます。
27 そうした時に、沖縄と大阪を中心に不当な歴史修正主義による沖縄戦の歴史改ざんの動きに抵抗する取り組みが生まれ、焦点の「集団自決」は3月下旬のケラマ諸島上陸時に多発したという事実を、歴史教科書の執筆者たちが改めて認識する機会となったわけです。
結果として、現行版の中学歴史教科書8冊すべてに、沖縄戦が3月から始まったと事実に即した記述が掲載され、そこから「集団自決」に話題を広げる手がかりともなった、と評価できます。
28 ところが高校の「日本史A・B」の教科書の場合、3月からと正しく記述しているのが「日本史A」では7冊中の5冊、「日本史B」では8冊中4冊にすぎません(添付資料参照)。
そこで「実現させる会」では、4月からと誤解させる記述をしている「日本史A・B」教科書(6冊のうち5冊が山川出版、もう1冊の実教版は中途半端)について、記述の改善を要望してきました。
そこへ降って湧いたのが帝国書院版『新現代社会』のコラム「沖縄とアメリカ軍基地」の騒ぎの中で、冒頭部分の問題記述「第二次世界大戦中の1945年4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸」に気づかされたという次第です。
この記述を修正するべきだということは、「実現させる会」の東京要請行動で、帝国書院を訪問した際と教科書課と交渉した際(16年4月)に、それぞれ伝えてありました。
今回の訂正申請でこの部分が訂正されたのは、要請が生きたのだと、我々は受け止めています。
29 「実現させる会」では、山川出版に対しても「日本史A・B」教科書5冊で「4月1日に沖縄本島上陸から沖縄戦~」との記述になっているのを訂正するように、引き続き要請しています。そのためにも今回の帝国書院版のこの部分の訂正は、好都合なことと受け止めています。
30 長い経過説明になりましたが、帝国版『新現代社会』のコラムの「45年4月」が「45年3月」に修正されたことで、沖縄戦を語るときには触れないわけにはいかない「集団自決」の事実に言及しやすい教科書記述をさらに整えることができた、と考えています。
31 「実現させる会」は、歪曲検定を仕掛けた側の意図をくじき、逆にそれへの反撃の取り組みによって「集団自決」への関心度や認知度を高めることを目指しています。
そうすることが藤岡信勝氏や安倍首相などの歴史修正主義者たちに「余計なことをしてしまった。逆効果だった」という、ほぞをかむ思いをさせることにもなり、同じ策略を思いとどまらせることにも通じると、考えています。
32 沖縄戦について学習する際には、この沖縄戦開始時期が正確に語られているかに着目し、そこから「集団自決(強制集団死)」の事実に話題を結びつけられるよう望みます。
特に現行版の山川出版の「日本史A・B」教科書は5冊ともこの点において、不正確な記述になっているので、使用中の高校では補足の説明をされるよう希望します。
以上 今回も文責は高嶋です 転送・拡散は自由です
*添付禁止のMLには添付資料を略しました。
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