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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

憲法と私

2011年05月06日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 『都高退教ニュース』から
 ◆ 憲法と私
会員 柴田弘武

 ◆ これが新しい憲法というものか

 私は1932年生まれである。憲法を語るためにはやはり敗戦から始めねばならない。
 私は早生まれだったので、1945年8月15日の敗戦時は藤沢市にある旧制中学2年生であった。
 その年5月29日の横浜大空襲で家を焼かれ、姉・兄と3人で父の知り合いや親戚の家を転々として中学に通っていた(母や弟妹は父の故郷である奈良県の阪合部村<現五條市>に疎開していた。父は両者を往き来していた)。といっても学校にいくのではなく、いわゆる学徒動員ということで小田原で塹壕掘りをやらされたり、平塚の海軍工廠で働かされたりであった(平塚は7月16~17日と30日の空襲で焼けた)。
 8月15日のいわゆる「玉音放送」はその海軍工廠の焼け跡で聞かされた。9月に入って学校が始まったが、私は勉強どころではなく、飢えとシラミとの戦いの始まりであった。そしてとうとう負けて、その年の12月には私も家族のいる五條市に引き揚げたのである。
 中学はどういう訳か、隣県の和歌山県立1中学に転校することになった。そこで中学の3~4年を過ごす。そして1948年4月を迎えるのである。この年から新制高校が発足したのだ。
 本来なら中学5年生になるはずのところを、新制高校2年生に編入ということになった。新制高校は旧制中学と旧制高等女学校がそれぞれ男女共学の高校になり、居住区によってどちらかの高校が決められた。私は旧制高等女学校だったH高校に編入となった。
 1948年5月10日(4月には校舎の設備が整わず遅れた)、私たち旧制中学組は中学の教師に引率されて、H市の丘の上にある新制高校の門をくぐった。
 そのとき私は初めて異性という者に出会った感がした。すなわち校舎に入った途端、何とも言えない甘酸っぱい女の匂いが漂っていたのである。それまでのI中学は戦後も軍国主義の名残が濃厚で、生徒もいわゆるバンカラ学生だっただけにその違いは強烈だった。なにしろ「男女7才にして席を同じうせず」という教育を昨日まで受けていたのである。学校も急拵えの男子便所は設けられたものの、他の設備は女学校のままだ。畳敷きの作法室や小綺麗な中庭の花壇など、いかにも女の園そのものだった。新制H高校に残った女学生も異文化にショックを受けたに違いない。
 いずれも性に目覚める年頃であり、その高校生活は相当ぎこちないものとして始まった。教師たちも随分途惑ったと後で聞いた。でもそれはいかにも初々しい始まりであった。私たちはどちらかといえば暗かった中学生活から突如解放され、いわば水を得た魚のように生き生きと、新しい制度の開拓者たらんと動き始めた。
 教室の座席は教壇に向かって左側3分の2を男子が、右廊下側に女子が3分の1の数で座った。男どもはその右側にいる女子達にいいところを見せようと、それぞれが精一杯背伸びをしていた。
 秋になった。高校初めての運動会や文化祭も行われた。運動会では女学生がブルマー姿になり、太股も露わにして走る姿のなんと眩しかったことか。フォークダンスというのも初めての経験だ。踊りながら異性と手が触れるたびに胸が高鳴るのであった。文化祭では憧れのマドンナがソプラノで独唱する声に痺れた。あちこちで幼い恋が始まっていた。町に一つしかない映画館で、アメリカ映画「哀愁」が上映されたことは、いやがうえにも少年・少女たちの恋心を刺激したに違いない。
 民主主義という言葉が輝いていた。校歌も校章も教師・生徒から募集した。校歌は若い国語のI先生の作詞が、校章はなんと私が描いた図案が全教師・生徒の投票で選ばれた。
 男女共学、民主主義、自由で伸び伸びした学校生活の日々。私は、ああこれが新憲法なのだと思ったものである。
 ◆ 憲法を教えて
 私は1955年に大学を卒業してすぐ東京都の区立中学校の教師になった。社会科担当だったので、3年生には「日本国憲法」も教えるようになった。
 私はそれまで憲法について特に勉強もしてこなかったので、改めてこの時憲法を読み直したように思う。前から思っていたとはいえ、その第1章天皇には深い違和感を禁じ得なかった。
 まず第1条天皇は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」とあるがその「象徴」というのがよくわからない。しかもその地位が日本国民の総意に基づくとあるが、いつ、どのようにしてその総意なるものが確認されたのか?
 敗戦後から46年11月3日の憲法公布の日まで、天皇を象徴とするかしないかを、主権の存する国民は間われたことはない。当時共産党と高野岩三郎は天皇制の全面廃止を主張していたというから、仮に国民の多数が象徴天皇を認めていたとしても、「国民の総意」というのは欺瞞ではないか、と思われるのであった。
 天皇制と民主主義は相対立する概念である。この矛盾を許容する日本的な曖昧性が不愉快であった。しかしそれを中学生に伝えることはしなかった。
 時代はすでに菊タブーの雰囲気だったように思う(59年=皇太子結婚・ミッチーブーム、61年=深沢七郎「風流夢譚」事件)。教員の世界では勤評闘争が始まっていた。
 第1章のほか私が不審に思ったのは、第66条②項の「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」であった。
 文民とは何か、おそらく軍人でない人をさすのであろう。しかし第9条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と規定しているのであるから、軍人が存在するはずがないではないか。なぜここで「文人」と限定してあるのかがわからない。
 この矛盾については中学生にも教えたような記憶がある。しかしもうすでに警察予備隊→保安隊→自衛隊(54年)と軍隊の既成事実は進んでおり、それを矛盾と捉える雰囲気はなかったように思う。それらの矛盾を含みながらも、この憲法がもつ平和主義、人権尊重の精神は何よりも貴重な財産であることを教えることのほうが重要であることはいうまでもなかった。そしてそれは受験のための暗記授業ではなく、自らの青春時代を顧みながらあくまでも実際生活との関連で考えさせようと努力したつもりである
 たとえば第9条の学習では、自衛隊は違憲か合憲か、という問題提起をして、いわゆるディベート学習を必ずやったものだ。
 それは9年後に定時制高校に移ってからも実践した。初めの頃はやはり違憲説が多数を占めていたが、時代と共に変化し、定時制の終わりの頃には「そんなのどっちでもいいじゃねえか」という状況に陥ってしまって、気持ちが萎えてしまった。中学校でのことであったが、「政府が認めているのだから合憲に決まっている」という答えにも驚いた。
 定時制高校では試験で点の悪かった者には追試験というものをやることになっていたが、多くの場合試験をやる代わりに、憲法前文をノートに書かせる事をやった。ある生徒は「あのおかげで、俺今も前文(一部であろうが)を暗誦できるよ」と威張っていた者もいる。
 ◆ いま憲法を考える
 私は退職した後は特に憲法を研究するようなことはなかったのだが、2001年にジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて』を読んで、上記した第1章や「文民」の謎がようやく理解できたことを告白せざるを得ない。
 また新たに「そうだったのか」と教えられたことも多々あった。第1章はまさにアメリカが第9条と引き替えに提起したもので、二つはセットであった。当時の吉田内閣はこれを受け入れた。
 第9条については当時共産党は自衛のための戦力も放棄するのかと迫ったが、吉田首相はかつての戦争は自衛のためという名分で戦争をした、従って9条は自衛のための戦力も含む、と答えている。それは天皇制を残すためにはどんな無理でも聞いていくという信念にもとづくものであった(天皇をはじめ国の重臣は全部そうだった)。
 「civilian」という用語に対して貴族院は「文民」という造語をひねり出したが、「この奇妙な文民条項は、第九条はいかなる戦力の保持も禁ずるものであるという主張を弱めるという、意図せざる効果をもたらすことになった」(『敗北を抱きしめて』)。
 こうして吉田は臆面もなく先の主張を覆して、朝鮮戦争下アメリカの要請するままずるずると再軍備に向かっていったのだ。要するに第一章が守られるならば、後はどうなろうと構わなかったのである。
 ジョン・ダワーは次のようにも書いている。「一九七五年、あるジャーナリストが日本の価値観に変化があったかと聞いたとき、天皇はもう少しわかりやすい言葉で同じことを次のように述べた。『戦争が終わってから、国民はいろいろな意見を述べてきました。しかし広い視野からみれば、戦前と戦後で変化があったとは私は思いません』。」
 これが戦後の支配階級の意識だったのだ!そしてそれを保証するのが第1章の天皇条項なのだ。
 それはじわじわと憲法の尊厳を腐食させ、日の丸・君が代の強制を合憲とする状況に至らしめていると考える。「後はもう奉安殿を待つばかり」(松永昌次)これは2011年2月4日の「朝日川柳」に載ったものである。
 そのほか草案のpeople国民と訳した詐術にも改めて驚かされた。これによって在日外国人は憲法外にはじき出されたのである。
 従って私は憲法を「一字一句変えてはならない」という主張には組することはできない。今すぐ改正を主張するつもりはないが、護憲といってもそれには留保をつけたいのである。

『都高退教ニュース No.78』(2011/3/31)
東京都高等学校教職員組合退職者会広報部

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