《第2回「日の丸・君が代」裁判 全国学習・交流集会 8・13学習・交流から》
◇ 「子どものための教育」を求めて
(2011年6月14日 最高裁第3小法廷)
1.私たち3人の原告が裁判の争点としてきたこと
争点① 強制は、私たちの思想・良心の自由に反する
日の丸・君が代が侵略戦争で果たした役割と、その反省もなく現在の日本でこれが強制されることの意味を考えると、日の丸・君が代の強制に従うことはできない。強制は憲法違反である。
争点② 強制は、子どもたちの教育に対する、権力の不当な介入である
舞台正面に日の丸と市旗のみを掲示するために卒業式の主人公である子どもたちが制作した卒業パネルを飾らせず、卒業式の内容は変質させられた。子どもたちの教育にとって大切なことは何か。日の丸・君が代の強制は、教育全般への権力の介入の動きを象徴する出来事であり、憲法および旧教育基本法に反する。
2.「子どものための教育」を求めて(おもに争点②に関して)
私たち3人が在職していたそれぞれの学校では、最後の授業である卒業式に卒業生が制作する大パネルを舞台正面に飾り、その前で卒業証書を受け取り、合唱や言葉を発表するという形式を伝統的につくり上げてきていました。
しかし2003年度の卒業式では、日の丸によってパネルの掲示が排除、或いは証書授与等の場面で隠させられたりしました。そして2004年度の入学式からは舞台正面にパネルは一切飾れなくなりました。
3校の中には、日の丸・君が代の強制に対する疑問やパネルの排除に抗議して圧倒的多数の卒業生が君が代で起立しなかった学校もあります。
3年間の集大成としての卒業式に子どもたちが舞台正面に大きくかかげるパネルを、不当にも排除するというこの問題は、教育行政による学校現場、教育内容への介入の問題です。
私たちは裁判の大きな争点の一つとしてこの問題をすえ、学校とは何か、子どもたちのための教育とは何かを、日々の教育活動とからめて具体的に訴え、裁判所が誠実に審理するよう求めてきました。
強制をめぐるこの裁判は子どもたちの教育にかかわる大問題です。単に私たち教師の問題ではなく子どもたちの問題であることから、裁判にあたって卒業生たちに裁判への理解と協力を求める取り組みをしました。
当時の卒業生全員に裁判の知らせのハガキを出したりもしました。こうして、裁判の経過の中で何人もの卒業生が裁判を傍聴してくれたり、また、2009年には2人の卒業生が高裁に陳述書の提出もしてくれました。
卒業生の陳述書には
「一体だれのための卒業式なのか。国のための卒業式ではなく、自分たちの卒業式なのになぜこのように土足で踏みにじるようなやり方をされなければならないのかと強く抗議したい気持ちです。」
「私たち生徒は、美術の得意な子も苦手な子も一丸となって卒業制作を作り上げてきました。それが、教育委員会による上からの指示一つで、中学生活最後の総決算として生徒全員で作り上げたものが幕で隠されることになったのです。生徒の卒業制作が、なんでこんな邪魔扱いされなければならないのか、全く理解できませんでした。」
「このような処分が当たり前になってしまっては、結局、生徒自身が立って歌いたくないと思っても、「自分のせいで先生が処分されるかもしれない」というプレッシャーから歌わなくてはいけない状況になってしまいます。結局、先生への強制というだけでなく、それを通じて生徒自身への強制の意味も持つものだと思います。」
「このような、強制的に全員を同じ方向に従わせていくやり方がまかり通っていることに対しては、それこそ戦前と変わらないと、ぞっとする思いです。」
「卒業制作よりも日の丸・市旗が優先されるのが当たり前にさせられていくことの怖さを感じます。生徒のためのものであるはずの卒業式を、日の丸・君が代を教え込むための場にしないで下さいということを強く言いたいです。」
ということも書かれていました。
また、「あの時の強制はとても苦しかった」という手紙ももらい、証拠として高裁に提出しました。
裁判の報告集会には卒業生や時には保護者の方も参加して下さり、卒業生は発言もしてくれました。こうしたことが私たち原告や私たちを支えて下さっている全ての人たちに大きな励ましとなったことが、強い印象として今日残っています。
卒業生の陳述書や発言は、「子どもたちのための教育」とは何かという視点に立った審理を、裁判所が避けて通ってはいけないということを明らかにしてくれています。
3.最高裁判決(2011年6月14日)
争点①について
2003年度都教委通達や職務命令、それに基づく処分は、「個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約になる」ことは認めながらも、「式典を円滑に進行する目的や公務員の公共性に照らし、制約する必要性、合理性はある」とする不当な合憲判決。
*反対意見1名(起立命令は合理性あり。斉唱命令には信条に係る内心の核心的部分あるいは外縁部分を侵害する可能性がある。差し戻しを。:田原裁判長)
*補足意見3名(教室における授業の際には…一定の範囲で担当教員の裁量に委ねられる部分があるが…学校全体の行事については…統一的に実施することが必要であり、各教員の上記裁量権等によって影響を受けるものではない:那須裁判官)
(当該不利益処分を課すことが裁量権の逸脱または濫用に該当する場合がありうる:岡部裁判官)
(教育関係者の相互の理解と慎重な対応が期待される:大谷裁判官)
争点②について
一審から、日々の教育実践をからめつつ具体的に訴えてきたが、裁判所は事実の把握や検討への真摯な姿勢をまったく示さず、最高裁判決でも何一つふれていない。
4.これからの取り組みについて
子どもたちの命と人権を守り、平和を築き、自分の力で考えながら仲間とともにのびやかに生きていく子どもたちを育てるために、教育現場にとって大切なことは何か、教育現場にあってはならないことは何か、このことが問われている裁判でした。
日の丸・君が代の強制以来、教育現場から「話し合い」は排除され、管理統制と競争主義の強化は多くの教職員を追い詰め、また子どもたちを不安定にさせています。子育てに不安を抱えている保護者もたくさんいます。
だからこそ、今後いっそう「子どものための教育」を求める運動を展開し、世論を大きく育てていくことが求められています。
「日の丸・君が代強制反対!不当処分撤回をめざす3人の先生を支える会」は今後、「日の丸・君が代の強制に反対し、子どもと教育を守る会」(仮名)をつくり、裁判支援、学習会、市民的理解を広める運動を展開していこうと話し合っています。
◇ 「子どものための教育」を求めて
(2011年6月14日 最高裁第3小法廷)
[八王子] 川崎壽江、山下訓弘、山口洋子
1.私たち3人の原告が裁判の争点としてきたこと
争点① 強制は、私たちの思想・良心の自由に反する
日の丸・君が代が侵略戦争で果たした役割と、その反省もなく現在の日本でこれが強制されることの意味を考えると、日の丸・君が代の強制に従うことはできない。強制は憲法違反である。
争点② 強制は、子どもたちの教育に対する、権力の不当な介入である
舞台正面に日の丸と市旗のみを掲示するために卒業式の主人公である子どもたちが制作した卒業パネルを飾らせず、卒業式の内容は変質させられた。子どもたちの教育にとって大切なことは何か。日の丸・君が代の強制は、教育全般への権力の介入の動きを象徴する出来事であり、憲法および旧教育基本法に反する。
2.「子どものための教育」を求めて(おもに争点②に関して)
私たち3人が在職していたそれぞれの学校では、最後の授業である卒業式に卒業生が制作する大パネルを舞台正面に飾り、その前で卒業証書を受け取り、合唱や言葉を発表するという形式を伝統的につくり上げてきていました。
しかし2003年度の卒業式では、日の丸によってパネルの掲示が排除、或いは証書授与等の場面で隠させられたりしました。そして2004年度の入学式からは舞台正面にパネルは一切飾れなくなりました。
3校の中には、日の丸・君が代の強制に対する疑問やパネルの排除に抗議して圧倒的多数の卒業生が君が代で起立しなかった学校もあります。
3年間の集大成としての卒業式に子どもたちが舞台正面に大きくかかげるパネルを、不当にも排除するというこの問題は、教育行政による学校現場、教育内容への介入の問題です。
私たちは裁判の大きな争点の一つとしてこの問題をすえ、学校とは何か、子どもたちのための教育とは何かを、日々の教育活動とからめて具体的に訴え、裁判所が誠実に審理するよう求めてきました。
強制をめぐるこの裁判は子どもたちの教育にかかわる大問題です。単に私たち教師の問題ではなく子どもたちの問題であることから、裁判にあたって卒業生たちに裁判への理解と協力を求める取り組みをしました。
当時の卒業生全員に裁判の知らせのハガキを出したりもしました。こうして、裁判の経過の中で何人もの卒業生が裁判を傍聴してくれたり、また、2009年には2人の卒業生が高裁に陳述書の提出もしてくれました。
卒業生の陳述書には
「一体だれのための卒業式なのか。国のための卒業式ではなく、自分たちの卒業式なのになぜこのように土足で踏みにじるようなやり方をされなければならないのかと強く抗議したい気持ちです。」
「私たち生徒は、美術の得意な子も苦手な子も一丸となって卒業制作を作り上げてきました。それが、教育委員会による上からの指示一つで、中学生活最後の総決算として生徒全員で作り上げたものが幕で隠されることになったのです。生徒の卒業制作が、なんでこんな邪魔扱いされなければならないのか、全く理解できませんでした。」
「このような処分が当たり前になってしまっては、結局、生徒自身が立って歌いたくないと思っても、「自分のせいで先生が処分されるかもしれない」というプレッシャーから歌わなくてはいけない状況になってしまいます。結局、先生への強制というだけでなく、それを通じて生徒自身への強制の意味も持つものだと思います。」
「このような、強制的に全員を同じ方向に従わせていくやり方がまかり通っていることに対しては、それこそ戦前と変わらないと、ぞっとする思いです。」
「卒業制作よりも日の丸・市旗が優先されるのが当たり前にさせられていくことの怖さを感じます。生徒のためのものであるはずの卒業式を、日の丸・君が代を教え込むための場にしないで下さいということを強く言いたいです。」
ということも書かれていました。
また、「あの時の強制はとても苦しかった」という手紙ももらい、証拠として高裁に提出しました。
裁判の報告集会には卒業生や時には保護者の方も参加して下さり、卒業生は発言もしてくれました。こうしたことが私たち原告や私たちを支えて下さっている全ての人たちに大きな励ましとなったことが、強い印象として今日残っています。
卒業生の陳述書や発言は、「子どもたちのための教育」とは何かという視点に立った審理を、裁判所が避けて通ってはいけないということを明らかにしてくれています。
3.最高裁判決(2011年6月14日)
争点①について
2003年度都教委通達や職務命令、それに基づく処分は、「個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約になる」ことは認めながらも、「式典を円滑に進行する目的や公務員の公共性に照らし、制約する必要性、合理性はある」とする不当な合憲判決。
*反対意見1名(起立命令は合理性あり。斉唱命令には信条に係る内心の核心的部分あるいは外縁部分を侵害する可能性がある。差し戻しを。:田原裁判長)
*補足意見3名(教室における授業の際には…一定の範囲で担当教員の裁量に委ねられる部分があるが…学校全体の行事については…統一的に実施することが必要であり、各教員の上記裁量権等によって影響を受けるものではない:那須裁判官)
(当該不利益処分を課すことが裁量権の逸脱または濫用に該当する場合がありうる:岡部裁判官)
(教育関係者の相互の理解と慎重な対応が期待される:大谷裁判官)
争点②について
一審から、日々の教育実践をからめつつ具体的に訴えてきたが、裁判所は事実の把握や検討への真摯な姿勢をまったく示さず、最高裁判決でも何一つふれていない。
4.これからの取り組みについて
子どもたちの命と人権を守り、平和を築き、自分の力で考えながら仲間とともにのびやかに生きていく子どもたちを育てるために、教育現場にとって大切なことは何か、教育現場にあってはならないことは何か、このことが問われている裁判でした。
日の丸・君が代の強制以来、教育現場から「話し合い」は排除され、管理統制と競争主義の強化は多くの教職員を追い詰め、また子どもたちを不安定にさせています。子育てに不安を抱えている保護者もたくさんいます。
だからこそ、今後いっそう「子どものための教育」を求める運動を展開し、世論を大きく育てていくことが求められています。
「日の丸・君が代強制反対!不当処分撤回をめざす3人の先生を支える会」は今後、「日の丸・君が代の強制に反対し、子どもと教育を守る会」(仮名)をつくり、裁判支援、学習会、市民的理解を広める運動を展開していこうと話し合っています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます