=このひとにInterview (社会新報)=
◆ 教育勅語の復活を許さない
教育勅語問題で指摘する元都立高校教諭 花輪紅一郎さん
(聞き手=ジャーナリスト・永尾俊彦)
-「殺すな」「盗むな」「うそをつくな」「淫行するな」の4つは仏教の五戒と旧約聖書の十戒に共通だが、教育勅語には含まれていない-この先生の朝日新聞への「『教育勅語』切り売りは無意味」という投書(6月10日)はネットで次々に転送され、「目からウロコが落ちた」「膝を打った」など反響が大きかったそうですね。
◆ 4つの徳目を欠落
○花輪紅一郎元都立高校教諭 はい。安倍内閣は今年4月1日、憲法や教育基本法に反しない限り授業で教育勅語を使うことを認める閣議決定をしました。そして、菅義偉官房長官は4月3日の記者会見で、「親を大切にする、兄弟姉妹は仲よくする、友達はお互いに信じ合うなど、ある意味で人類普遍のことまで否定はすべきではない」と述べました。
そこで、私は高校で倫理を教えていましたが、授業で取り上げる仏教の五戒、旧約聖書の十戒と教育勅語を比較してみました。すると「殺すな」など五戒と十戒に共通する4つの徳目が入っていないことに気付きました。東洋を代表する仏教と西洋を代表するキリスト教に共通の4つの徳目が落ちているのですから、教育勅語に普遍性があるかのごとき指摘は全く当たりません。
-「殺すな」を入れなかったのは戦争ができなくなるからでしょうか。
○花輪 明治時代に教育勅語を作った井上毅らはそこまで意図していなかったでしょうが、教育勅語が人命尊重や略奪禁止を掲げていたら、侵略戦争や日本兵の残虐行為はなかったでしょう。
◆ 「君への忠」を優先
何より、「教育勅語」の「1丁目1番地」は冒頭の「君への忠」です。これは、「親は大切にする」以降に羅列される徳目とは別格です。天皇の祖先である皇祖皇宗が国を始めて徳をたてたので臣民は「君への忠」という美風をつくり上げてきた。これこそが国体の精華で、教育の淵源だとハッキリ書いてあります。
五戒も十戒も、最も重要な徳目は冒頭にあります。五戒では「不殺生戒」、十戒では「あなたには、私の他に神々があってはならない」です。教育勅語は「忠孝」が筆頭ですから、身分制を前提にした封建道徳です。
-「奴隷の道徳」と呼んでいる人もいますね。
○花輪 そうですね。仮に、「父母に孝」なら「君に不忠」は許されるのでしょうか。許されません。優先されるのは「忠」です。天皇への絶対服従なのです。
しかし、現行の教育基本法の教育の目的は民主主義社会における個人の「人格の完成」で、これが筆頭項目です。ですから、他の徳目との間に矛盾が生じた場合、優先すべきは上への「忠孝」ではなく、個人の「人格の完成」です。
だから、教育勅語は民主主義社会とは絶対に相いれず、戦後国会で「失効」が決議されたのです。
◆ 「人格の完成」こそ
-にもかかわらず、安倍内閣が授業での教育勅語使用を認める閣議決定をしたことをどう見ますか。
○花輪 教育勅語は、封建道徳の例として批判的に使う以外考えられません。菅官房長官が述べたような普遍性があるかのごとき使い方は、国家に利用される人の育成にしかつながりません。
私は、東京「君が代」裁判の原告でもありましたが、教育勅語の復活は、日の丸・君が代の学校現場への押しつけ以上に、もっと露骨に戦後民主教育の徹底した全否定を目指すものです。
【教育勅語】
大日本帝国憲法公布(1889年)の翌90(明治23)年に公布。中央集権国家体制を支える臣民の育成のため、また自由民権運動を抑えるために山県有朋内閣総理大臣の下、井上毅(こわし)法制局長官、元田永孚(もとだ・ながざね)枢密顧問官らが作成。
内容は、①天皇の道徳形成と臣下の忠誠が教育の根源、②父母への孝行など臣民の体得すべき12の徳目、③この道の無謬(むびゅう)性と臣民がそれを体得することへの天皇の要望-の3点。
『社会新報』(2017年8月23日)
◆ 教育勅語の復活を許さない
教育勅語問題で指摘する元都立高校教諭 花輪紅一郎さん
(聞き手=ジャーナリスト・永尾俊彦)
-「殺すな」「盗むな」「うそをつくな」「淫行するな」の4つは仏教の五戒と旧約聖書の十戒に共通だが、教育勅語には含まれていない-この先生の朝日新聞への「『教育勅語』切り売りは無意味」という投書(6月10日)はネットで次々に転送され、「目からウロコが落ちた」「膝を打った」など反響が大きかったそうですね。
◆ 4つの徳目を欠落
○花輪紅一郎元都立高校教諭 はい。安倍内閣は今年4月1日、憲法や教育基本法に反しない限り授業で教育勅語を使うことを認める閣議決定をしました。そして、菅義偉官房長官は4月3日の記者会見で、「親を大切にする、兄弟姉妹は仲よくする、友達はお互いに信じ合うなど、ある意味で人類普遍のことまで否定はすべきではない」と述べました。
そこで、私は高校で倫理を教えていましたが、授業で取り上げる仏教の五戒、旧約聖書の十戒と教育勅語を比較してみました。すると「殺すな」など五戒と十戒に共通する4つの徳目が入っていないことに気付きました。東洋を代表する仏教と西洋を代表するキリスト教に共通の4つの徳目が落ちているのですから、教育勅語に普遍性があるかのごとき指摘は全く当たりません。
-「殺すな」を入れなかったのは戦争ができなくなるからでしょうか。
○花輪 明治時代に教育勅語を作った井上毅らはそこまで意図していなかったでしょうが、教育勅語が人命尊重や略奪禁止を掲げていたら、侵略戦争や日本兵の残虐行為はなかったでしょう。
◆ 「君への忠」を優先
何より、「教育勅語」の「1丁目1番地」は冒頭の「君への忠」です。これは、「親は大切にする」以降に羅列される徳目とは別格です。天皇の祖先である皇祖皇宗が国を始めて徳をたてたので臣民は「君への忠」という美風をつくり上げてきた。これこそが国体の精華で、教育の淵源だとハッキリ書いてあります。
五戒も十戒も、最も重要な徳目は冒頭にあります。五戒では「不殺生戒」、十戒では「あなたには、私の他に神々があってはならない」です。教育勅語は「忠孝」が筆頭ですから、身分制を前提にした封建道徳です。
-「奴隷の道徳」と呼んでいる人もいますね。
○花輪 そうですね。仮に、「父母に孝」なら「君に不忠」は許されるのでしょうか。許されません。優先されるのは「忠」です。天皇への絶対服従なのです。
しかし、現行の教育基本法の教育の目的は民主主義社会における個人の「人格の完成」で、これが筆頭項目です。ですから、他の徳目との間に矛盾が生じた場合、優先すべきは上への「忠孝」ではなく、個人の「人格の完成」です。
だから、教育勅語は民主主義社会とは絶対に相いれず、戦後国会で「失効」が決議されたのです。
◆ 「人格の完成」こそ
-にもかかわらず、安倍内閣が授業での教育勅語使用を認める閣議決定をしたことをどう見ますか。
○花輪 教育勅語は、封建道徳の例として批判的に使う以外考えられません。菅官房長官が述べたような普遍性があるかのごとき使い方は、国家に利用される人の育成にしかつながりません。
私は、東京「君が代」裁判の原告でもありましたが、教育勅語の復活は、日の丸・君が代の学校現場への押しつけ以上に、もっと露骨に戦後民主教育の徹底した全否定を目指すものです。
【教育勅語】
大日本帝国憲法公布(1889年)の翌90(明治23)年に公布。中央集権国家体制を支える臣民の育成のため、また自由民権運動を抑えるために山県有朋内閣総理大臣の下、井上毅(こわし)法制局長官、元田永孚(もとだ・ながざね)枢密顧問官らが作成。
内容は、①天皇の道徳形成と臣下の忠誠が教育の根源、②父母への孝行など臣民の体得すべき12の徳目、③この道の無謬(むびゅう)性と臣民がそれを体得することへの天皇の要望-の3点。
『社会新報』(2017年8月23日)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます