『科学的社会主義』(11月号)から
《特集》行政と権力の狭間で教育の自由は今
◎ 教育をめぐる状況とこれからの課題
「秋の羊蹄山」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》 (略)
二 「日の丸・君が代」強制と新自由主義との関連性
- 「日の丸・君が代」強制問題についてはどうだろう?金子潔「[初めに有罪ありき]権力がデッチ上げた『板橋高校卒業式』刑事弾圧」が、今回の特集では掲載されているね。
深刻な事態であるのに、一読してとても面白かった(笑)。「日の丸・君が代」裁判のでたらめさがよくわかる。様々な証拠をねつ造してでも、「有罪」にしようとする権力側の明確な意志が働いているね。
- ここまでやるのか?という感じだね。
確かにそうだ。でもその一方で、そこまで追い込んでいった運動の粘り強さに着目することが大事だろう。
一九九九年の「国旗・国歌」法の制定、さらには二〇〇三年の東京都教育委員会によって出された「10・23通達」以降も、一〇年以上もの間、不起立・不伴奏をはじめとして、「日の丸・君が代」強制への様々な抵抗運動が続けられてきた。
本誌のかわむらひさこ「「日の丸・君が代」攻撃と全国的ネットワークで闘う!」では、全国の「日の丸・君が代」攻撃とそれへの反対運動が紹介されている。
この運動がどれだけ貴重な意味をもったか、その意義ははかり知れない。あれだけの弾圧があったにも関わらず、「日の丸・君が代」強制の徹底は成し遂げられてはいない。『読売新聞』の社説が強制を是認しているのに対して、『朝日新聞』と『毎日新聞』の社説は依然として強制への批判を続けている。
こうした国論二分の状況をつくり出したのも、教育現場で「日の丸・君が代」強制への抵抗が続けられているからだ。異論を許さないのが全体主義なのだから、彼らの運動は教育現場、さらには社会の全体主義化を阻んできたと言っていい。
- どうしてこれまで闘争が続けられてきたのだろう?
それは戦後の反戦平和教育や教育現場の自由を尊重する運動の蓄積をベースとして、弾圧の強行に対して抵抗する勇気ある教員個人が何人も登場したことだろう。
そしてその一人ひとりが自らのこだわりをもち、個性や魅力あふれる教員であったことも大きい。「板橋高校卒業式」で弾圧された藤田先生の話を集会で聞いたことが何度もあるけれども、いつも笑ってしまう(笑)。なんて個性的で魅力ある先生なんだろう。大切なことは、藤田先生のような教員が存在できる場所として、これまでの教育現場があったということだ。
他の「日の丸・君が代」強制に抵抗した教員個人の周囲にも、応援し、支える教員や保護者、地域住民の存在があったことをおさえておくことが大切だろう。教員個人の意志だけで「日の丸・君が代」強制に抵抗することは困難だ。それを支えるつながりがあってこそ、抵抗を継続することができる。
- 勇気ある個々の教員が、周囲に支えられながら抵抗を続けてきたんだね。そこに粘り強さの原因があったわけだ。それでは運動の課題は何かな?
「日の丸・君が代」強制に対する抵抗運動は、その徹底化を阻み続けてきた。そのことの意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。そのことをしっかりと確認した上で、しかしこの抵抗運動は、「日の丸・君が代」強制反対を他の教員にも広げ、教育現場から教育行政や政治権力の抑圧を跳ね除ける力を増すことには成功していないように思う。
- 成功していない理由は何だろう?
それは先ほど述べたように、この運動が弾圧に抵抗する勇気ある教員個人の運動として展開してしまったことにあると思う。多数派に対して少数者の人権を守ること、個人の「内心の自由」を守ることが重要なことは明らかだ。
しかし、そのことが教員間で共有され、教員集団や職場単位で反対する力が増さなければ、「日の丸・君が代」強制を行う教育行政や政治権力との力関係を変えることはできない。
- 個人単位での抵抗では力関係は変えられないということだね。
この点は誤解されたくないので丁寧に伝えたいのだけれど、私はこのことを、「日の丸・君が代」強制に反対している教員やそれを支えている人たちに対して、最近はやりの言葉でいえば「上から目線」にたって、「あなたたちのやり方は間違っていますよ」と言っているのでは全くない。運動の当事者は教職員組合のメンバーであることがほとんどだし、支援者も組合運動に取り組んできた方が多い。
だからこれまで職場や組合に対して何度となく働きかけを行い、よりよい分会づくりや組合づくりに取ゆ組んできた方も多いと思う。彼らからは、「職場単位での抵抗とか組合運動の活性化とか、お前に言われなくてもそんなことはわかっている」と言われそうだ。
- わかっているんだね。
わかっている人が多いと思う。でも職場単位や組合レベルでの抵抗が絶望的に困難となっているなかで、やむなく個人として抵抗するに至ったのではないだろうか。
「日の丸・君が代」強制に抵抗する教員個人に、かかるプレッシャーは並大抵のものではない。彼らに対しては、その行為を「素晴らしい」と思う気持ちと、「現場でどれだけ大変なんだろう」と心配する気持ちで一杯だ。ここでの提起はぜひ誤解せずに、運動総体のあり方として考えてほしい。
- 言いたいことはわかったよ。運動全体の質を変えていくには、どうしたらいいんだろう?
抵抗する教員集団が解体したところが多いのだから、それをどうしたら再構築できるかが、極めて難しいけれど本当に重要な課題だ。学校現場が「教育する集団」としても解体しかかっている状況は、本誌の心がくたびれたある平教員「都立高校の今」で知ることができる。
- すさまじいね。
荒涼とした風景が広がっている感じだね。校長の権限強化、職員会議を形骸化させる「企画調整会議」の設置、校長・副校長支配を容易にするための主幹や主任などの新しい中間管理職の設置などが、学校の官僚制化を進め、教員の間にあきらめと退廃が広がっていることがわかる。
- まるでワンマン社長の企業みたいだね。
ただし、教育委員会に頭の上がらないワンマン社長だけどね(笑)。
私がこれまで書いてきた論文でも強調してきたように、学校の「経営体化」が急速に進み、学校の姿は一変している。これは「日の丸・君が代」強制以前から進んでいたものだが、それ以後も一向におさまることはなく、むしろ加速度を増しているように見える。
- それは「日の丸・君が代」強制とどのような関係にあるの?
「日の丸・君が代」強制の狙いの一つは、こうした学校の新自由主義改革を貫徹させるところにある。
「日の丸・君が代」強制に反対する教員集団は、格差化を推し進める新自由主義に対する抵抗体ともなる。だからこそ、そうした教員集団の解体が目指された。
また異論を徹底して排除することによって、学校にトップダウンの体制を確立させる。新自由主義を推進する新たな官僚制化が進んでいることは、「日の丸・君が代」強制の目的が達成されつつあるということを意味する。
- 「日の丸・君が代」強制反対運動は、教育の新自由主義にブレーキをかけられていないということか。
「日の丸・君が代」強制の徹底化を阻止することはできても、新自由主義の進行を阻止することにはつながっていない。
本誌に掲載された伊藤光隆「教育改革が学校を壊す」を読んでみれば、東京都の品川区を筆頭として新自由主義が急速に進行し、公教育を破壊していることは明らかだ。
学校の「経営体化」が進み、新自由主義支配が徹底すれば、「日の丸・君が代」強制に反対することは極めて困難となる。
- いずれは誰も抵抗できなくなるかもしれない。
その通りだ。それは現実味を増しているといえるだろう。
「日の丸・君が代」強制反対運動を担ってきた教員の多くは、一九四〇年代~一九五〇年前後生まれの世代に属する。彼らは戦後民主化のなかで育ち、一九六〇年代後半に大学で学生運動を経験した人も多く、一九六〇年代後半から七〇年代後半までは美濃部革新都政の下で教員生活を送っている。
彼らが生きてきた環境や社会的条件が、「日の丸・君が代」強制への反対を可能にしてきた面があると思う。彼らの多くはこの数年で退職し、教育現場を離れた。だから今後、教育現場で抵抗する教員が出続けるかどうか?
- 若い教員が抵抗することは難しい?
伊藤光隆さんの文章のなかには、「教育改革の内実を知らない若い教職員が増えてきたこともあり、教育改革に反対・賛成というよりは、そもそも興味・関心を示さない無関心状態が広がりつつあるように感じる」とある。
学生運動が下火となって久しいのだから、教育改革の問題点を構造的・政治的に捉えて批判する視点を、新任の教員が就職した時点で獲得している可能性は低い。それに新自由主義改革によって、競争と統制の論理が強固に浸透している教育現場の状況があるからね。
家族に関わることなど経済上の必要がある人の場合には、退職後の嘱託採用が拒否されることだけでもダメージになるだろうし、これだけ中間管理職が増やされ、管理職になるかならないか、または人事考課の結果が給与と結びつけられる条件がつくられれば、「日の丸・君が代」強制反対どころか、校長の理不尽な要求にさえ抵抗することは困難になっていくだろう。
- 反対しようにも反対できないということだね。
反対することに「負荷」がかかり過ぎてしまう。そうすると少数の人並外れた「覚悟」をもった人しか参加できない。それでは運動は広がっていかないだろう。
どうやってその負荷を下げていくか。職場における労働者一人ひとりをバラバラにし、格差化を推し進める新自由主義への批判が必要だ。
「日の丸・君が代」強制反対を教育における新自由主義批判と結びつける必要がある。そして教育現場の若い教員に運動を伝え、彼らがそれを継承・発展させていける条件をつくることが、「日の丸・君が代」強制反対運動のこれからの最重要の課題となる。
(以下略)
『科学的社会主義』(11月号)
印刷所 東京都板橋区南常盤台1-25-11 新社会文化出版会
《特集》行政と権力の狭間で教育の自由は今
◎ 教育をめぐる状況とこれからの課題
中京大学教授 大内裕和
「秋の羊蹄山」 《撮影:佐久間市太郎(北海道白糠定、札幌南定、数学科教員)》
二 「日の丸・君が代」強制と新自由主義との関連性
- 「日の丸・君が代」強制問題についてはどうだろう?金子潔「[初めに有罪ありき]権力がデッチ上げた『板橋高校卒業式』刑事弾圧」が、今回の特集では掲載されているね。
深刻な事態であるのに、一読してとても面白かった(笑)。「日の丸・君が代」裁判のでたらめさがよくわかる。様々な証拠をねつ造してでも、「有罪」にしようとする権力側の明確な意志が働いているね。
- ここまでやるのか?という感じだね。
確かにそうだ。でもその一方で、そこまで追い込んでいった運動の粘り強さに着目することが大事だろう。
一九九九年の「国旗・国歌」法の制定、さらには二〇〇三年の東京都教育委員会によって出された「10・23通達」以降も、一〇年以上もの間、不起立・不伴奏をはじめとして、「日の丸・君が代」強制への様々な抵抗運動が続けられてきた。
本誌のかわむらひさこ「「日の丸・君が代」攻撃と全国的ネットワークで闘う!」では、全国の「日の丸・君が代」攻撃とそれへの反対運動が紹介されている。
この運動がどれだけ貴重な意味をもったか、その意義ははかり知れない。あれだけの弾圧があったにも関わらず、「日の丸・君が代」強制の徹底は成し遂げられてはいない。『読売新聞』の社説が強制を是認しているのに対して、『朝日新聞』と『毎日新聞』の社説は依然として強制への批判を続けている。
こうした国論二分の状況をつくり出したのも、教育現場で「日の丸・君が代」強制への抵抗が続けられているからだ。異論を許さないのが全体主義なのだから、彼らの運動は教育現場、さらには社会の全体主義化を阻んできたと言っていい。
- どうしてこれまで闘争が続けられてきたのだろう?
それは戦後の反戦平和教育や教育現場の自由を尊重する運動の蓄積をベースとして、弾圧の強行に対して抵抗する勇気ある教員個人が何人も登場したことだろう。
そしてその一人ひとりが自らのこだわりをもち、個性や魅力あふれる教員であったことも大きい。「板橋高校卒業式」で弾圧された藤田先生の話を集会で聞いたことが何度もあるけれども、いつも笑ってしまう(笑)。なんて個性的で魅力ある先生なんだろう。大切なことは、藤田先生のような教員が存在できる場所として、これまでの教育現場があったということだ。
他の「日の丸・君が代」強制に抵抗した教員個人の周囲にも、応援し、支える教員や保護者、地域住民の存在があったことをおさえておくことが大切だろう。教員個人の意志だけで「日の丸・君が代」強制に抵抗することは困難だ。それを支えるつながりがあってこそ、抵抗を継続することができる。
- 勇気ある個々の教員が、周囲に支えられながら抵抗を続けてきたんだね。そこに粘り強さの原因があったわけだ。それでは運動の課題は何かな?
「日の丸・君が代」強制に対する抵抗運動は、その徹底化を阻み続けてきた。そのことの意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。そのことをしっかりと確認した上で、しかしこの抵抗運動は、「日の丸・君が代」強制反対を他の教員にも広げ、教育現場から教育行政や政治権力の抑圧を跳ね除ける力を増すことには成功していないように思う。
- 成功していない理由は何だろう?
それは先ほど述べたように、この運動が弾圧に抵抗する勇気ある教員個人の運動として展開してしまったことにあると思う。多数派に対して少数者の人権を守ること、個人の「内心の自由」を守ることが重要なことは明らかだ。
しかし、そのことが教員間で共有され、教員集団や職場単位で反対する力が増さなければ、「日の丸・君が代」強制を行う教育行政や政治権力との力関係を変えることはできない。
- 個人単位での抵抗では力関係は変えられないということだね。
この点は誤解されたくないので丁寧に伝えたいのだけれど、私はこのことを、「日の丸・君が代」強制に反対している教員やそれを支えている人たちに対して、最近はやりの言葉でいえば「上から目線」にたって、「あなたたちのやり方は間違っていますよ」と言っているのでは全くない。運動の当事者は教職員組合のメンバーであることがほとんどだし、支援者も組合運動に取り組んできた方が多い。
だからこれまで職場や組合に対して何度となく働きかけを行い、よりよい分会づくりや組合づくりに取ゆ組んできた方も多いと思う。彼らからは、「職場単位での抵抗とか組合運動の活性化とか、お前に言われなくてもそんなことはわかっている」と言われそうだ。
- わかっているんだね。
わかっている人が多いと思う。でも職場単位や組合レベルでの抵抗が絶望的に困難となっているなかで、やむなく個人として抵抗するに至ったのではないだろうか。
「日の丸・君が代」強制に抵抗する教員個人に、かかるプレッシャーは並大抵のものではない。彼らに対しては、その行為を「素晴らしい」と思う気持ちと、「現場でどれだけ大変なんだろう」と心配する気持ちで一杯だ。ここでの提起はぜひ誤解せずに、運動総体のあり方として考えてほしい。
- 言いたいことはわかったよ。運動全体の質を変えていくには、どうしたらいいんだろう?
抵抗する教員集団が解体したところが多いのだから、それをどうしたら再構築できるかが、極めて難しいけれど本当に重要な課題だ。学校現場が「教育する集団」としても解体しかかっている状況は、本誌の心がくたびれたある平教員「都立高校の今」で知ることができる。
- すさまじいね。
荒涼とした風景が広がっている感じだね。校長の権限強化、職員会議を形骸化させる「企画調整会議」の設置、校長・副校長支配を容易にするための主幹や主任などの新しい中間管理職の設置などが、学校の官僚制化を進め、教員の間にあきらめと退廃が広がっていることがわかる。
- まるでワンマン社長の企業みたいだね。
ただし、教育委員会に頭の上がらないワンマン社長だけどね(笑)。
私がこれまで書いてきた論文でも強調してきたように、学校の「経営体化」が急速に進み、学校の姿は一変している。これは「日の丸・君が代」強制以前から進んでいたものだが、それ以後も一向におさまることはなく、むしろ加速度を増しているように見える。
- それは「日の丸・君が代」強制とどのような関係にあるの?
「日の丸・君が代」強制の狙いの一つは、こうした学校の新自由主義改革を貫徹させるところにある。
「日の丸・君が代」強制に反対する教員集団は、格差化を推し進める新自由主義に対する抵抗体ともなる。だからこそ、そうした教員集団の解体が目指された。
また異論を徹底して排除することによって、学校にトップダウンの体制を確立させる。新自由主義を推進する新たな官僚制化が進んでいることは、「日の丸・君が代」強制の目的が達成されつつあるということを意味する。
- 「日の丸・君が代」強制反対運動は、教育の新自由主義にブレーキをかけられていないということか。
「日の丸・君が代」強制の徹底化を阻止することはできても、新自由主義の進行を阻止することにはつながっていない。
本誌に掲載された伊藤光隆「教育改革が学校を壊す」を読んでみれば、東京都の品川区を筆頭として新自由主義が急速に進行し、公教育を破壊していることは明らかだ。
学校の「経営体化」が進み、新自由主義支配が徹底すれば、「日の丸・君が代」強制に反対することは極めて困難となる。
- いずれは誰も抵抗できなくなるかもしれない。
その通りだ。それは現実味を増しているといえるだろう。
「日の丸・君が代」強制反対運動を担ってきた教員の多くは、一九四〇年代~一九五〇年前後生まれの世代に属する。彼らは戦後民主化のなかで育ち、一九六〇年代後半に大学で学生運動を経験した人も多く、一九六〇年代後半から七〇年代後半までは美濃部革新都政の下で教員生活を送っている。
彼らが生きてきた環境や社会的条件が、「日の丸・君が代」強制への反対を可能にしてきた面があると思う。彼らの多くはこの数年で退職し、教育現場を離れた。だから今後、教育現場で抵抗する教員が出続けるかどうか?
- 若い教員が抵抗することは難しい?
伊藤光隆さんの文章のなかには、「教育改革の内実を知らない若い教職員が増えてきたこともあり、教育改革に反対・賛成というよりは、そもそも興味・関心を示さない無関心状態が広がりつつあるように感じる」とある。
学生運動が下火となって久しいのだから、教育改革の問題点を構造的・政治的に捉えて批判する視点を、新任の教員が就職した時点で獲得している可能性は低い。それに新自由主義改革によって、競争と統制の論理が強固に浸透している教育現場の状況があるからね。
家族に関わることなど経済上の必要がある人の場合には、退職後の嘱託採用が拒否されることだけでもダメージになるだろうし、これだけ中間管理職が増やされ、管理職になるかならないか、または人事考課の結果が給与と結びつけられる条件がつくられれば、「日の丸・君が代」強制反対どころか、校長の理不尽な要求にさえ抵抗することは困難になっていくだろう。
- 反対しようにも反対できないということだね。
反対することに「負荷」がかかり過ぎてしまう。そうすると少数の人並外れた「覚悟」をもった人しか参加できない。それでは運動は広がっていかないだろう。
どうやってその負荷を下げていくか。職場における労働者一人ひとりをバラバラにし、格差化を推し進める新自由主義への批判が必要だ。
「日の丸・君が代」強制反対を教育における新自由主義批判と結びつける必要がある。そして教育現場の若い教員に運動を伝え、彼らがそれを継承・発展させていける条件をつくることが、「日の丸・君が代」強制反対運動のこれからの最重要の課題となる。
(以下略)
『科学的社会主義』(11月号)
印刷所 東京都板橋区南常盤台1-25-11 新社会文化出版会
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