パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

1月29日後・2月 5日

2005年03月30日 | たまにはまじめに?しっかりトーク
一神教 投稿者:なまはげ  投稿日: 2月 5日(土)22時00分31秒

今回は愛子様のお相手をして、日本の「神道」について少しお勉強をしておこう。

世界の宗教は、「一神教」と「多神教」に分類される。ところで、
数ある世界の宗教の中で、「一神教」はいくつあるか、挙げてごらん。

答は3つしかない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教だ。
世界中見渡して、歴史をさかのぼって、この中東の砂漠地帯で生まれた3兄弟宗教以外に一神教があったら、教えていただきたい。

そしてそれ以外は、ギリシア神話もローマ神話もゲルマン神話もインド神話も仏教(正確には無神教という学者もいる)も中国神話も朝鮮神話も、あまたある世界中の宗教はすべて「多神教」なのである。

> それを可能とするのが日本が神道という多神教を基調とする国だからです。

そんな言い方をするのなら、西洋も東洋も世界中みな、日本と同じ繁栄をしていなければならなくなるはずだが。

しかも、日本近代に形成された「国家神道」と名付けられた「神道」は、本当に多神教といえるだろうか。
日本の(一番広い使い方での)「神道」が多神教であることは確かに「常識」である。
だが、よーく見ると、明治以前の、「古神道」「神社神道」などは、確かに多神教の特徴を持っているが、明治期に薩長土肥の藩閥政府により導入された「国家神道」は、ちょっと違うのではないか。

一神教の特徴は、万物の創造主を全知全能で、人間と断絶した超越神とするところにある。
多神教の特徴は、自然現象の人格化や人間生活の投影によってさまざまな個性や形姿を付与された神々の存在にある。

大日本帝国憲法の草案を書いた伊藤博文が、プロシアに憲法を学びに行ったことはよく知られているが、彼がそこで学んだのは①「君主大権」の仕組みと、それを支える②一神教「キリスト教道徳」であった。
(彼が渡航したわずか36年後に、ドイツ皇帝は第一次大戦の敗戦の責任を取って退位し、ドイツは君主国を止めて共和国に変身してしまうのだが。ドイツが20世紀初頭まで君主国だったことは意外と忘れられている。)
当時既に市民革命を終えていた、英米仏の憲法ではなく、プロシア帝国憲法をベースに作られたことで、「明治憲法」は、絶対君主制の特徴を持つと同時に、すぐれて一神教的憲法となるのだ。

「天皇は神聖にして侵すべからず」とは、何と一神教的表現であろうか。
そして『教育勅語』が発布されるのは、憲法発布の翌年である。

明治に創作された「国家神道」における天皇のイメージは、日本古来の伝統である「多神教」的イメージではなく、西洋宗教の一神教的神に祭り上げられてしまった。

一神教における神とは、全知全能・無謬で、人間一般を超越した存在であった。それ故に、神の命令は絶対であり、問答無用であり、謹んで服すだけのものなのである。
唯一神アッラーを信仰するイスラムの民を思い浮かべられよ。

アッラーの教えを守る闘いはジハード(聖戦)であり、ジハードに死すものは必ず天国〔靖国神社〕に生まれ変わることが出来る。「アッラーフ・アクバル(アッラーは偉大なり)!」〔天皇陛下万歳!〕と叫んで、自爆テロに散るイスラムの若者の姿は神風特攻隊の大和益荒男と何とそっくりであることか。
これこそ典型的な一神教の姿なのである。


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予備校からの警鐘 投稿者:なまはげ  投稿日: 2月 5日(土)21時59分30秒

どうやら@@@殿との議論は、一回お休みのようなので、
ちょっと目先を変えて、最初に受験と教育について考えてみよう。

奇しくも、2つの予備校が足並みを揃えるように、高校教育の現状に警鐘を鳴らす文章を発表しており、なかなか興味深いのでその一端をご紹介しておく。

まず駿台予備校の広報誌から、
【高校と予備校の役割逆転?】(SUNDAI FRONTIER 2004.12特別号)
 駿台では、教委や高校の「予備校の教え方」を学んでみたいという要望に応えて、「教育研究セミナー」を主催し、これまで8500人の参加者を集めてきたそうだが、そこで聞かれるのは、意外な反応だ。

 教育研究セミナーで、講師が教員に伝えているのは、
  「大学入試のためだけではなく、将来にわたって役に立つ基礎力を教える」
  「受験テクニックではなく、教科のおもしろさも伝える」
 という、極めてオーソドックスなもの。
 予備校といえば「受験テクニックを効率よく教授する場」という先入観を持つ教員が多い中、教育研究セミナーに参加し、実態を知って驚く参加者は多い。
 ここで改めて考え直していただきたい。教育という人間の根源的な部分に関わる営みに、即効薬的な処方箋はないということをだ。
 小手先のテクニックや、目新しさ、奇抜さ、に心奪われることなく、あらためて教育の原点を見つめ直す必要が問われている。

続いて、河合塾の元進学情報センター所長の著作から、
【第二次ベビーブームが転換期】河合塾(丹羽健夫『予備校が教育を救う』文春新書)
 予備校のお家芸である知識の記憶、ドリル、正解発見のテクニック、こういったものを生徒は高校で散々やらさせてきているのだ。だからその繰り返しをしていたのでは、生徒は逃げてしまうと講師たちは言うのだ。
 「じゃあ、あなた方は教室で生徒に対して何を教えようとしているのだ」
 「俺は生徒たちが高校でやり残してきたことを教える」
 「やりのこしてきたことって、どんなことですか」
 「いいですか、生徒たちは答の出し方は教えてもらってきているが、なんでこの問題が出されるかとか、なんでこうすれば正解が出るのかとか、なんでこの教科を学ぶのかとか、本質というか教科の根っ子の部分を考える教育をほとんど受けてきておらん。だから教科の根っ子のところ、本質の部分を教える。それしかない。」

…1980年代後半の話だそうだ。そのあたりから、予備校は少しずつ変わってきた。
 これまで、高校と予備校の間には不文律の分業があった。高校では教科の本質を教える。入試の正解を出すテクニックは予備校で教える。ところが、いつの間にかそれが逆転していると、予備校側が声を大にして訴えているのだ。この現状をどう考えればよいのか。文科省?教委?高校?教師?保護者?誰が高校を予備校化しているのだ。
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言論の自由 投稿者:なまはげ  投稿日: 1月29日(土)22時34分54秒

私には読解力が乏しいようだが、(・∀・)殿も人の意見が耳に入らないタイプらしい。

既に回答は終わっているが、もう一度復習してみるか。

> 日本では思想信条の自由は保障されてるからね。どんな思想でも語るのはokでしょ?

これは、貴殿の考えか? それとも私がそう言ったといいたいのか?
「どんな」思想でも語るのはok!?www あまりにも単純な「言論の自由」論!www

もう一度、前回の例出す。これが「言論の自由」か?
 「ブスをブスって言って何が悪い、表現の自由を認めないのか」
 「ボクは無免許だけど、人間は皆平等なんだから、車運転して何が悪いんだよ!」
 「ボクは確かに裏口入学だが、この世は金だという信念に文句があるか」
こういうのを身勝手という。まさか、憲法がこれらの表現を保障しているなんて言わないだろうな。「どんな思想でも語るのはok」と思いこんでいるとしたら、貴殿の大好きなアナーキーそのものだ。これでお分かりいただけるだろうか。

まず前提が「印象操作」だから、後の質問はこじつけ、詭弁で、ほとんど無意味だが。

> 時と場所さえわきまえてればねwwww

お得意の決まり文句だが、「どんな思想でも語る」こと自体が、自由ではなく身勝手なんだから、「時と場所をわきまえ」ようが何しようが、ダメなものはダメ、一方良いものは、気に入らない反対意見でも表明する自由が権利なのである。「時と場所」を言論の条件とするとは、何か法的根拠からおっしゃっているのか、教えていただきたいものである。

> 「モヒカン君」にも「力が支配する荒廃した世界」を望むという立派な思想信条があるのですよ♪どんなに奇異に見えても一応保障されますよね?w

「モヒカン君」の奇異な思想は、残念ながら、一応も二応も保障されない。はっきり申し上げておく。

再掲■世界人権宣言第30条 〔権利と自由に対する破壊的活動〕
 この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。

わざわざ「モヒカン」の思想的背景を「破壊的思想」に設定されているが、それは、他人権利や社会全体を侵害するものだから、許されてはならないものだ。間違った権利と自由の行使を戒める、世界標準の規定の意味が、ご理解いただけないか。これを本気で「立派な思想信条」と考えてるのなら、失礼ながら小学生レベルのおつむと言わざるを得ない。世界標準の規定に照らせばそうなるし、どう考えても奇異としか思えない。もっとも「モヒカン」が破壊思想とは関係のないただのファッションだったら、その場合の回答は前回の通りである。

> 先生達も卒業式中や授業中に自分の思想信条を主張せずに、勤務時間外にトサカを上げろと。www

誰か授業中に「自分の(プライベートな?)」思想信条を教授したか。「憲法の学習」はどの教科・教科外活動も含めてあらゆる場面で為されるべきものであり、勤務時間外にやって何の意味がある。学校の中で行われてこそ意味がある。
卒業式での不服従を非難するのは、ソクラテスに弁明は自室ででやれというようなもの、隠れキリシタンに踏み絵をふんでから信仰しろというようなもの、「親を銃殺せよ」という職務命令を実行してからその無効性を主張せよというようなもの、そして内村鑑三に儀式の中で教育勅語に敬礼しなかったのは教員にあるまじき行為と非難して退職に追い込んだ井上哲次郎と同レベルの話であり、帝国憲法下の日本と変わらないことになってしまう。日本が新憲法を制定したことをお忘れになったか。貴殿のトサカは上げ下げできる便利なものらしいが、そんなカメレオンみたいなトサカはそもそも持ち合わせていない。
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