◆ 道徳の教科化
~教育現場になにをもたらすか… (教科書ネット21)
◆ 本当は「大事件」である
これまで「道徳の時間」で行われていた道徳教育が、2018年度から「特別の教科 道徳」になる。このことは学校現場にとっては大問題なのだが、世間ではそれほどの大事件とは受け止められていないようである。なぜなのか。
通知表には子どもたちの「行動の記録」と称して、実際には道徳性についての善し悪しが、控えめながらも記載されているのだから、いまさら教科になると言われても、そのことでいったいどんな変化が起きるのか、ピンとこないのかもしれない。実はこのような状況こそ「大問題」なのである。
道徳の教科化に対しては、国家による価値の押しつけになる、愛国心教育になるといった観点からの批判が多くある。しかし、わたしが問題だと感じるのはそこではない。
内容の問題ではなく、道徳に関して正式に「評価」が下される点、そして、そのことについてわたしたちの多くが慣れてしまっているのではないか、という点である。
◆ 内心(私的なことがら)への公的まなざしの承認になる
教科になれば、当然、それは評価の対象になる。このことは、学校が個人の道徳性に対して公的に判断を下すことを意味している。
現段階で文部科学省は、数値や記号ではなく、ことばで表現する評価にするとの方針を掲げているが、どう表現されようが、それは学校という公権力により下される内面の評価なのである。
つまり、道徳の教科化は、心の状態について公的な「まなざし」を向けてよいということを承認せよとわたしたちに迫っていることになる。この点をわかりやすくイメージするために、「健康増進法」の論理を例に考えてみたい。
◆ 健康論議と似ている、自己責任論
日本国憲法第25条は、健康を権利として位置づけた上で、その実現のための国の責任を明記している。ところが、2002年の健康増進法が、この権利と責任の関係を逆転させてしまった。
その第2条に、「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、(中略)、健康の増進に努めなければならない。」とあるように、健康であることを「権利」から「義務」に変えたのである。
しかも、「生活習慣」という非常にプライベートな、だからこそ自由であるはずの各人の生活の仕方を問題視することで、自己責任論で健康問題を位置づけようとしている。
健康であることが「義務」であるかぎり、各人の健康状態への権力的チェックは、たとえ現在は病気ではなくとも、予防という観点から正当化される。
このようなチェックが、個人の生活の自由を脅かし、行動の規制、価値の統制になっていることには、なかなか気がつかない。なぜなら、「健康であることは良いこと」だから。
この発想からは、「健康」状態が権力的に定義づけられることへの警戒心も、このような健康至上主義が一定の人々に対する偏見と差別に結びつくことへの反省的思考も生まれない。
◆ 権力支配の下での生き方が強いられる
公権力による個人の「私的な領域」への介入、これが健康増進法の問題点であり、その同じ論法が道徳の教科化でも使われているのである。
ある種の食習慣や運動習慣等が「不健康」とされ、「医療化」されていくのと同じように、ある種の道徳的判断や発言・行動が評価を通して「不道徳」とされ、「指導」の対象となっていく。
「予防」と称してその人の「生活」を問題視することができるのと同様に、犯罪や非行を未然に防ぐものとして、子どもたちの心の状態を問題にすることができるのである。
多くの人は、健康であり、道徳的であるほうがよいと答える。
しかし、その前に、個人の具体的な生活のなかで、それぞれの価値観を伴って形成されていく、いわば「その人の歴史」である身体や心の状態に対して、公的な判断が下されるというルートをつくってしまってよいのか、という問いを立てる必要がある。
内容が「良いもの」だからいいではないか、という納得の仕方は、きわめて危険である。なぜなら、そのような人々のメンタリティーがファシズムを無意識的に受け入れてしまうからである。
公的判断の対象とするという「形式」さえ承認されてしまえば、そこにどんな内容を盛り込ませるかは、あとからじっくり練り上げればよいのである。
そして実際にそれは学習指導要領の改訂のみで実施できる。法律ではないから、国会で話されることもない。
◆ 手続きの重視が民主的な社会をつくる
民主的社会にとって大切なことは、「何を得るか」ではなく、「いかにして得るか」であり、そのような手続き・形式が大切にされるからこそ、人権が保障されるわけである。
「内容」は私たち自身が、相互作用のなかから生みだしていくものだからこそ、それには価値があり、また不都合が生じればいつでも修正可能となる。
しかし、手続きや形式を軽視していると、示された「内容」が多くの人の合意を得られやすいものであるうちはよいかもしれないが、そうではなくなったとき、それを止める手立てはなくなっているのである。
もはや、わたしたちの「からだ」は国家の管理下に入っている。そして、いま「こころ」が同じ道をたどろうとしている。
◆ 議論中心の道徳の授業にはならない
では、実際の授業は、今後、どうなるのか。教科化を推進する人たちは、より一層議論をする授業になると主張する。
しかし、教科化によって、到達目標やそこに至る枠組みを先に立てて授業をすることになる。少なくとも、これまでの「道徳の時間」においては、各人がいろいろな意見を言っても、それをそのまま受け止めて一定の結論をよしとしないオープンエンドで授業を終えることは可能であった。
しかし、教科としての評価の基準に照らして授業を展開させ、一定の目標に到達させようとすれば、たとえその過程においてどんなに議論しようが、多様性は保持されなくなるだろう。かえって、議論を評価するというむずかしい判断に迫られる。
このような道徳の授業は、子どもたちにとっては、「本音と建前」を使い分け、教材として示された事例に対して何が望ましい発言・行動かをあてるゲームの時間となるだろう。
ここでは、自らの経験に根ざして真剣に考える必要はない。そんなことをしていたのでは多様すぎて、一般的な判断などは不可能だからである。こうして、パターン化された行動様式が一律に広がっていくことになる。
◆ 発言・行動統制になっていく
むしろ、道徳の教科化を推進する人たちは、人が何を考えていようが、予測可能な行動さえとってくれれば問題はない、ととらえているのではないか。
心の中は(本人でさえ)正確にはわからないのだから、また、そもそも見えないのだから、評価の基準にしようがない。とすれば、「発言」や「行動」に着目するしかない。
内心ではどんなに政府を批判しようが、行動の面でそれが出なければ、権力を専横的に行使したい者にとっては何の問題もない。
どういう行動が望ましいとされるかは、教科になった道徳での「評価」を通して学んでいくことになる。
内心を表現する行動によって評価されることに人々が疑問をもたなくなっていけば、そのうち、無批判に政策を受け入れる人間が生み出されていく。
あるいは、「すでに決まってしまったことだから、反対するよりも、うまくそれに対応していくほうがよい」といった「賢い選択・戦略」を語る人々が多くなってくるのではないか。
これは、決まったものには従えという抑圧者の言い分に自ら進んで隷従していくメンタリティーであり、このときすでにファシズムを止める芽は摘み取られてしまっている。
◆ 道徳は生活を基盤とした一回限りの判断
ところで、現実の子どもたちは、すでにさまざまな価値を身につけて学校に入ってきている。しかも、道徳の授業で伝えようとしている徳目についてもすでによく理解している。なぜなら、子どもたちは社会のなかで、つまり人間関係のなかで生きているからである。
道徳的判断は、きわめて具体的で個別的な性質をもつ。人々は、日常生活の中で、その時々の状況に応じて行動を選択しているのであり、それは、各人の生活のありよう、人間関係のありようと深く関連し、体系化できるような一般性をもつものではない。
「やさしさ」や「おもいやり」などに高い価値が与えられていることは、おそらくすべての子どもが知っている。
応用不可能な一回性として、道徳は人と人との関係を成り立たせている。その具体・個別の場面が生起する前に、ある行動や判断の是非を道徳的に示すことはできない。道徳とは、一定の解法を習得すれば問題解決に結びつくといったものではない。
◆ 「筆頭」教科として重視される懸念
つまり、数学や国語のようなカリキュラムが、「道徳」においては成り立たないということである。
人は泳げるようになってから水に入るのではない。水の中でこそ泳げるようになる。道徳も、社会的な文脈を離れては存在しえないし、学びえない。道徳性を身につけてから生活を始める、ということはできない。道徳は、つねに具体的であり、実践的である。
たとえば、「思いやり」をどう実践するかは、いつ、誰との間での、何をめぐってのことなのかによってその表現形態や方法・内容も変化してくる。それを一般化して語ることは不可能である。
文科省は、実はこのことをよく理解しているのだろう。だからこそ「特別の教科」としか位置づけようがないと思ったのかもしれない。しかし、だからこそ、むしろ「基礎的」あるいは「筆頭」教科として重視される懸念がある。
(いけだけんいち)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 107号』(2016.4)
~教育現場になにをもたらすか… (教科書ネット21)
池田賢市(中央大学教授)
◆ 本当は「大事件」である
これまで「道徳の時間」で行われていた道徳教育が、2018年度から「特別の教科 道徳」になる。このことは学校現場にとっては大問題なのだが、世間ではそれほどの大事件とは受け止められていないようである。なぜなのか。
通知表には子どもたちの「行動の記録」と称して、実際には道徳性についての善し悪しが、控えめながらも記載されているのだから、いまさら教科になると言われても、そのことでいったいどんな変化が起きるのか、ピンとこないのかもしれない。実はこのような状況こそ「大問題」なのである。
道徳の教科化に対しては、国家による価値の押しつけになる、愛国心教育になるといった観点からの批判が多くある。しかし、わたしが問題だと感じるのはそこではない。
内容の問題ではなく、道徳に関して正式に「評価」が下される点、そして、そのことについてわたしたちの多くが慣れてしまっているのではないか、という点である。
◆ 内心(私的なことがら)への公的まなざしの承認になる
教科になれば、当然、それは評価の対象になる。このことは、学校が個人の道徳性に対して公的に判断を下すことを意味している。
現段階で文部科学省は、数値や記号ではなく、ことばで表現する評価にするとの方針を掲げているが、どう表現されようが、それは学校という公権力により下される内面の評価なのである。
つまり、道徳の教科化は、心の状態について公的な「まなざし」を向けてよいということを承認せよとわたしたちに迫っていることになる。この点をわかりやすくイメージするために、「健康増進法」の論理を例に考えてみたい。
◆ 健康論議と似ている、自己責任論
日本国憲法第25条は、健康を権利として位置づけた上で、その実現のための国の責任を明記している。ところが、2002年の健康増進法が、この権利と責任の関係を逆転させてしまった。
その第2条に、「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、(中略)、健康の増進に努めなければならない。」とあるように、健康であることを「権利」から「義務」に変えたのである。
しかも、「生活習慣」という非常にプライベートな、だからこそ自由であるはずの各人の生活の仕方を問題視することで、自己責任論で健康問題を位置づけようとしている。
健康であることが「義務」であるかぎり、各人の健康状態への権力的チェックは、たとえ現在は病気ではなくとも、予防という観点から正当化される。
このようなチェックが、個人の生活の自由を脅かし、行動の規制、価値の統制になっていることには、なかなか気がつかない。なぜなら、「健康であることは良いこと」だから。
この発想からは、「健康」状態が権力的に定義づけられることへの警戒心も、このような健康至上主義が一定の人々に対する偏見と差別に結びつくことへの反省的思考も生まれない。
◆ 権力支配の下での生き方が強いられる
公権力による個人の「私的な領域」への介入、これが健康増進法の問題点であり、その同じ論法が道徳の教科化でも使われているのである。
ある種の食習慣や運動習慣等が「不健康」とされ、「医療化」されていくのと同じように、ある種の道徳的判断や発言・行動が評価を通して「不道徳」とされ、「指導」の対象となっていく。
「予防」と称してその人の「生活」を問題視することができるのと同様に、犯罪や非行を未然に防ぐものとして、子どもたちの心の状態を問題にすることができるのである。
多くの人は、健康であり、道徳的であるほうがよいと答える。
しかし、その前に、個人の具体的な生活のなかで、それぞれの価値観を伴って形成されていく、いわば「その人の歴史」である身体や心の状態に対して、公的な判断が下されるというルートをつくってしまってよいのか、という問いを立てる必要がある。
内容が「良いもの」だからいいではないか、という納得の仕方は、きわめて危険である。なぜなら、そのような人々のメンタリティーがファシズムを無意識的に受け入れてしまうからである。
公的判断の対象とするという「形式」さえ承認されてしまえば、そこにどんな内容を盛り込ませるかは、あとからじっくり練り上げればよいのである。
そして実際にそれは学習指導要領の改訂のみで実施できる。法律ではないから、国会で話されることもない。
◆ 手続きの重視が民主的な社会をつくる
民主的社会にとって大切なことは、「何を得るか」ではなく、「いかにして得るか」であり、そのような手続き・形式が大切にされるからこそ、人権が保障されるわけである。
「内容」は私たち自身が、相互作用のなかから生みだしていくものだからこそ、それには価値があり、また不都合が生じればいつでも修正可能となる。
しかし、手続きや形式を軽視していると、示された「内容」が多くの人の合意を得られやすいものであるうちはよいかもしれないが、そうではなくなったとき、それを止める手立てはなくなっているのである。
もはや、わたしたちの「からだ」は国家の管理下に入っている。そして、いま「こころ」が同じ道をたどろうとしている。
◆ 議論中心の道徳の授業にはならない
では、実際の授業は、今後、どうなるのか。教科化を推進する人たちは、より一層議論をする授業になると主張する。
しかし、教科化によって、到達目標やそこに至る枠組みを先に立てて授業をすることになる。少なくとも、これまでの「道徳の時間」においては、各人がいろいろな意見を言っても、それをそのまま受け止めて一定の結論をよしとしないオープンエンドで授業を終えることは可能であった。
しかし、教科としての評価の基準に照らして授業を展開させ、一定の目標に到達させようとすれば、たとえその過程においてどんなに議論しようが、多様性は保持されなくなるだろう。かえって、議論を評価するというむずかしい判断に迫られる。
このような道徳の授業は、子どもたちにとっては、「本音と建前」を使い分け、教材として示された事例に対して何が望ましい発言・行動かをあてるゲームの時間となるだろう。
ここでは、自らの経験に根ざして真剣に考える必要はない。そんなことをしていたのでは多様すぎて、一般的な判断などは不可能だからである。こうして、パターン化された行動様式が一律に広がっていくことになる。
◆ 発言・行動統制になっていく
むしろ、道徳の教科化を推進する人たちは、人が何を考えていようが、予測可能な行動さえとってくれれば問題はない、ととらえているのではないか。
心の中は(本人でさえ)正確にはわからないのだから、また、そもそも見えないのだから、評価の基準にしようがない。とすれば、「発言」や「行動」に着目するしかない。
内心ではどんなに政府を批判しようが、行動の面でそれが出なければ、権力を専横的に行使したい者にとっては何の問題もない。
どういう行動が望ましいとされるかは、教科になった道徳での「評価」を通して学んでいくことになる。
内心を表現する行動によって評価されることに人々が疑問をもたなくなっていけば、そのうち、無批判に政策を受け入れる人間が生み出されていく。
あるいは、「すでに決まってしまったことだから、反対するよりも、うまくそれに対応していくほうがよい」といった「賢い選択・戦略」を語る人々が多くなってくるのではないか。
これは、決まったものには従えという抑圧者の言い分に自ら進んで隷従していくメンタリティーであり、このときすでにファシズムを止める芽は摘み取られてしまっている。
◆ 道徳は生活を基盤とした一回限りの判断
ところで、現実の子どもたちは、すでにさまざまな価値を身につけて学校に入ってきている。しかも、道徳の授業で伝えようとしている徳目についてもすでによく理解している。なぜなら、子どもたちは社会のなかで、つまり人間関係のなかで生きているからである。
道徳的判断は、きわめて具体的で個別的な性質をもつ。人々は、日常生活の中で、その時々の状況に応じて行動を選択しているのであり、それは、各人の生活のありよう、人間関係のありようと深く関連し、体系化できるような一般性をもつものではない。
「やさしさ」や「おもいやり」などに高い価値が与えられていることは、おそらくすべての子どもが知っている。
応用不可能な一回性として、道徳は人と人との関係を成り立たせている。その具体・個別の場面が生起する前に、ある行動や判断の是非を道徳的に示すことはできない。道徳とは、一定の解法を習得すれば問題解決に結びつくといったものではない。
◆ 「筆頭」教科として重視される懸念
つまり、数学や国語のようなカリキュラムが、「道徳」においては成り立たないということである。
人は泳げるようになってから水に入るのではない。水の中でこそ泳げるようになる。道徳も、社会的な文脈を離れては存在しえないし、学びえない。道徳性を身につけてから生活を始める、ということはできない。道徳は、つねに具体的であり、実践的である。
たとえば、「思いやり」をどう実践するかは、いつ、誰との間での、何をめぐってのことなのかによってその表現形態や方法・内容も変化してくる。それを一般化して語ることは不可能である。
文科省は、実はこのことをよく理解しているのだろう。だからこそ「特別の教科」としか位置づけようがないと思ったのかもしれない。しかし、だからこそ、むしろ「基礎的」あるいは「筆頭」教科として重視される懸念がある。
(いけだけんいち)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 107号』(2016.4)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます