《子どもと教科書全国ネット21ニュース 99号から》
◆ 「道徳」の教科化問題を中学校現場から考える
◆ 超多忙職員室に押し寄せる「道徳」資料
年度末になると、新年度にむけた様々なパンフや補助資料が学校現場に送られてくる。段ボールなどでどんどんと届き、年度末の忙しい中で受け取った段ボールやその包みが、職員室の隅に積み上げられることとなる。
そして新年度。前任者の転勤や担当者の変更により業務引継だけで精一杯の中、時にはその段ボール資料が忘れられ埋もれていく。
2013年、安倍政権になってからの2年間、現場教師にとって「道徳」の資料お届けは「また?」「この前配ったよね?」「え?それと違うやつ?」「配ったかな?」「届いてる?」「見てないな」「それ何?」と何が何だかわからないままザブザブ降ってくるような感覚だ。
教育委員会を通し、文科省から一片の通知と、教師指導資料として活用指導案なども来る。しかし、実際の現場は、すでに前年度末に反省をふまえて、新年度の道徳副教材の購入は終わっているし、それ以外にも年間35時間の道徳授業学習予定は定まっている。
そこに、「心のノート」「読み物資料」「私たちの道徳」という紙物テキストを配布されても、飽和状態である。
◆ 道徳教育が不十分なのか
文科省は言う。子どもたちの「生命尊重の心の不十分さ」「自尊感情の乏しさ」「基本的な生活習慣の未確立」「規範意識の低下」「人間関係を形成する力の低下」等々、今こそ「道徳だ!」と。
たしかに子どもたちは未熟で課題も多い。学校の役割は誰も否定しないだろう。だからといって、週1時間、カリキュラムに沿った指導や学習活動をして、成果があがるのか。これはずっと疑問視されてきたところだ。
学校教師としては、「40人学級で子どもたちを長く学校に拘束する状態を解決してほしい」「自尊心や他者尊重や人間関係は、日々の学級集団づくりや行事でこそ獲得できる」と思っている。
だから、教師達は毎日の生活習慣づくり、学級の話し合い活動、行事成功にむけた取り組みなど、長時間労働をいとわず努力している。
なのに、授業時数確保で毎日ほぼ6時間授業と、放課後は会議、という状況で生徒の自治的な活動を育成する余裕が奪われ、できるだけ時間のかからない負担の無い行事づくりが強いられる。
生徒は学力向上のかけ声のもとで授業に追われ、塾に通い、競争を強いられている。隙間の無い学校生活で、ゆっくりと自己をみつめ、他者と関わりあい、失敗し、悩み、自ら解決し成長する「余裕」が見当たらない。
読み物資料があったところで、と思うのが現実なのだ。
それでも、学校では「道徳」をどうにか活かしていこうと、工夫している。目の前にいる子どもたちの実情にあわせて、副教材や視聴覚教材を活用して考える授業はもちろんのこと、地域や多くの協力者と連携する授業も活発だ。
スクールカウンセラーと共同で、人間関係を形成するヒントをつかむ授業。障害者との交流や、模擬体験学習。アイヌ民族の方を招いて、多文化と人権尊重の授業。海外でボランティアをしてきた若者、子どもの権利を広めようと活動している弁護士や犯罪や事故から身を守り命を守るために犯罪被害者遺族を招くこともある。
ほかにも、保健師、戦争体験者などの協力も得ている。
校務分掌で「道徳」担当者は大変な業務だが、今何が必要か、職場の合意を得ながら、有効な資料と講師を設定し、授業を準備しているのだ。
◆ 文部科学省が絶対にさせたい「道徳」とは
「心のノート」は、大きいカラーイラストや写真のイメージと、誰が書いたか文責の無い散文だらけだった。
「私たちの道徳」はどうだろうと読んでみると、またも誰の文章だろうか、主語は誰なんだ?となぞの文章が、正論らしきものを大上段に振りかざしている。
これまで、出版社で出していた道徳副教材では、作者の明確な文章からの「読み取り」を通して思考を深めていたがそれもできないのだ。
戦前の修身もそうだった。一般論のふりをして特定の価値を、異論を許さず押しつける。授業に使用するにも使用できないようなテキストで、補助教材の域を出ない。
しかし、道徳が「教科」になり、検定「教科書」使用を義務づけると何が起こるのだろうか。
まず、担任教師の授業づくりと指導負担が増大する、そのため指導資料に依存することになるだろう。
カリキュラムが目の前の子どもたちの実情と離れる可能性も大きいだろう。そして何よりも、教科書通りにすることで、間違いなく「日本国を愛する心」の指導が日本の隅々で行われるのだ。
心ある教師や現場は、真に国を愛するとは何か、愛とは、平和とは、を考え多様性と共生の道徳を指導するかもしれないが、ここまで述べてきたように多忙化と負担増の現場教師が、それを実践するのはなかなか困難だと予想できるのだ。
現在文科省から出されている資料は、問題もたしかにある。しかしまだ、愛国心の項目では「伝統文化」や「国際理解」「国際貢献」をとりあげて、多様に学習できるものである。これが検定を伴う教科書になったとき、いったいどんな指導内容が強制されるのか、不安でならない。
そして、教科書の指導で35時間を確保された時、各学校でこれまでに積み上げてきた多彩な授業を実施する時間がとれなくなるのだ。
◆ 「道徳」で評価はでぎるのか
現場での率直な反応は「できるわけがない」「通知表の作業がまた増えるのか」である。中には、「コンピューター処理だから、例文を選択入力できるようにすればいいんじゃないか」と早くも、多忙防止策で対抗しようという声まである。しかし生徒はたまったものじゃない。
新聞で「道徳」の教科化が報道されると、「道徳教科化しても、意味は特に無いと思います。教えるというよりも、日常生活や読書などで身についていくものだと思うので、指導者によって偏りが出たりするのでは?と思いました。それを評価するに当たって、何を基準にするのかもあやふやで、ただ教師の負担が増えるだけです。子どもを注意したり、常識を教えるのは、別に道徳の時間をとらなくても、先生や親が普段できることであり、わざわざやる必要があるのかな?」
「私は道徳を教科にすることには反対だ。今よりも道徳教育に力を入れるのはいい。生徒同士で話し合ったり、地域と交流したりする機会が増えるのはうれしい。しかしそれを教科化して評価するのはどうだろうかな。多くの人が懸念しているように、特定の価値観を押しつけてしまい、戦前の教育と同じことが起こらないとも限らないだろう。『悪を憎み、善を喜ぶ心情や行為』という表現が教育目標にあるが、この『悪』や『善』を、もしも誰かの個人的判断で決定し、それを押しつけてしまったら、大変なことにならないか。また数値では表さない、とは言ったものの、評価することには変わりない。誰かが誰かの見えない部分について評価するのはおかしい。そんなに単純なものじゃないのでは・・・。評価なんてものがあったら評価してもらおう、という子どもは間違いなくいるだろう。そのために演技をする子もいる。そうなったら下手をしたら今よりも状態が悪化することになるかもしれない。もしそうなら本末転倒だ。」と教科で提出するニュースノートに書いてきた。
ご明察である。また他の生徒は「人の心に点数をつけることができるほどの立派な人を、どうやって決めるのか。少し楽しみ。」と大人の浅薄な試みに、皮肉まじりの感想を書いてきた。批判できる良識のあるうちはいい。だが、徐々にこの感性は麻痺していくに違いないのだ。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 99号』(2014.12)
◆ 「道徳」の教科化問題を中学校現場から考える
S(北海道公立中学校教師)
◆ 超多忙職員室に押し寄せる「道徳」資料
年度末になると、新年度にむけた様々なパンフや補助資料が学校現場に送られてくる。段ボールなどでどんどんと届き、年度末の忙しい中で受け取った段ボールやその包みが、職員室の隅に積み上げられることとなる。
そして新年度。前任者の転勤や担当者の変更により業務引継だけで精一杯の中、時にはその段ボール資料が忘れられ埋もれていく。
2013年、安倍政権になってからの2年間、現場教師にとって「道徳」の資料お届けは「また?」「この前配ったよね?」「え?それと違うやつ?」「配ったかな?」「届いてる?」「見てないな」「それ何?」と何が何だかわからないままザブザブ降ってくるような感覚だ。
教育委員会を通し、文科省から一片の通知と、教師指導資料として活用指導案なども来る。しかし、実際の現場は、すでに前年度末に反省をふまえて、新年度の道徳副教材の購入は終わっているし、それ以外にも年間35時間の道徳授業学習予定は定まっている。
そこに、「心のノート」「読み物資料」「私たちの道徳」という紙物テキストを配布されても、飽和状態である。
◆ 道徳教育が不十分なのか
文科省は言う。子どもたちの「生命尊重の心の不十分さ」「自尊感情の乏しさ」「基本的な生活習慣の未確立」「規範意識の低下」「人間関係を形成する力の低下」等々、今こそ「道徳だ!」と。
たしかに子どもたちは未熟で課題も多い。学校の役割は誰も否定しないだろう。だからといって、週1時間、カリキュラムに沿った指導や学習活動をして、成果があがるのか。これはずっと疑問視されてきたところだ。
学校教師としては、「40人学級で子どもたちを長く学校に拘束する状態を解決してほしい」「自尊心や他者尊重や人間関係は、日々の学級集団づくりや行事でこそ獲得できる」と思っている。
だから、教師達は毎日の生活習慣づくり、学級の話し合い活動、行事成功にむけた取り組みなど、長時間労働をいとわず努力している。
なのに、授業時数確保で毎日ほぼ6時間授業と、放課後は会議、という状況で生徒の自治的な活動を育成する余裕が奪われ、できるだけ時間のかからない負担の無い行事づくりが強いられる。
生徒は学力向上のかけ声のもとで授業に追われ、塾に通い、競争を強いられている。隙間の無い学校生活で、ゆっくりと自己をみつめ、他者と関わりあい、失敗し、悩み、自ら解決し成長する「余裕」が見当たらない。
読み物資料があったところで、と思うのが現実なのだ。
それでも、学校では「道徳」をどうにか活かしていこうと、工夫している。目の前にいる子どもたちの実情にあわせて、副教材や視聴覚教材を活用して考える授業はもちろんのこと、地域や多くの協力者と連携する授業も活発だ。
スクールカウンセラーと共同で、人間関係を形成するヒントをつかむ授業。障害者との交流や、模擬体験学習。アイヌ民族の方を招いて、多文化と人権尊重の授業。海外でボランティアをしてきた若者、子どもの権利を広めようと活動している弁護士や犯罪や事故から身を守り命を守るために犯罪被害者遺族を招くこともある。
ほかにも、保健師、戦争体験者などの協力も得ている。
校務分掌で「道徳」担当者は大変な業務だが、今何が必要か、職場の合意を得ながら、有効な資料と講師を設定し、授業を準備しているのだ。
◆ 文部科学省が絶対にさせたい「道徳」とは
「心のノート」は、大きいカラーイラストや写真のイメージと、誰が書いたか文責の無い散文だらけだった。
「私たちの道徳」はどうだろうと読んでみると、またも誰の文章だろうか、主語は誰なんだ?となぞの文章が、正論らしきものを大上段に振りかざしている。
これまで、出版社で出していた道徳副教材では、作者の明確な文章からの「読み取り」を通して思考を深めていたがそれもできないのだ。
戦前の修身もそうだった。一般論のふりをして特定の価値を、異論を許さず押しつける。授業に使用するにも使用できないようなテキストで、補助教材の域を出ない。
しかし、道徳が「教科」になり、検定「教科書」使用を義務づけると何が起こるのだろうか。
まず、担任教師の授業づくりと指導負担が増大する、そのため指導資料に依存することになるだろう。
カリキュラムが目の前の子どもたちの実情と離れる可能性も大きいだろう。そして何よりも、教科書通りにすることで、間違いなく「日本国を愛する心」の指導が日本の隅々で行われるのだ。
心ある教師や現場は、真に国を愛するとは何か、愛とは、平和とは、を考え多様性と共生の道徳を指導するかもしれないが、ここまで述べてきたように多忙化と負担増の現場教師が、それを実践するのはなかなか困難だと予想できるのだ。
現在文科省から出されている資料は、問題もたしかにある。しかしまだ、愛国心の項目では「伝統文化」や「国際理解」「国際貢献」をとりあげて、多様に学習できるものである。これが検定を伴う教科書になったとき、いったいどんな指導内容が強制されるのか、不安でならない。
そして、教科書の指導で35時間を確保された時、各学校でこれまでに積み上げてきた多彩な授業を実施する時間がとれなくなるのだ。
◆ 「道徳」で評価はでぎるのか
現場での率直な反応は「できるわけがない」「通知表の作業がまた増えるのか」である。中には、「コンピューター処理だから、例文を選択入力できるようにすればいいんじゃないか」と早くも、多忙防止策で対抗しようという声まである。しかし生徒はたまったものじゃない。
新聞で「道徳」の教科化が報道されると、「道徳教科化しても、意味は特に無いと思います。教えるというよりも、日常生活や読書などで身についていくものだと思うので、指導者によって偏りが出たりするのでは?と思いました。それを評価するに当たって、何を基準にするのかもあやふやで、ただ教師の負担が増えるだけです。子どもを注意したり、常識を教えるのは、別に道徳の時間をとらなくても、先生や親が普段できることであり、わざわざやる必要があるのかな?」
「私は道徳を教科にすることには反対だ。今よりも道徳教育に力を入れるのはいい。生徒同士で話し合ったり、地域と交流したりする機会が増えるのはうれしい。しかしそれを教科化して評価するのはどうだろうかな。多くの人が懸念しているように、特定の価値観を押しつけてしまい、戦前の教育と同じことが起こらないとも限らないだろう。『悪を憎み、善を喜ぶ心情や行為』という表現が教育目標にあるが、この『悪』や『善』を、もしも誰かの個人的判断で決定し、それを押しつけてしまったら、大変なことにならないか。また数値では表さない、とは言ったものの、評価することには変わりない。誰かが誰かの見えない部分について評価するのはおかしい。そんなに単純なものじゃないのでは・・・。評価なんてものがあったら評価してもらおう、という子どもは間違いなくいるだろう。そのために演技をする子もいる。そうなったら下手をしたら今よりも状態が悪化することになるかもしれない。もしそうなら本末転倒だ。」と教科で提出するニュースノートに書いてきた。
ご明察である。また他の生徒は「人の心に点数をつけることができるほどの立派な人を、どうやって決めるのか。少し楽しみ。」と大人の浅薄な試みに、皮肉まじりの感想を書いてきた。批判できる良識のあるうちはいい。だが、徐々にこの感性は麻痺していくに違いないのだ。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 99号』(2014.12)
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