◆ 官僚の変化に潜むもの (東京新聞【時代を読む】)
宇野重規(東大教授)
政府が今の通常国会に提出した法案にミスが続出している。
三月二十五日に加藤勝信官房長官が国会に報告したところでは、政府提出法案のうち、実に法案二十三本と条約一本に文言の誤りがあったという。
菅義偉首相が特に力を入れているデジタル改革関連法案も、関連資料に四十五カ所の誤記があり、正誤表にまで間違いがあったというから、もはや笑い話にもならない。
何か異常な事態が政府の中で起きているのではないか。
国家公務員の志望者数も減少している。
人事院の発表によれば、二〇二一年度の採用試験で、中央省庁の幹部候補となる総合職の申込者は前年度と比べて14・5%も減少した。
総合職試験を導入して以降で最少であり、しかも減少は五年続きで、減少率も過去最大である。
一九年度、自己都合で退職した二十代の総合職が、一三年度と比べて四倍にもなっていることと合わせ、若者が霞が関に背を向けつつあることをうかがわせる。
「ブラック霞が関」(千正康裕著、新潮新書)が話題になるように、長時間にわたる過酷な労働環境が問題の背景にあることは間違いない。
ただし、官僚のハードワーク自体は新しい話ではない。彼ら彼女らの士気を引き下げ、内部のチェック機能を狂わせる、何か構造的な問題が起きているはずである。
個人的な経験から言えば、現在の若手や中堅の官僚の多くは非常に真面目で、、職務にもきわめて忠実である。
かつての官僚に「自分がこの国を動かしている」という国士タイプが多かったとすれば、現在は良い意味でも悪い意味でも、そういうタイプは少なくなった。
独善的でなくなったのは良いことだが、主体的に政策を立案する気概が乏しくなり、上からの指示を待つタイプが増えたとも言える。
おそらくこのような変化はわずかな期間には生じない。ここ数十年間の変化の積み重ねが、ここにきて目に見えやすくなったということではないか。
例えば一九九〇年代の政治改革の結果、「政治の優位」の名の下、政治家による官僚への統制が強化された。
その目的は、国民の民意を受けた政策の実現であり、政策決定過程の透明化のはずであった。
ところがいつか、政治家が人事権をてこに官僚支配を強化し、結果として「政治家の優位」が自己目的化したように思えてならない。
「政治の優位」と「政治家の優位」は似て非なるものである。
民主主義の一環として、国民の負託を受けた政党や政治家が、国民の目に見える環境において、政策決定を主導することが「政治の優位」である。
これに対し、政治家が官僚を圧迫したり、逆に官僚が政治家を「忖度(そんたく)」したりすることは「政治家の優位」ではあっても、「政治の優位」ではない。
そうなってしまえば、官僚からの積極的な政策提案は見られなくなるだろう。
大切なのは「官僚が奉仕するのは国民」という原則の再確認である。
官僚が政治家に従うのは、その背後に民意がある限りであり、政治家に服従することは自己目的ではない。
逆に政策のプロフェッショナルである官僚は、その知識や情報に基づいて、時に政治家の意図と反することを提言することで、むしろ国民の利益を実現することもある。
その能力を国民のために最大限活用できるよう、官僚と政治家の関係を見直す時期に来ているのではないか。
『東京新聞』(2021年4月25日【時代を読む】)
宇野重規(東大教授)
政府が今の通常国会に提出した法案にミスが続出している。
三月二十五日に加藤勝信官房長官が国会に報告したところでは、政府提出法案のうち、実に法案二十三本と条約一本に文言の誤りがあったという。
菅義偉首相が特に力を入れているデジタル改革関連法案も、関連資料に四十五カ所の誤記があり、正誤表にまで間違いがあったというから、もはや笑い話にもならない。
何か異常な事態が政府の中で起きているのではないか。
国家公務員の志望者数も減少している。
人事院の発表によれば、二〇二一年度の採用試験で、中央省庁の幹部候補となる総合職の申込者は前年度と比べて14・5%も減少した。
総合職試験を導入して以降で最少であり、しかも減少は五年続きで、減少率も過去最大である。
一九年度、自己都合で退職した二十代の総合職が、一三年度と比べて四倍にもなっていることと合わせ、若者が霞が関に背を向けつつあることをうかがわせる。
「ブラック霞が関」(千正康裕著、新潮新書)が話題になるように、長時間にわたる過酷な労働環境が問題の背景にあることは間違いない。
ただし、官僚のハードワーク自体は新しい話ではない。彼ら彼女らの士気を引き下げ、内部のチェック機能を狂わせる、何か構造的な問題が起きているはずである。
個人的な経験から言えば、現在の若手や中堅の官僚の多くは非常に真面目で、、職務にもきわめて忠実である。
かつての官僚に「自分がこの国を動かしている」という国士タイプが多かったとすれば、現在は良い意味でも悪い意味でも、そういうタイプは少なくなった。
独善的でなくなったのは良いことだが、主体的に政策を立案する気概が乏しくなり、上からの指示を待つタイプが増えたとも言える。
おそらくこのような変化はわずかな期間には生じない。ここ数十年間の変化の積み重ねが、ここにきて目に見えやすくなったということではないか。
例えば一九九〇年代の政治改革の結果、「政治の優位」の名の下、政治家による官僚への統制が強化された。
その目的は、国民の民意を受けた政策の実現であり、政策決定過程の透明化のはずであった。
ところがいつか、政治家が人事権をてこに官僚支配を強化し、結果として「政治家の優位」が自己目的化したように思えてならない。
「政治の優位」と「政治家の優位」は似て非なるものである。
民主主義の一環として、国民の負託を受けた政党や政治家が、国民の目に見える環境において、政策決定を主導することが「政治の優位」である。
これに対し、政治家が官僚を圧迫したり、逆に官僚が政治家を「忖度(そんたく)」したりすることは「政治家の優位」ではあっても、「政治の優位」ではない。
そうなってしまえば、官僚からの積極的な政策提案は見られなくなるだろう。
大切なのは「官僚が奉仕するのは国民」という原則の再確認である。
官僚が政治家に従うのは、その背後に民意がある限りであり、政治家に服従することは自己目的ではない。
逆に政策のプロフェッショナルである官僚は、その知識や情報に基づいて、時に政治家の意図と反することを提言することで、むしろ国民の利益を実現することもある。
その能力を国民のために最大限活用できるよう、官僚と政治家の関係を見直す時期に来ているのではないか。
『東京新聞』(2021年4月25日【時代を読む】)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます