「もの言える自由」裁判交流会ニュース (2008年8月9日発行 NO.10)
響
♪ 伝わる・つながる・広がる ♪
7月7日の第1回控訴審には、多くの方に傍聴にいらしていただき有難うございました。
7月4日(金)に突然、「地裁で傍聴者が多かったことが最近になってわかった。傍聴者は何名くらいですか?」と裁判所の書記官から連絡があり、こちらでは特に希望したわけではなかったのですが、結果的に傍聴券発行となりました。
傍聴券発行はないと連絡したあとだったので、開廷20分前の抽選に間に合わなかった方には大変申し訳ありませんでした。42席に対して45人が抽選に参加してくださいました。いつも沢山の方々の傍聴で支えて頂き、心から御礼申し上げます。
今回は控訴理由書と被控訴人(都)側の答弁書の「陳述」(提出)、こちらからの証拠として陳述書(元校長から見ての「指導」の処遇への影響、祝辞が不適切でないことを渡部元校長が書いて下さり、教職員の方々数人からも「指導」の影響について書いていただきました。)を提出し、証人申請も行いました(都教委の井出元指導部長、卒業式に出席していた元生徒、原告本人、の3人)。証人については留保となり、採用されるかどうかはまだ未定です。この他、原告本人の意見陳述を5分程度行いました。
┏━━━━━━┓
┃控訴理由概略┃
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1,本件事案の本質
本件訴訟は、来賓として祝辞を述べたこと(表現行為)に対して、都教委らが行った指導決定等の行為につき、控訴人の憲法上の権利(言論・表現の自由〔21条1項〕、思想・良心の自由〔19条〕、私的領域に干渉されず自律的に自ら決定する権利〔13条〕、名誉権〔13条〕)及び勤務関係上の権利ないし法的利益を侵害するものとして違憲性・違法性を問う憲法訴訟である。本件祝辞の表現行為について憲法上の権利保障が及ぶことは明らかである。
控訴人は公務員であるが、現行憲法下においては公務員も個人として基本的人権の享有主体となり、憲法上保障された権利に対する制約は正当な根拠なく許されないことは当然である。週休日における職務外の行為である本件祝辞は、私的行為として、憲法上の権利保障が及ぶものである。
卒業式の来賓紹介において、卒業生に向けた励ましとして、短い餞のメッセージを添えることは来賓として自然な行為であり、本件祝辞の内容を見ても、名誉殿損や犯罪の扇動など表現の自由の保障の有無が問題とされる発言とは全く異なり、T高校の自主自律の校風を踏まえて社会に出て行く生徒たちに向けた祝辞としてふさわしい内容というべきものである。本件祝辞の態様も、来賓紹介のプログラムに沿って、控訴人の紹介時に、「おめでとうございます」という言葉に続けて短い餞のメッセージを添えたもので、適切なものであった。
しかし、東京都教育委員会らは、本件祝辞に対して、報告・事情聴取の対象としたうえ、「不適切な発言」との評価をなして指導決定を行い、これに基づき指導の実施・公表を行った。これらの都教委らの一連の行為は、表現の内容そのものに着目して、表現行為を規制するものであって、言論・表現の自由ないし思想・良心の自由の重大な侵害となることは明確である。さらに、私的領域への干渉として、私的領域に干渉されず自律的に自ら決定する権利の侵害となるとともに、不適切な発言を行ったため指導が必要な教員であるとのレッテル貼りにより、控訴人の名誉権の侵害ともなる。
2.原判決の論旨の不当性
原判決は、本件事案の本質を見誤り、憲法上の権利侵害の有無が問題となっていることを全く看過し、独自の誤った論旨で不当な判決をしているため、直ちに破棄されるべきである。
(1)規制の対象が憲法上保護された権利行使であることを看過していること
原判決は、本件祝辞が私的行為であることは認めているが、憲法上保障されている表現行為であること自体を無視し、憲法上の権利侵害が問題となっているという視点自体全く欠落している。
(2)違法性判断基準の不当性
原判決は「非権力的事実行為」という独自の法概念を持ち出して、規制行為の性質論として「非権力的事実行為」ではあたかも法的根拠なくして広く権利侵害が許容されるかのような緩やかな判断基準を立てたうえ、本件指導を法定外の柔軟な措置であるから明確な法的根拠を必須とせず制約できるとし、違法ではないという結論を導いている。しかし、憲法上保障されている権利の侵害の有無は、当該権利の性質に基づく違憲性判断基準により判断されるべきであって、憲法上の権利侵害であることを無視して、「非権力的事実行為」の概念を根拠に独自の違法性判断基準を持ち込むのは極めて不当である。
以下、「第2 各校長による都教委への報告の違法性」「第3 都教委による事情聴取の違法性」「第4 都教委による指導決定に基づく校長指導及び指導結果公表の違法性」を論じた。
地裁判決が「国旗国歌」に関する指導との関連で、本件発言が問題があるかのように判示したため、念のため、この点についても不適切とは評価しえないことを反論した。
第1に本件指導の実質的根拠が存在しないこと。「対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与える」:という評価は、規制した都教委ですら主張していないし、「印象」如何は社会的害悪になりえないこと。
第2に、この祝辞は「国旗国歌に関する指導」ではなく、T高校の教育方針を踏まえた祝辞と理解できること。
これについては地裁に提出した同校元教頭の陳述書や出席した生徒・保護者のアンケートをもとに論証した。
第3に、仮に国旗・国歌への対応は個々人の判断に委ねられている趣旨の意味合いが含まれていると解釈するとしても、憲法19条の思想・良心の自由の保障、および政府見解と矛楯しないことから、そのような趣旨の発言が何ら不適切とされるものではないこと、を、衆議院内閣委員会での小渕総理大臣答弁などを引用して詳しく述べた。
このほか、東京都の個人情報の保護に関する条例に照らしても、週休日の私的活動に対する本件報告は違法であること、卒業式後に何らかの苦情が寄せられたという事実の記録は存在せず、報告書にも書かれていないこと、卒業式ビデオとその分析結果からも会場のざわつきや生徒の動きは客観的に存在しないこと、指導の事実は、人事考課の検討において、必ずマイナス評価の一要素(減点要素)となり、人事処遇の評価・判断に直結不利益になること、指導決定の公表により、指導を受けた教員の氏名は他の教員に容易に知られうること等々を論証した。
♪ 原告より ♪
いよいよ控訴審が始まりました。地裁判決では、高校生に対して、国旗国歌について自分で判断するように指導したかのように聞こえるから不適切であるということを、地裁の篠原淳一裁判官が判決で突然持ち出しました。
裁判官がここまで深みにはまって権力と一体化しているのなら、裁判を進めることが空しく思えるほどですが、では「自分で判断し、行動する力」を磨くように指導したとしたら不適切なのか、学校は自分自身で判断せず服従することを教える場であれというのか、と、人間としての根源が揺さぶられる思いがします。
都教委は巧妙に本音を言わなかったけれど裁判官が代弁したために、この裁判は「もの言える自由」だけではなく、もう一つの非常に思いテーマを与えられました。高校生に対して国旗国歌について自分で判断したかのように聞こえたら不適切であるのでしょうか?
「人権」どころか生存すら脅かされる不安定雇用の労働者を多数生み出す必要があるから、自分で判断するよう教育するなど無駄なこと、従順で深く考えずにいてくれれば結構、という誰かえげつない人たちの「筋書き」がむき出しに見える社会になってきました。それを受け入れてしまってよいのでしょうか?まさか?
何が起こっているのかを問い続け、この地裁判決を高裁で覆すために力を尽くしたいと思います。控訴審を皆様に支えていただきますよう、ご支援をよろしくお願いいたします。
響
♪ 伝わる・つながる・広がる ♪
控訴審 第2回 口頭弁論■ 控訴審始まる
10月1日(水) 午前10時半開廷
東京高裁717号法廷
午前10時10分から裁判所正面玄関前で傍聴抽選を行いますので、それまでにいらしてください。よろしくお願いします。
7月7日の第1回控訴審には、多くの方に傍聴にいらしていただき有難うございました。
7月4日(金)に突然、「地裁で傍聴者が多かったことが最近になってわかった。傍聴者は何名くらいですか?」と裁判所の書記官から連絡があり、こちらでは特に希望したわけではなかったのですが、結果的に傍聴券発行となりました。
傍聴券発行はないと連絡したあとだったので、開廷20分前の抽選に間に合わなかった方には大変申し訳ありませんでした。42席に対して45人が抽選に参加してくださいました。いつも沢山の方々の傍聴で支えて頂き、心から御礼申し上げます。
今回は控訴理由書と被控訴人(都)側の答弁書の「陳述」(提出)、こちらからの証拠として陳述書(元校長から見ての「指導」の処遇への影響、祝辞が不適切でないことを渡部元校長が書いて下さり、教職員の方々数人からも「指導」の影響について書いていただきました。)を提出し、証人申請も行いました(都教委の井出元指導部長、卒業式に出席していた元生徒、原告本人、の3人)。証人については留保となり、採用されるかどうかはまだ未定です。この他、原告本人の意見陳述を5分程度行いました。
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┃控訴理由概略┃
┗━━━━━━┛
1,本件事案の本質
本件訴訟は、来賓として祝辞を述べたこと(表現行為)に対して、都教委らが行った指導決定等の行為につき、控訴人の憲法上の権利(言論・表現の自由〔21条1項〕、思想・良心の自由〔19条〕、私的領域に干渉されず自律的に自ら決定する権利〔13条〕、名誉権〔13条〕)及び勤務関係上の権利ないし法的利益を侵害するものとして違憲性・違法性を問う憲法訴訟である。本件祝辞の表現行為について憲法上の権利保障が及ぶことは明らかである。
控訴人は公務員であるが、現行憲法下においては公務員も個人として基本的人権の享有主体となり、憲法上保障された権利に対する制約は正当な根拠なく許されないことは当然である。週休日における職務外の行為である本件祝辞は、私的行為として、憲法上の権利保障が及ぶものである。
卒業式の来賓紹介において、卒業生に向けた励ましとして、短い餞のメッセージを添えることは来賓として自然な行為であり、本件祝辞の内容を見ても、名誉殿損や犯罪の扇動など表現の自由の保障の有無が問題とされる発言とは全く異なり、T高校の自主自律の校風を踏まえて社会に出て行く生徒たちに向けた祝辞としてふさわしい内容というべきものである。本件祝辞の態様も、来賓紹介のプログラムに沿って、控訴人の紹介時に、「おめでとうございます」という言葉に続けて短い餞のメッセージを添えたもので、適切なものであった。
しかし、東京都教育委員会らは、本件祝辞に対して、報告・事情聴取の対象としたうえ、「不適切な発言」との評価をなして指導決定を行い、これに基づき指導の実施・公表を行った。これらの都教委らの一連の行為は、表現の内容そのものに着目して、表現行為を規制するものであって、言論・表現の自由ないし思想・良心の自由の重大な侵害となることは明確である。さらに、私的領域への干渉として、私的領域に干渉されず自律的に自ら決定する権利の侵害となるとともに、不適切な発言を行ったため指導が必要な教員であるとのレッテル貼りにより、控訴人の名誉権の侵害ともなる。
2.原判決の論旨の不当性
原判決は、本件事案の本質を見誤り、憲法上の権利侵害の有無が問題となっていることを全く看過し、独自の誤った論旨で不当な判決をしているため、直ちに破棄されるべきである。
(1)規制の対象が憲法上保護された権利行使であることを看過していること
原判決は、本件祝辞が私的行為であることは認めているが、憲法上保障されている表現行為であること自体を無視し、憲法上の権利侵害が問題となっているという視点自体全く欠落している。
(2)違法性判断基準の不当性
原判決は「非権力的事実行為」という独自の法概念を持ち出して、規制行為の性質論として「非権力的事実行為」ではあたかも法的根拠なくして広く権利侵害が許容されるかのような緩やかな判断基準を立てたうえ、本件指導を法定外の柔軟な措置であるから明確な法的根拠を必須とせず制約できるとし、違法ではないという結論を導いている。しかし、憲法上保障されている権利の侵害の有無は、当該権利の性質に基づく違憲性判断基準により判断されるべきであって、憲法上の権利侵害であることを無視して、「非権力的事実行為」の概念を根拠に独自の違法性判断基準を持ち込むのは極めて不当である。
以下、「第2 各校長による都教委への報告の違法性」「第3 都教委による事情聴取の違法性」「第4 都教委による指導決定に基づく校長指導及び指導結果公表の違法性」を論じた。
地裁判決が「国旗国歌」に関する指導との関連で、本件発言が問題があるかのように判示したため、念のため、この点についても不適切とは評価しえないことを反論した。
第1に本件指導の実質的根拠が存在しないこと。「対立状況の一端を持ち込むかのような印象を与える」:という評価は、規制した都教委ですら主張していないし、「印象」如何は社会的害悪になりえないこと。
第2に、この祝辞は「国旗国歌に関する指導」ではなく、T高校の教育方針を踏まえた祝辞と理解できること。
これについては地裁に提出した同校元教頭の陳述書や出席した生徒・保護者のアンケートをもとに論証した。
第3に、仮に国旗・国歌への対応は個々人の判断に委ねられている趣旨の意味合いが含まれていると解釈するとしても、憲法19条の思想・良心の自由の保障、および政府見解と矛楯しないことから、そのような趣旨の発言が何ら不適切とされるものではないこと、を、衆議院内閣委員会での小渕総理大臣答弁などを引用して詳しく述べた。
このほか、東京都の個人情報の保護に関する条例に照らしても、週休日の私的活動に対する本件報告は違法であること、卒業式後に何らかの苦情が寄せられたという事実の記録は存在せず、報告書にも書かれていないこと、卒業式ビデオとその分析結果からも会場のざわつきや生徒の動きは客観的に存在しないこと、指導の事実は、人事考課の検討において、必ずマイナス評価の一要素(減点要素)となり、人事処遇の評価・判断に直結不利益になること、指導決定の公表により、指導を受けた教員の氏名は他の教員に容易に知られうること等々を論証した。
♪ 原告より ♪
いよいよ控訴審が始まりました。地裁判決では、高校生に対して、国旗国歌について自分で判断するように指導したかのように聞こえるから不適切であるということを、地裁の篠原淳一裁判官が判決で突然持ち出しました。
裁判官がここまで深みにはまって権力と一体化しているのなら、裁判を進めることが空しく思えるほどですが、では「自分で判断し、行動する力」を磨くように指導したとしたら不適切なのか、学校は自分自身で判断せず服従することを教える場であれというのか、と、人間としての根源が揺さぶられる思いがします。
都教委は巧妙に本音を言わなかったけれど裁判官が代弁したために、この裁判は「もの言える自由」だけではなく、もう一つの非常に思いテーマを与えられました。高校生に対して国旗国歌について自分で判断したかのように聞こえたら不適切であるのでしょうか?
「人権」どころか生存すら脅かされる不安定雇用の労働者を多数生み出す必要があるから、自分で判断するよう教育するなど無駄なこと、従順で深く考えずにいてくれれば結構、という誰かえげつない人たちの「筋書き」がむき出しに見える社会になってきました。それを受け入れてしまってよいのでしょうか?まさか?
何が起こっているのかを問い続け、この地裁判決を高裁で覆すために力を尽くしたいと思います。控訴審を皆様に支えていただきますよう、ご支援をよろしくお願いいたします。
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