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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

日本史上最大規模の民衆騒擾になった米騒動から百年の研究発表

2019年08月17日 | 平和憲法
  =越中史壇会特別研究発表会の報告=
 ◆ 米騒動100年を振り返って~成果と課題 (週刊新社会)


 昨年は『米騒動100年』。6月16日、富山市内で越中史壇会の『米騒動100年を振り返って~成果と課題』と題する特別研究発表会が行われた。
 報告2本の発表は各35分、発表会全体で2時間は短すぎたが、その発表概要の報告である。
 1、『明治・大正期の米騒動と救済-富山市を事例に』富山市学芸員;尾島志保氏
 富山市で起きた1890(明治23)年及び1918(大正7)年の米騒動を、「モラル・エコノミー」概念に着目し、要求行動の形態と救済のあり様の分析・比較から当時の秩序維持の仕組みや行政機能を明らかにする。
 (1)1890年米騒動と救済ー民間・行政並列の救済

 富山市は、戸数1万3429戸(内農家107戸)で人口5万6957人。
 白米1升4~5銭が1月下旬8銭に。

 民衆の行動形態は、集会・相談・押し寄せ・救助願いで、市議や富裕層宅・米屋等にも押しかけているが、向かった先は市役所が中心。
 行政・富裕層は、義捐金を財源に「真実貧窮旦夕に迫」る者246人に粥を施与
 6月白米1升10銭8厘に。
 市中に放火を脅す張り紙の掲示や暴言・暴力・打ちこわし発生。
 市会は借入金で臨時予算を組み、日平均戸数1447弱・大人3898人に白米1日1合、小人1487人に白米1日5勺を給付し貧民救助
 明治期の救済は、騒動が大きくならないうちに富裕層の義捐金で慈善の炊き出し実施をした。騒動が大きくなると市費で施米等行政による積極的介入がなされた。
 (2)1918年米騒動ー行政先導型の救済

 富山市は、戸数1万6229戸(内農家101戸)で人ロ7万3032人。
 下等米1石の白米価格が、1917年7月23.7円、1918年7月32円、8月39円に。
 7月22日、商人の施米に漏れた婦女200名が市役所に押しかける。
 8月8日、清水町の「貧民婦女」40名弱が米相場師宅と市役所を訪れたのを契機に、連日市役所に女性たちが救済要求、市は8月14日から廉売開始。
 市役所に訴えるが、暴言・暴力は見られず女性の割合が多く男性も交じる。
 米相場師が市長に寄付を申し出て、市はこれで外米を購入した。
 2000戸約1万人を対象に国内米を1升5銭引(40銭↓35銭)。1200戸対象に1人1日3合を施米。
 外米は届き次第20銭程で販売。富裕層から市への寄付で市は施米実施の形が出来上り、1918年米騒動はそれまでの経験を踏まえ対応した。
 1890年から1918年の間をより詳細にみていけば、要求行動を起点としながらも互いに試行錯誤していく様子が現れてくる。
 2、『中流社会の生活難と米騒動』滑川市博物館:近藤浩二氏

 県内最大の2000人規模まで発展した滑川町の米騒動は、女性や困窮層が少なく「中産階級」と「智識階級」の男性が多数参加していたことが拡大した最大の要因だ。
 主に新聞資料を用い、中流や下層の生活状態を確認し、下層だけでなく、中流社会の生活難が米騒動の拡大に影響を与えていた可能性を考える。
 (1)中流社会の生活難ー1918年(1912年(明治45年)の生活難は記載略)
 月俸15円以下の者が多く存在。官吏は体面を保ち家計の苦しさを□外することはないが、下層の生活より悲惨だった。
 大戦景気で日雇賃上昇や、職工不足等で労働者はさほど困っていない。
 官公吏や教員、巡査等に臨時手当や増給があるが、解決策にはならず、新聞も抜本的な待遇改善(増給)を求め、中流の危機や生活改善の特集記事や書籍が出版され、教員の転職や教員・巡査の欠員が話題になる等社会問題化し、中流層の俸給生活者を評して『洋服細民』なる風刺画も出る。
 (2)今後の課題

 米騒動の関与者は下層生活困窮者が多いが、中学教師の日記に「入浴後に金川商店に米騒動の見学に行った」ことが記載されている。このような野次馬も騒動を拡大させた一因か。
 中流階層の不満の声は他の地域でも上がっていたが、滑川町だけ顕在化したのはなぜか?
 米騒動が日本史上最大規模の民衆騒擾になったのは、中流層の生活難が社会問題化していたことも関係していたが、社会的な立場がある中流層が実際どのように騒動にかかわったか、当時の日記・書簡から事例を集める必要がある。
 3、まとめとして
   ~民衆「押しかけ・廉売要求」
   ~全国化していった理由 新聞の力が大きな役割


 富山県では「押しかけ・廉売要求」が当時の困窮細民の行動手段としてあったこと、米騒動が全国化するに当時中流層が購読した新聞の力が大きな役割を果たしたこと、富山県から全国に出かけていた売薬業者の存在も大きかったかとも思われることなどがあげられる。
 今後は、資料収集・考究を進める課題だと、浅生幸子氏(女性史研究家)がまとめた。
 (レポート=冨山・野徳賢司)

『週刊新社会』(2019年8月11日)

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