▼ G.オーウェル 『ナショナリズム覚え書き』
…私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何干万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣である。
しかし第二には―そしてこの方がずっと重要なのだが―自己をひとつの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす。
ナショナリズムと愛国心とを混同してはならない。
通常どちらも非常に漠然とした意味で使われているので、どんな定義を下しても必ずどこかから文句が出そうだが、しかし両者ははっきり区別しなければならない。
というのは、そこには二つの異なった、むしろ正反対の概念が含まれているからである。
私が「愛国心」と、言う場合、自分では世界中でいちばんよいものだとは信じるが他人にまで押しつけようとは思わない、特定の地域と特定の生活様式に対する献身を意味する。愛国心は軍事的な意味でも文化的な意味でも本来防御的なものである。
それに反して、ナショナリズムは権力欲と切り離すことができない。すべてのナショナリストの不断の目標は、より大きな勢力、より大きな威信を獲得すること、といってもそれは自己のためではなく、彼がそこに自己の存在を没入させることを誓った国なり何なりの単位のために獲得することである。(略)
政治評論家だの軍事評論家だのは、占星術師と同じで、どんな誤りを犯してもめったに失脚することはない。
というのも、これらの熱心な信者が彼らに期待しているものは事実の鑑定ではなく、ナショナリスティックな忠誠心の刺激にすぎないからである。そして芸術的判断、とくに文学的判断は、しばしば政治的判断と同様の誤りを犯す。
インドの国民会議派としてはキプリング〔大英帝国礼讃の詩を多く書いた。1865-1936〕の作品を喜んで読むことは困難だろうし、イギリスの保守党員はマヤコフスキー〔ソビエト初期の代表的詩人。未来派運動を推進。1893-1930〕の作品に価値を認めるわけにはいかないだろうが、その場合、自分と、主義を異にするような作品は文学的見地からも駄作に違いないと主張したくなる。ナショナリスティックな偏見の強い人はしばしば不正の意識なしにこうしたすりかえをやってのける。(略)
ナショナリストは自己の陣営によってなされた暴虐行為は非難しないばかりか、そんなものは耳にもはいらないという珍しい能力を持っている。
まる六年闇、イギリスのヒトラー礼讃者たちはダッハウやブッヘンヴァルト〔いずれもナチスの捕虜収容所があった所〕の存在に耳をふさいできた。
そしてドイツの強制収容所をもっとも声高く非難した人々は、ソヴィエトにも強制収容所があることに全然気づかないか、あるいはせいぜい、ごくぼんやりとしか気づかなかった。何百万という人々を餓死に追いやった一九三三年のウクライナの飢饉のような大事件も、大多数のソヴィエトびいきのイギリス人の目にはまるで留まらなかった。
多くのイギリス人は戦争中のドイツやポーランドにおけるユダヤ人の皆殺しについてはほとんど聞かなかった。彼ら自身の反ユダヤ感情のゆえに、この巨大な犯罪が意識に上らなかったのである。
ナショナリストの思考には、真実でありながら嘘である、知っていながら知らない、といった事実がいくらもある。
わかっている事実が、耐えがたいものであるために、習慣的に押しのけられて論理的思考過程の中にはいることを許されないか、逆にあらゆる考慮を払われながら、自分自身の心の中でさえ、事実として認められない。
すべてのナショナリストには、過去は改変できるものだという信仰が付きまとう。彼は思い通りに事の運ぶ空想の世界―そこでは、たとえばスペインの無敵艦隊が成功し、ロシア革命は一九一八年に押しつぶされたことになる―にある時間を過ごし、可能な時にはいつでも、この空想の世界の断片を史書の中に持ち込む。現代のブロパガンダの多くは純然たる捏造である。
重要な事実が隠蔽され、日時が改変され、前後に関係なく一部分だけ引用して意味を変えてしまう。起こるべきでなかったと思われる事件については口をぬぐって語らず、最後には否定する。(略)
要するに、恐怖、憎悪、嫉妬、権力崇拝といった感情がはいってくるやいなや、現実感覚は狂ってしまうのである。そしてすでに指摘したように、正邪の意識も狂ってしまうのである。
どんな犯罪も「自分たちの」側がやったとなれば許されないものはない。ただのひとつもない。その犯罪が行なわれたことは否定しないとしても、またほかの場合に自分でも告発してきたものとそっくり同じだとはわかっていても、そして論理的にはそれが不正だと認めながらも間違っているとは感じられないのである。
忠誠心のからまるところ、憐欄は働きを止める。(略)
もしソヴィエトを憎み恐れているならば、もしアメリカの富と力を嫉妬しているならば、もしユダヤ人を軽蔑しているならば、もしイギリスの支配階級に対して劣等感を持っているならば、ただ考えているだけでは、そうした感情を取り除くことはできない。
が、少なくとも自分にそういう感情のあることを認め、それが思考過程を歪めるのを防ぐことは出来るはずである。避けることのできない、そして政治的行動のためには必要でさえあるかも知れない感情的な衝動は、現実の容認と両立しなければならない。しかし繰り返して言うが、そのためには「道徳的努力」が必要である。
そして今日のイギリス文学は、少なくとも現代の重要問題に関する限り、そうした努力を払う覚悟を持った人間がいかに少ないかを物語っている。
(1945)
『オーウェル評論集2』(平凡社ライブラリー)
…私が「ナショナリズム」と言う場合に真っ先に考えるものは、人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何干万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣である。
しかし第二には―そしてこの方がずっと重要なのだが―自己をひとつの国家その他の単位と一体化して、それを善悪を超越したものと考え、その利益を推進すること以外の義務はいっさい認めないような習慣をさす。
ナショナリズムと愛国心とを混同してはならない。
通常どちらも非常に漠然とした意味で使われているので、どんな定義を下しても必ずどこかから文句が出そうだが、しかし両者ははっきり区別しなければならない。
というのは、そこには二つの異なった、むしろ正反対の概念が含まれているからである。
私が「愛国心」と、言う場合、自分では世界中でいちばんよいものだとは信じるが他人にまで押しつけようとは思わない、特定の地域と特定の生活様式に対する献身を意味する。愛国心は軍事的な意味でも文化的な意味でも本来防御的なものである。
それに反して、ナショナリズムは権力欲と切り離すことができない。すべてのナショナリストの不断の目標は、より大きな勢力、より大きな威信を獲得すること、といってもそれは自己のためではなく、彼がそこに自己の存在を没入させることを誓った国なり何なりの単位のために獲得することである。(略)
政治評論家だの軍事評論家だのは、占星術師と同じで、どんな誤りを犯してもめったに失脚することはない。
というのも、これらの熱心な信者が彼らに期待しているものは事実の鑑定ではなく、ナショナリスティックな忠誠心の刺激にすぎないからである。そして芸術的判断、とくに文学的判断は、しばしば政治的判断と同様の誤りを犯す。
インドの国民会議派としてはキプリング〔大英帝国礼讃の詩を多く書いた。1865-1936〕の作品を喜んで読むことは困難だろうし、イギリスの保守党員はマヤコフスキー〔ソビエト初期の代表的詩人。未来派運動を推進。1893-1930〕の作品に価値を認めるわけにはいかないだろうが、その場合、自分と、主義を異にするような作品は文学的見地からも駄作に違いないと主張したくなる。ナショナリスティックな偏見の強い人はしばしば不正の意識なしにこうしたすりかえをやってのける。(略)
ナショナリストは自己の陣営によってなされた暴虐行為は非難しないばかりか、そんなものは耳にもはいらないという珍しい能力を持っている。
まる六年闇、イギリスのヒトラー礼讃者たちはダッハウやブッヘンヴァルト〔いずれもナチスの捕虜収容所があった所〕の存在に耳をふさいできた。
そしてドイツの強制収容所をもっとも声高く非難した人々は、ソヴィエトにも強制収容所があることに全然気づかないか、あるいはせいぜい、ごくぼんやりとしか気づかなかった。何百万という人々を餓死に追いやった一九三三年のウクライナの飢饉のような大事件も、大多数のソヴィエトびいきのイギリス人の目にはまるで留まらなかった。
多くのイギリス人は戦争中のドイツやポーランドにおけるユダヤ人の皆殺しについてはほとんど聞かなかった。彼ら自身の反ユダヤ感情のゆえに、この巨大な犯罪が意識に上らなかったのである。
ナショナリストの思考には、真実でありながら嘘である、知っていながら知らない、といった事実がいくらもある。
わかっている事実が、耐えがたいものであるために、習慣的に押しのけられて論理的思考過程の中にはいることを許されないか、逆にあらゆる考慮を払われながら、自分自身の心の中でさえ、事実として認められない。
すべてのナショナリストには、過去は改変できるものだという信仰が付きまとう。彼は思い通りに事の運ぶ空想の世界―そこでは、たとえばスペインの無敵艦隊が成功し、ロシア革命は一九一八年に押しつぶされたことになる―にある時間を過ごし、可能な時にはいつでも、この空想の世界の断片を史書の中に持ち込む。現代のブロパガンダの多くは純然たる捏造である。
重要な事実が隠蔽され、日時が改変され、前後に関係なく一部分だけ引用して意味を変えてしまう。起こるべきでなかったと思われる事件については口をぬぐって語らず、最後には否定する。(略)
要するに、恐怖、憎悪、嫉妬、権力崇拝といった感情がはいってくるやいなや、現実感覚は狂ってしまうのである。そしてすでに指摘したように、正邪の意識も狂ってしまうのである。
どんな犯罪も「自分たちの」側がやったとなれば許されないものはない。ただのひとつもない。その犯罪が行なわれたことは否定しないとしても、またほかの場合に自分でも告発してきたものとそっくり同じだとはわかっていても、そして論理的にはそれが不正だと認めながらも間違っているとは感じられないのである。
忠誠心のからまるところ、憐欄は働きを止める。(略)
もしソヴィエトを憎み恐れているならば、もしアメリカの富と力を嫉妬しているならば、もしユダヤ人を軽蔑しているならば、もしイギリスの支配階級に対して劣等感を持っているならば、ただ考えているだけでは、そうした感情を取り除くことはできない。
が、少なくとも自分にそういう感情のあることを認め、それが思考過程を歪めるのを防ぐことは出来るはずである。避けることのできない、そして政治的行動のためには必要でさえあるかも知れない感情的な衝動は、現実の容認と両立しなければならない。しかし繰り返して言うが、そのためには「道徳的努力」が必要である。
そして今日のイギリス文学は、少なくとも現代の重要問題に関する限り、そうした努力を払う覚悟を持った人間がいかに少ないかを物語っている。
(1945)
『オーウェル評論集2』(平凡社ライブラリー)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます