徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

なぜ海外ボランティアをするのか

2011年07月08日 | 海外ボランティア

駒ヶ根訓練所では各自に4-5畳くらいの個室が準備されている。そこには机やベットなどの備品があり、机には3冊の本が置かれている。その中の一冊の本の著者を見ると中根千枝とある。中根氏は著名な文化人類学者で、私も”未開の顔・文明の顔”等の著書は読んでいて知っている。手にとって読み始めるとイキナリ目からウロコが落ちるような事が書いてある。”日本人の可能性と限界”というタイトルで、アーこれは協力隊のバイブルだな、と感じさせる深い内容を扱っている。まだ読み始めたばかりだが、この本はじっくり時間をかけて読む価値が有りそうだ。

読み始めていきなりショックを受けた部分を紹介する。以下抜粋” 発展途上国援助とは、つまり、貧しい国、人々を助けるということである。このことが論議されると、かならず、日本にはまだまだ恵まれない人が多く、....どうして外国の貧しい人々を助けなければならないか、という意見が強く出される。...こうした日本でよく出る意見にはすべて共通した見方が背後にあることが指摘できる。それは、すべてのことは、その国自体で解決すべきである、という見方である。...これは伝統的に日本人の日常生活をも支配している通念で、それぞれが努力し、自分のウチのことは自分たちで責任を持ってどこまでもやっていこう、という考えで社会が成り立っているという信条に立脚している。

日本の伝統的価値観に従えば、援助とか助け合いということは、あくまでおなじ仲間のあいだでおこなわれ、みも知らぬ他人を援助すべきなどという信条は無い。気まぐれに、あるいはたんなる通りすがりの同情から乞食にめぐんでやることはあっても、それは持てるものの、持たざるものへの義務ではない。” これに対して西欧では”ノーブレス・オブリージュ:持てるものの義務”があると続く。

この指摘に私の目のウロコは落ちた。誤解を恐れずに書くと、東北大震災のボランティアは実はボランティアではなく、助け合いなのだ。

そして、”なぜ海外ボランティアをするのか”という事と、ここで指摘されている日本の伝統的価値観とが絡み合い深刻な問題を引き起こす。なぜなら、ノーブレス・オブリージュ:道徳的義務という文化的伝統のない場合、完全な無償の援助は存在せず、かならず何らかのリターンを前提としている。すなわち”義理人情”の生まれる文化的土壌がここにある。

この心情つまり、援助には感謝があって然るべき、というのは我々ボランティア自身も持っている感覚だ。しかし、ここでハッキリ言っておく。これは日本人だけで通用し、世界の多くの国々では通用しない感覚なのである。これを、これからボランティアとして海外に向かおうとしている我々は肝に銘ずるべきであろう。援助は完全に無償であり、感謝を期待してはいけない、と言うことを...